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藤井 貴志の<<書評>>


博士の愛した数式
博士の愛した数式
【新潮社】
小川洋子
定価 1,575円(税込)
2003/8
ISBN-410401303X
評価:A
 記憶が80分しか持続しない数学者「博士」と家政婦の「私」、そして私の息子でタイガースファンの小学生「ルート」。この3人が共に過ごした日々を綴った物語。記憶に障害をかかえる博士をとおして語られる素数や完全数といった問題とその解説は、僕のような数字音痴にもわかりやすいうえ、それはもう堪らないほど温かい。たとえば「友愛数」の解説。「私」の誕生日「228」(2月28日)と博士の腕時計に刻まれている「220」という2つの数字。それぞれの数の約数の和が、もう1つの数字になるという数少ない「友愛数」を博士は“友愛数は神の計らいを付けた絆で結ばれ合った数字”と説明してくれる。なるほど、数ってこんなにもロマンチックだったんですね。“数字・数式”という感情が入り込む余地の少ない題材を、作者は物語の主役に据えることに見事に成功している。博士宅でのパーティーのシーンなどは、もう交感神経が高まりっぱなしだ。このような本を教科書にすれば、国語や道徳など、数学(算数)にとどまらない多面的な学習ができそう。

クライマーズ・ハイ
クライマーズ・ハイ
【文藝春秋】
横山秀夫
定価 1,650円(税込)
2003/8
ISBN-4163220909
評価:A
 群馬県の地方新聞社に勤務する悠木和雅は、これまで会社や家族といったあらゆる人間関係に背を向けて生きてきた。そんなアウトロー記者が、御巣鷹山に墜落した日航機事故の全権デスクを命じられたことをきっかけに、会社という組織や家族、友人といった存在と否応なく向き合うことになる。さらに事故当日、一緒に山に挑む予定だった同僚が不可解な状態で倒れたまま意識を戻さない……。
未曾有の大事件に遭遇した現場の記者たちに対して、すでに要職に就いている「大久保連赤」世代からは陰湿な横槍が入れられる。こうした確執は「大きなヤマを踏みたい」と願う記者が集まった新聞社ならではだろう。一匹オオカミの記者が組織に翻弄されながらも己を貫こうとする様に、僕たち読み手もついつい感情移入してしまう。大きな事故を物語の中心に据えながらも、事故そものの話題性に引っ張られることなく、個性豊かな登場人物を上手くコントロールした筆者の力量は並大抵のものではない。自らの経験をベースに構成された怒濤の421ページ。これは「読まねば!本」だ。

まひるの月を追いかけて
まひるの月を追いかけて
【文藝春秋】
恩田陸
定価 1,680円(税込)
2003/9
ISBN-4163221700
評価:B
 本書にインストールされている初期設定は、「腹違いの兄を探すため、奈良へと向かう妹が兄の恋人」である。ところが、物語が進むにつれて、この初期設定はどんどん書き換えられていく。たび重なる物語の前提条件の設定変更に最初のうちは「おいおい聞いてないよ〜」と戸惑ったが、不思議なもので慣れてくると、この驚きも中毒性のある小さなマゾ的快感に変わっていく。ただ、意外なかたちで兄が現れた中盤以降のストーリーの展開には、「勢い付きすぎ!」と言いたくなる場面もいくつかあった。
先の読めないミステリアスな物語の構成の中にあって、奈良という古都に漂う「どっしりと安定している感覚」が物語に不思議な安心感を与えている。意外なことに(といったら失礼か?)奈良の名所の解説が実に丁寧に描かれているので、異色の観光ガイドブックとしても有用だろう。本書を片手に奈良観光に出かけてみたくなった……。

日曜日たち
日曜日たち
【講談社】
吉田修一
定価 1,365円(税込)
2003/8
ISBN-4062120046
評価:C
 日曜日をキーワードにそれぞれ展開する5つのストーリーを、そこに登場する幼い兄弟のエピソードで貫くことで、5つの短編を連作の長編小説に化けさせている。いずれの主人公も東京でひとり暮らし。結婚や職場での地位といった“人生を安定させる存在”の手前で生きている。
恋人や父親との付き合いで各主人公が感じているもざらつきのようなものの切り口が、これまでの吉田作品と比べてもいまひとつとんがりに欠ける。お互いの裸をビデオで撮影し合う恋人たちのやり取りなど、コミュニケーションに熱くも冷たくもなれず、相手との距離感を上手に掴めない身近な存在が何パターンも描かれているが、こうしたぎこちなさの解釈も常識で思い浮かぶ域を脱してきれない。
とはいえ、それまでの4つのストーリーで積み上げられた小さな物語が上手に活かされている最後の物語で味わえた感動は救いだった。それまで脇役だった幼い兄弟の存在感を一気に高めることで、リレーの最後に至って物語の主従を逆転させるという仕掛けも見事だ。なお、初出は数か月おきのペースで文芸誌に掲載されたとのことだが、この5つの物語はそのくらいのスローペースでゆっくり味うほうがいいかもしれない。

青鳥
青鳥
【光文社】
ヒキタクニオ
定価 1,680円(税込)
2003/8
ISBN-4334923976
評価:D
 東京に出てガムシャラに働きながら、「自分だけの幸福」を探し続ける30代の台湾人女性が主人公。そんな熱い女性を主人公とする割に、物語全体の“温度”は意外と低い。
僕が物足りないと感じたことをいくつか挙げてみよう。(1)主人公と一緒にプロジェクトに携わる多国籍チームの面々が、ごく一部の中心人物を除いて十分に個性を表に出しきれていない。(2)主人公が台湾女性であり、かつ、東京にある多国籍企業で働いていることに物語上の重要性が感じられない。(3)物語の後半で主人公の恋愛に話が及ぶが、これがけっこう唐突。
ストーリーは退屈することなく追って行けたが、物語の全体的な印象は淡白だ。これが「今の日本」というのなら、僕は読書の世界でまで今の日本とは付き合いたくはない。たしかに勢いよく読み終えることができたが、それは“引っかかり”が少なかったという意味でもある。