第145回:井上荒野さん

作家の読書道 第145回:井上荒野さん

人と人との間に漂う微妙な空気感を丁寧に掬いとる実力派作家、井上荒野さん。幼い頃からお話を作るのが好きで、1989年にフェミナ賞を受賞してプロへの道を切り開いたものの、しばらく小説が書けなかった時期があったという。再び筆をとって2001年に再起、その後は直木賞や中央公論文芸賞を受賞。そんな彼女が出合ってきた本たちとは? 戦後文学の旗手と呼ばれた父・井上光晴氏の思い出にも触れつつ、お話ししてくださいました。

その4「辛い時期を乗り越えさせたもの」 (4/5)

もう切るわ (光文社文庫)
『もう切るわ (光文社文庫)』
井上 荒野
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ひどい感じ―父・井上光晴
『ひどい感じ―父・井上光晴』
井上 荒野
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朗読者 (新潮文庫)
『朗読者 (新潮文庫)』
ベルンハルト シュリンク
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週末 (新潮クレスト・ブックス)
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ベルンハルト シュリンク
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ディア・ライフ (新潮クレスト・ブックス)
『ディア・ライフ (新潮クレスト・ブックス)』
アリス マンロー
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ボート (新潮クレスト・ブックス)
『ボート (新潮クレスト・ブックス)』
ナム リー
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停電の夜に (新潮文庫)
『停電の夜に (新潮文庫)』
ジュンパ ラヒリ
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――その状態をどう乗り越えたのですか。

井上:それが自分でも本当に不思議なんです。ひとつは37歳の時に今の夫と知り合って、38歳の時に一緒に住みはじめたこと。それですごく安定した、というのがあります。夫は古本屋なので、最初は小説家になれなくても古本屋の奥さんになって本にパラフィン紙をかけていればいいやと思っていました。でもうちの夫が父のことを知っていて、私が前に書いた本も読んでいてくれて、なんとなく私に小説を書かせたがっていることは感じていました。そうしたら、突然、元すばる編集長で恒文社21という会社を作った方が、長編の書き下ろしをやってみないかと声をかけてくださったんです。それまで御目にかかったことはなかったんですが、何かのはずみで私のことを思い出してくれらしくて。こんな私によく頼むなって、びっくりしました。と同時にこれが最後のチャンスだと思ったんです。これをものにしないとちゃんと小説家になれないと思った。なりたい、と思ったんですよね。背水の陣の気持ちで臨みました。それで書いたのが『もう切るわ』でした。書き下ろしも長編もはじめてだったので、これはもう自由にやりたいように書かないといけないと思いました。父だったらどう考えただろう、なんてことは考えずに自分の好きなように書こう、って。父が死んだ後に自分も病気になって、人が死ぬ時はどうなるのか、まわりの人はどうなるのかについてモヤモヤした気持ちがあったので、それをテーマにしました。それと、父が死んだ後に、父がいっぱい嘘をついていたことがわかったんですよね。自分は後もう長くないとわかった後も、私たちに何も打ち明けなかった。それで、嘘ということも自分にとっては大きなテーマになりました。それが、嘘について考え出した最初だったと思う。

――そういえば井上光晴さんは経歴にもいろいろ嘘があったとか。

井上:本当は久留米生まれなのに旅順生まれって言っていたりしてね。旅順のほうが格好いいって思ったんでしょうね(笑)。

――ところで。もしもこれが『アンアン』など女性誌の取材だったら絶対訊いてしまうのが、引きこもり状態だったのにどうやって旦那さんと出会えたのかということなんですが...。

井上:(笑)。夫はインターネットで古本を売っていたんです。本を探していてネット検索して、たまたま夫の本屋さんを見つけて買ったんです。私の名前は変わっていますから、名前についてやりとりしたのが最初かな。夫が本屋のホームページに自分の俳句ものせていて、それがわりと格好いい俳句だったので、そのことでもやりとりをしました。あとは夫がタルコフスキーの映画評やっていたので、それについても。それで、会うようになったんです。

――うわあ。ドラマのようです...!

井上:38歳で一緒に住むようになって、40歳で籍をいれました。その時にちょうど『もう切るわ』が刊行されて、出版社の方が出版記念結婚記念パーティーみたいなものをやってくださいました。その後、『もう切るわ』を読んでくださった方から結構仕事の依頼がくるようになったんです。そのあと父についてのエッセイ『ひどい感じ 父・井上光晴』を書いたことで父との距離がとれたのもよかったですね。依頼があった時はすごく嫌で「おばあさんになってから書きます」と言ったら「今しか書けないことが絶対ある」と言われました。それを書いたことで、自分にとって父はこういう男だったんだ、とか、自分が小説を書くのはどういうことか、というのがわかってきました。

――その後の読書生活はいかがですか。

井上:翻訳ものばかり読んでいました。夫の古本屋が、最初の頃は翻訳の文庫が専門だったこともあって。マーガレット・アトウッドは30代半ばくらいで「青ひげの卵」という短篇を読んだ時、ものすごく面白いと思ったんです。母に薦めたら「あーちゃんがこれ面白いというのがすごくよくわかる」と言われたのがひとつのサジェスチョンになりました。やっぱり、ものすごく正確にひとつの感情やひとつの出来事の細部を書こうとしている小説が好きなんですよね。ミステリの要素もあってこの先どうなるんだろうという興味でも読ませるけれど、それとは別に緻密であることの面白さがある。ポール・オースターもよく読みました。あとはカズオ・イシグロも大好きで全部読んでいます。彼の小説も嘘がモチーフになっているので、読んでいてすごくよくわかる。

――本はどのように選んでいるのですか。

井上:クレスト・ブックスのシリーズは結構読んでいます。『朗読者』のベルンハルト・シュリンクは『週末』もすごく好きでした。『ディア・ライフ』のアリス・マンローや『ボート』のナム・リー、『停電の夜に』のジュンパ・ラヒリもあれで知りました。

――ナム・リーやジュンパ・ラヒリは移民系の人たちですよね。

井上:そうそう、違う国の中の自分、みたいなところの面白さがありますよね。他にはアマゾンでオススメされた本や、ツイッターで翻訳家の鴻巣友季子さんのように信頼できる人がつぶやいていた本を買ったりしています。あとは江國さんたちとお酒を飲みながら「あれが面白かったよ」という話をよくします。お酒の席ではおおむね馬鹿な話ばかりしているけれど(笑)、そういう本の話ができることも楽しいです。

――現代の国内作家は読みますか。お友達も多いと思いますが。

井上:やはり江國さんは私にとってスペシャルな存在です。仲良しだから逆にこういうことは言いづらいんですけれど、本当に江國さんの小説が大好きなんです。読むといつも嫉妬するんだけれど、闘志を搔きたてられもする。育った環境も似ているので小説を読んでいても妙にわかるところがあるんですが、それをこういう言葉で書くんだという驚きがあって、すごいなと思っていて。江國さんがいてくれて嬉しい、って感じです。瀬戸内寂聴さんに「あなたたちそんなに仲いいのはおかしい」って言われたこともあります(笑)。

――旦那さんと本の話はするのですか。

井上:これが面白かったという話はしますね。あとは映画の話が多いです。30代になってからよく映画を観るようになったんです。タランティーノ、アルモドバル、ヘルツォーク、グリーナウェイ、古いところではヴィスコンティが好きですね。映画っぽい映画が好きなんです。これだったら小説でもいいのに、ではなく、これは映画だからこそ面白い、と思えるものが好き。タランティーノはやっぱり物語とはどういうものかを毎回すごくよく考えている。新しいものを作ろうとしても結局すでにある物語を焼き直すしかない、ということに意識的で、それでもなおかつ自分を退屈させないにはどうしたらいいかをすごく考えている印象です。『パルプ・フィクション』や『レザボア・ドッグス』なんかがすごく好きですね。アルモドバルは道徳や倫理に対して立ち向かっているところがいいなと思う。ヘルツォークは「運命」というものを描こうとしているところ、グリーナウェイは映像美と音楽が魅力。ヴィスコンティは貴族映画の豪華絢爛さですね、やっぱり。

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