第137回:いしいしんじさん

作家の読書道 第137回:いしいしんじさん

幻想的、神話的、寓話的な作品で読者を魅了する作家、いしいしんじさん。その独特の物語世界は生まれる源泉となっているものは? 幼い頃から人一倍熱心に本をめくっていたといういしいさんの読書体験やデビューの経緯などについてうかがいます。

その4「探偵小説を読んだ学生時代&就職後」 (4/6)

酔いどれの誇り (ハヤカワ・ミステリ文庫)
『酔いどれの誇り (ハヤカワ・ミステリ文庫)』
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ダンシング・ベア (ハヤカワ・ミステリ文庫)
『ダンシング・ベア (ハヤカワ・ミステリ文庫)』
ジェイムズ クラムリー
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――大学は仏文科でしたよね。

いしい:英米文学でもよかったんですけれど、なにか違うなと思って。フランスのものってカミュとボリス・ヴィアンくらいしか読んでいませんでしたが、映画は高校生の頃にヌーヴェル・ヴァーグの作品が大好きでトリュフォーやゴダールとかを観ていたんです。ヌーヴェル・ヴァーグの現場や音楽や映画について綴った本もたくさんあって、そうしたものを幅広くできるのはフランス文学かなと思いました。京大の仏文って文学でなくてもフランス語で書かれたものならいいと謳われていて、それもいいなと思いました。実際に専攻していたのは「博物学」です。図鑑がどう変わっていくのかを見たりする。科学史ですね。

――大学時代に読んだものは。

いしい:図鑑も読んだし憲法のゼミに入っていたので法律や憲法の本も読みました。法ってなんだろう、どうやって世の中のしくみを決めているんだろうと思ったからなんですが、自分がイメージしたものと全然違いました。法学っていうのは解釈学なんですね。書かれたルールをどう解釈するかという。小説は急にアメリカの探偵小説にハマりました。ハードボイルドものが多かった。ジェイムズ・クラムリーが好きでしたね。『酔いどれの誇り』とか『ダンシング・ベア』とか。あとはエルモア・レナード。流行っていたので、間をあけずに新刊が出ていた頃です。『スティック』や『ラブラバ』。深みはないけれどストーリーテリング、キメ台詞の間合いなんかの格好よさで読ませるんです。これこそ1日1冊のペースで気楽に読めるものです。そうした娯楽みたいなものも冊数は読んでいて、あとは大学の時にしか読めないものですね。ヘーゲルなどの哲学系のもの、ルソーの『告白』とかプラトン、『わが闘争』とか『戦争論』。古本屋でだーっと買って、1日中読んでいました。

――おうかがいしていると、本当に幅広く読まれていますよね。名作も網羅していますし。

いしい:あんまり何も考えていないんです。こうしようということは思っていない。それに名作を読んでいるといっても、トルストイの『戦争と平和』は読んでいないんです。こんな長いのを読む時間はもったいないな、と思っているうちに読まずにきているんですよね。

――卒業後はリクルートに就職されたそうですが。

いしい:先輩から「うちの会社に来るか」って声をかけられたんです。就職活動する気はなかったんですけれど、はやく大学は出たかった。大学生が嫌いだったんです。勉強か女の子可愛いって話しかしなくて、絵の話も小説の話も全然しない。はやいところ大人になりたいと思っていました。ドロップアウトすればいいのにしないところが情けないですね(笑)。それで、就職して東京に来たんですが、13年間東京にいたうちの12年間は隅田川の吾妻橋のアサヒビールのビルの裏に住んでいました。自転車で神保町に行って、古本屋で大学生の時と同じような本の選び方をしていました。その頃は大学の頃は読まなかった詩集を読むようになりました。西脇順三郎のハードカバーが田村書店にたくさんありましたね。ある程度お金はあるので1万円くらいの珍しい本を買ったこともあります。

――仕事はどういうことをしていたんですか。

いしい:イメージ推進室という部署で、僕だけ専任で後は全員兼務でした。テレビを見て今の若い奴がどんなことを考えているのか書けと言われたり、アルバイトで若い人を50~60人募集して、そいつらと一晩中遊びまくって、それを「今こんなことが流行ってます」みたいなレポートにまとめたり。それを営業の人たちが使っていました。東京という場所の、いろんなところに行けたのはよかったですね。

アムステルダムの犬
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――会社勤めをしている中で、本を出版されたんですよね。

いしい:シーラカンスを釣りに行こうと思ってコモロ島に行ったんです。土産になるようなものも何もない場所ですから、絵日記を書いてそれを会社の人たちに配ったら、面白いから本にしようということになりました。手書きのものをまとめたものですが、それが僕にとって最初の本です。絵日記は高校生でアメリカに行った時から描いていたので、とりたてて新しいことをやったわけではなかったんですが。まわりから「今度外国に行ったらまた絵日記描いてね」と言われて、それでアムステルダムに行った時にまた日記を描いて、それに「アムステルダムの犬」と題名をつけて配りました。そうしたら「フランダースの犬のいしいさんですか?」って電話がかかってきて(笑)、出版されることになったんです。アムステルダムに行ったのが93年だったかな。94年に会社を辞めています。

――文筆業で食べていこうと思ったんですか。

いしい:会社勤めじゃないな、というのが遅まきながら分かったんです。給料もいいし好き放題やらせてくれたし、年に1回海外旅行に行って絵日記も出させてもらって、なんて素敵なんだろうと思っていたらある朝、気持ち悪くて起きられなくなっていた。考えてみたら、小さいころから、自分はずっと何か書いたりしている。このまま書く仕事にいくのが自然だろう、会社に行くほうがおかしいんだと思ったんです。その日に辞めました。それまでネクタイをしめたこともなかったので浅草の松屋でネクタイを買ってそれをして、人事の取締役の関さんのところに行って。関さんも西脇順三郎や小津安二郎が好きな人でよく一緒にお酒を飲んでいたんです。「辞めます」「わかった。この書類書いて」「ハンコ忘れました」「拇印でいいから」。書いたら「はい、受け取りました」「これで辞めたことになりますか」「そう。君はもう部外者だから出ていって」ということで、そういうもんなんや、せいせいしたなあと思って帰ろうとしたら関さんが来て「飲みに行くぞ」「えっ」「送別会だよ」「まだ3時ですけれど、取締役なのにいいんですか」「取締役だからいいんだよ」って。格好いいなと思いましたね。ああいう大人がいいなって今でも思っています。

――辞めた後は執筆業に専念したのですか。

いしい:バーテンをやってました。友達のアパートを改装して、オールナイトニッポンみたいに曜日で担当を変えて店を開いていたんです。僕は月曜と金曜で、好きなレコードを持ってきてそれをかけて、適当にお酒を出して。そこにいろんな出版関係の人たちが来て、「『アムステルダムの犬』が面白かったからうちでも何か書かないか」みたいな話も出てきたんです。それでエッセイや対談の仕事を受けるようになり、東京書籍から単行本『とーきょーいしいあるき』(※文庫化に際し『東京夜話』に改題)が出ることになったり、ほかに長編の依頼もあって3000枚くらい書きましたが、それは「意味が分からないので、うちでは出せません」と言われました。その原稿はどこかにいってしまいました。でもいいんです。あくまでも注文を受けて書いたものだし、書いたという経験は残っていますから。

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