第145回:井上荒野さん

作家の読書道 第145回:井上荒野さん

人と人との間に漂う微妙な空気感を丁寧に掬いとる実力派作家、井上荒野さん。幼い頃からお話を作るのが好きで、1989年にフェミナ賞を受賞してプロへの道を切り開いたものの、しばらく小説が書けなかった時期があったという。再び筆をとって2001年に再起、その後は直木賞や中央公論文芸賞を受賞。そんな彼女が出合ってきた本たちとは? 戦後文学の旗手と呼ばれた父・井上光晴氏の思い出にも触れつつ、お話ししてくださいました。

その2「父が薦める本、自分で選んだ本」 (2/5)

キャベツ炒めに捧ぐ
『キャベツ炒めに捧ぐ』
井上 荒野
角川春樹事務所
1,512円(税込)
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切羽へ (新潮文庫)
『切羽へ (新潮文庫)』
井上 荒野
新潮社
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マッドマックス [Blu-ray]
『マッドマックス [Blu-ray]』
ワーナー・ホーム・ビデオ
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夜の樹 (新潮文庫)
『夜の樹 (新潮文庫)』
トルーマン カポーティ
新潮社
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ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)
『ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)』
サリンジャー
新潮社
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夏服を着た女たち (講談社文庫)
『夏服を着た女たち (講談社文庫)』
アーウィン ショー
講談社
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ほろびぬ姫
『ほろびぬ姫』
井上 荒野
新潮社
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人間失格 (集英社文庫)
『人間失格 (集英社文庫)』
太宰 治
集英社
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――高校生活はいかがでしたか。

井上:高校時代は鬱屈していたんです。父に勧められて玉川学園の高等部に進んだんですが、そこは全人教育といって、いわゆる偏差値教育ではない教育方針の学校で。受験勉強をしないかわりに、大学の選択科目みたいに染色、陶芸、油絵、語学、運動、音楽などから自分で好きなように授業を組み合わせて学ぶことができるんです。敷地も広くて景色もきれいで、それを見ていいなと思って入学したんですけれど、私の肌には合わなかった。ほとんどの生徒が下から上ってきた人たちで、すでに自分が夢中になるものを見つけて打ち込んでいるんです。私は何をやればいいのかわからなくて、絵が好きだったから油絵の授業を受けたら、まわりは中学生の頃から学んできた子たちばかりだから全然レベルが違う。私なんて子供のお絵かきみたいだ、という気持ちになってすぐ挫折しました。それで、必修のクラブ活動みたいな時間に、創作批評を選択したんです。文芸部みたいなところですね。書くことなら他のことよりはマシにできるんじゃないかと思ったという、消去法です。小説らしきものを描いたのはその時がはじめて。でも早熟な子でもなかったので、全然わからずに、ただぐにゃぐにゃ書いているだけでした。その頃は学校に行くのが嫌で、でもサボって不良になる勇気もなくて。学校に行く時は通勤ラッシュを避けて下り方面の電車を乗り継いで遠回りして通っていたんですが、乗換の待ち時間がすごく長い。いつもノートを持ち歩いて、そういう時間にいろいろ書きこんでいました。ソニプラで買った、アメコミのスーパーマン表紙のノートでした。自分でははっきりと認めていなかったけれど、その頃からなんとなく書く人になりたいという気持ちがあったと思います。そういえば文化祭の時に短いものを書かなくてはいけなくて、その時に「キャベツ畑に捧ぐ」というタイトルのものを書きましたね。

――あ、井上さんは『キャベツ炒めに捧ぐ』という小説を発表されていますよね。

井上:内容はまったく違うんです。その時に書いたのは自意識が剥き出しで、夢にキャベツ畑が出てきていろんなことを考える...といった内容。でもそのタイトルは憶えていたんですよね。

――お父さんの影響はありましたか。

井上:父は原稿用紙に書けない人で、いつもノートに書いていたんです。それを母が清書していたんですが、高校生くらいから私がアルバイトでその清書をするようになりました。父がどういうつもりだったのかはわからないですね。自分の原稿を読ませたかったのか、ただ猫の手も借りたいくらいだったのか。すごく細かい字で、うちの家族しか字が判別できなかったんです。ただ、わからないままに写しているうちに、だんだん頭に入ってくるようになって、父の文体を憶えてしまって。今でもそうなんですが、父の文体模写は誰よりも自分がいちばん巧いと思っています(笑)。リズムが身についてしまったんですよね。実際に本になっている父の小説も読みました。最初に記憶にあるのは『妊婦たちの明日』。結構怖い短編集なんですが、「読んでみろ」と言って渡されたんです。表題作は『切羽へ』の舞台にもしたんですが、崎戸という炭鉱があった島。ある男が好奇心でその島に渡ったら『マッドマックス』みたいなことになっていて(笑)、やさぐれた妊婦がごろごろいて、手首に針金を巻いていて、それでネズミを獲ったりしている。男は何の気なしに行っただけなのに、帰れなくなってしまう...。ひとつの産業が終わった後の島の荒れ果てた感じが描かれていて、近未来小説のようにも読めるんだけど圧倒的なリアリティがありました。他の話も怖いんです。それはもう本当に、繰り返し繰り返し読んで、私にとってはバイブルのような本です。

――高校時代、お父さんの作品以外に読んで記憶に残っている小説はありますか。

井上:父が「これ面白から」と言って貸してくれたトルーマン・カポーティの『夜の樹』。短篇集なんですが「『ミリアム』という短篇だけでも読め」と言われたんです。読んでみたら、ミリアムという名の一人暮らしのおばあさんのところに同じ名前の女の子が現れて、彼女の生活を侵食していくという話なんです。全然ハッピーエンドでもない。今読むと老いへの不安や孤独がテーマのシビアな話だとわかるんですが、父はなんで高校生の娘にそんな話を読めと言ったのか(笑)。まあ、巧いと思ったんでしょうね。それが大きくなってから父に薦められた2冊目の本です。ただ、当時は読んでもヘンな話だなと思ったくらい。だけど、うちの父はいつも家族の前で「俺の小説は上手いなあ」と言っているわけです。「ドストエフスキーの次に上等なのはこの俺だ」って。その刷り込みで父は小説が上手いと思っていて、その父が「面白い」と言うわけだから、こういう小説が上手い小説なんだなと思っていました。馬鹿みたいな話ですけれど、その刷り込みはいかんともしがたくて、そのまま今に至っています。今でも私はよくある起承転結のはっきりした小説をすごくいいとは思っていないんです。それよりも気配とか感情とか、言葉ではうまく言えないものを表すのが小説だって思っている。それは「ミリアム」と「妊婦たちの明日」があったからなんです。その後自分でも小説を書こうと思った時も、そういう方向を目指している。方法論としてそうしよう、と思うのはもっと後なんですけれど、なんとなく、そうしたものが小説なんだと思っていました。

――お父さんが薦めるのは、自分の作品以外は海外小説が多かったのですか。

井上:そうですね。ヘミングウェイの短編集や、サリンジャーの『ナインストーリーズ』や、アーウィン・ショーの『夏服を着た女たち』とか。ヘミングウェイは「白い象のような山々」という短篇を「これだけでいいから読め」と言われました。どこか国境に近い駅で男と女が電車を待っている。女に子供ができてしまって堕胎しにいこうとしているんです。男は堕胎させたくてしょうがないので、甘い言葉で「大丈夫だよ」みたいなことを言っている。言えば言うほど男の卑怯な感じが浮かび上がってきて、女にもそれがわかるんです。この短篇も、なぜそれを10代の娘に読ませるのかっていう(笑)。でもやっぱり巧いんですよね。全然説明がなくて会話だけなのに、その女がこの男は駄目だと思うのがわかるんです。ハンス・ヘニー・ヤーンの『十三の無気味な物語』も確か父に薦められて読んだんだと思う。ホラーまではいかないけれど、人間の嫌な感じ、不安な感じが書かれていて、気配の小説なんです。何度も何度も読み返しました。近親相姦とか双子の兄弟の話とかが入っていて...双子というと自分が最近出した『ほろびぬ姫』もそうですが、これは話は全然違うんです。あれ、でもちょっと頭の中にあったのかな...(笑)。

――お父さんとは作品について語り合ったりはしなかったのですか。

井上:父はそこまで言わないんです。恥ずかしかったのかな。「面白かっただろう?」などと言うくらい。でもよく食事の時に父と母で「あの本はすごいよね」といった話をしていたので、それを聞きながら、ああ、そうなんだ、と思っていました。高校の頃はちょっと父への反抗心もありましたね。父に薦められた本ばかり読んでるわけじゃないよ、と思って自分で買ったのが倉橋由美子の『ヴァージニア』や太宰治の『人間失格』でした。書店に行って『ヴァージニア』の文庫の裏表紙のあらすじを読んだら、自分の肉体を男たちに与え続けるヴァージニアの孤独......みたいなことが書かれてあって、話も面白そうだしちょっとHなところもあるわと思って買ったんです。読んでもよくわからなかったけれど、嫌だった学校生活に対抗するためのお守りのつもりで持ち歩いていました。「私、こんなの読んでるのよ」っていう感じで。『人間失格』では主人公が道化を演じた時に、見下していた同じクラスの子に「ワザ、ワザ。」と見抜かれるんですよね。その場面に衝撃を受けました。わざとへんな風に振る舞ってしまう自意識の感じ、わかる!と思って。

――大学に進んでからは変化はありましたか。

井上:大学では遊んでしまったんで、たくさんは読んでいなかったです。英米文学科のゼミではフォークナーとかヘミングウェイの小説、ユージン・オニールやテネシー・ウィリアムズの戯曲を読みました。イギリスよりもアメリカのものが多かったですね。英米文学を選んだことを父も喜んでいましたが、実は大学受験で他は全部日本文学科を受けたのに、たまたま英米文学科を選んだ大学だけ受かったんです。でも英米文学科に行ってよかったと思っています。どっちみちあまり勉強せずに遊んでいましたが。

――高校生活が鬱屈していただけに、開放されたのでは。

井上:もう一気に。いわゆる大学デビューというやつで、お酒をおぼえて恋人もできて、遊びまわっていました。そうしたら1年の終わりの時にはじめての恋人に振られて、どーんとなって。その時に同じゼミの女の子に誘われて、同人誌サークルに入ったんです。その女の子の男の先輩たちが作っていたんですが、みんなシナリオの学校に通いながら働いているような人たちで。彼らはいっぱい本を読んでいますから「井上光晴の娘が来た」と言われました。今でもみんな仲がよくて、よく言われるんですが、その頃の私は相当生意気だったらしいです(笑)。「早稲田のこういうサークルも行ったけれどちっとも面白くなかった」とか、そういうことを言っていたらしい。あんまり憶えていないんですけれど。

――そこで創作活動を?

井上:そうです。他の人が書いたものを読むと、自分がいちばん巧いって思っちゃっていましたね。最初はボロクソに批判されていたけれど、だんだんみんなも褒めてくれるようになりました。まだ方法論を確立しているわけでもなくて、書きたいことと書く方法の繋がりもわかっていなくて、闇雲にやっていました。父の清書をずっとやっていたせいで、妙に文体だけはあるんです。言葉が言葉を呼ぶような感じですらすらと出てくるんですが、自分がそれに引きずられてしまう。自覚的に書けば上手な小説になったのかもしれないけれどそれができなくて、最初の頃は読んだ人から「何のことかわからない」と言われ、自分でもそうだよなと思っていました。「明るい不倫の会」という20枚くらいのものを書いた時にはじめて文学オタクの男の人に褒められました。はじめてその人に褒められたのでよく憶えています。ディスコで出会う女の子たちの刹那的な恋愛を書こうと思ったものです。相手の男性にほかに彼女がいたり奥さんがいたりする人けれど、別にそんなのかまわないよね、というのがテーマ(笑)。

――そのサークルでは文学の話もよくしたのですか。

井上:文学の生き字引みたいな人がいるんですよね。世界文学全集を端から読むことが目標のような人。話についていけないので頑張って読もうとしました。中上健次に心酔している人がいて、それで『枯木灘』や『岬』を読んだら面白かった。文章が絵みたいだなって思ったんです。つまらない小説ってあらすじを読まされているような気になるけれど、これは一行一行がみっちりとあって、途中でもう1回戻って読み返してもいいという気分になる。吟味された言葉で書かれていて、文章が細密画みたいだという印象を持ちました。後に大江健三郎を読んだ時もそう思ったんですけれど。

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中上 健次
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