8月5日(金)名誉館長に就任

「椎名誠 旅する文学館」が本日よりオープンする。私は初代の「名誉館長」に就任する。「名誉」というからには、実質的な館長は他にいて、私は名ばかりの、つまりはお飾りの館長ということになるが、それでは何なので、私に出来ることはないかと考えた末に、椎名誠に全著作インタビューをすることにした。

 椎名の著作は200点くらいということだが、それそれの著作の裏側にどういう動機、あるいは事情、さらには内幕話があったのか、それを著者本人に聞いていこうという企画である。1回1作、アップは週一。つまり順調に行けば4年間で全著作インタビューは完了することになる。

 たとえば、『椎名誠の増刊号』(小説新潮増刊・平成四年/のちに新潮文庫『自走式漂流記』平成八年)に「椎名誠、自作を語る」というページがあり、その『さらば国分寺書店のオババ』の項で、椎名は「最初に依頼されたのは青年向け読書のすすめ的な本で、これも正月休みに書きました」とそこで語っている。ところが『さらば国分寺書店のオババ』が出版されたのは、1979年11月なのである。正月休みに書いた本を幾度も書き直し、推敲し、刊行が11月になったということも人によっては中にはあるかもしれないが、当時の版元と椎名の事情を考えれば、この場合そういうことはあり得ない。ただの勘違いである。こういう誤りも今回は正していきたい。

 もう一つは、まだインタビューしていないのだが、『わしらは怪しい探険隊』の裏話で聞きたいことがあったりするのである。新潟の粟島にいったとき、上野発の夜行列車の出発時刻は夜の11時とか11時半なのに、夕方の4時に上野駅に集合するのだ。で、ホームで場所取り。延々と待つのである。交代で食事に行ったり、駅前にパチンコしに行ったりと結構自由ではあったけれど(そのために座る席を確保できたから結果的にはいいんだけれど)、しかしなぜ指定席券を買わなかったのか。もう我々は働いていたのでその指定席料金を払えなかったわけではない。わざわざそんな苦労をする必要はない。

 しかも誰一人として、そのことに疑問を持たないのはヘンだ。実は私も最近になって、あれはヘンだよなあと気がついた。三宅島にいくときに、船に乗る前に小岩のスーパーまで食料を買い出しにいき、どうしてこんなことをするのかなあと疑問に思ったことはあるが、上野駅のホームでずっと待っていたことをこないだまで忘れていたのだ。

 ホームのその列はずっと伸びて、我々は階段のところに並んでいたのだが(ということは我々よりも先に並んでいた連中がたくさんいたということだ)、その階段に座って、膝の間に顔を埋めている写真が残されている。というよりも、その写真を見て、我々の前に並んでいる人がいると気がついたのだ。それでは4時に上野駅に集合という判断もけっして間違いではない。もっと遅くいけば、もう座れないだろう。写真に映っているのは私と、当時デパートニューズ社にいた先輩二人の三人のみ。あとの連中は食事に行ったのかどうかはわからない。この三人はこれから夏の旅行に出かけるというのに疲労しきった顔だ。とてもレジャー直前とは思えない。当時はたしかまだ特急ときが走る前で、上野から新潟までは8時間くらいかかったような気がする。しかも夜行列車は超満員。車内はむんむんして暑い。沢野が氷いちごを食べる真似をして、それがすごく涼しげに見えたことを覚えている。こういうふうに聞きたいことがあったりもするのである。

 もっとも私が探険隊に参加していたのは最初の数年だけで、あとは椎名と旅の行動をともにしていないので、80年代後半からは客観的に見た椎名像ということになるだろう。そういう書物については純粋に読者として質問していきたい。

 たとえば、1987年に出版された『パタゴニア』には、その直前にブルータスに書いたエッセイがまるごと収録されているはずだが、そのことを著者は記憶しているか聞いてみたい。これがとても印象深いエッセイで、忘れがたいのである。雑誌掲載時に感心し、これは小説にすべき素材だよなと思ったのだが、書き下ろしの『パタゴニア』を読んでいたら、ここに出てきてびっくりした覚えがある。『パタゴニア』を素晴らしい書にしているのはそのエッセイを挿入してきりりと引き締まったからにほかならない。

 その『パタゴニア』もいま再読したらどんな印象を持つのかわからない。それも楽しみだ。この「椎名誠全著作インタビュー」のために、私は椎名の書いた本を全部再読していく予定なのだが、当時と印象がどう変わるのか、それも楽しみなのである。
『さらば国分寺書店のオババ』も30年ぶりに再読したら全然印象が違っていたから、他の作品も昔とは印象が異なるかもしれない。それを一作ずつ確認していきたい。

 私はこの秋で六十五歳になる。本人がいちばん信じられないが、ということは、この椎名誠インタビューが終われば六十九歳だ。その意味では、これが私の最後の仕事になるだろう。