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浅谷 佳秀

浅谷 佳秀の<<書評>>



ワイルド・ソウル

ワイルド・ソウル(上下)
【幻冬舎文庫】
垣根涼介 (著)
定価720円(税込)
ISBN-4344407660
ISBN-4344407679

評価:★★★★★

 面白い作品が多く、☆を削るのに苦労した今月の課題図書であるが、その中でも本作は「ダーク」と並んで文句なしに☆5つ。骨太な社会性のあるテーマ、最後まで緊張感を途切れさせない緻密な構成、魅力あふれる人物造形、しなやかで簡潔な描写、スケールの大きさ、迫真のリアリティ、どれをとっても高水準であり、エンターテインメントとしても第1級の傑作だ。
 戦後のわが国の、ブラジル移民に代表される移民政策の多くが、なんと残酷な棄民政策だったのかということを、恥ずかしながら私は本作で初めてきちんと知った。移民たちを見殺しにしたわが国の外務省と、富める者には遠慮なくたかるが、困窮している人間には損得抜きで手を差しのべるラテン気質の人々との対比的な描写は強烈である。どっぷり感情移入して読みながら、外務省に腹が立ってしょうがなかった。現実に、ドミニカ移民の集団訴訟の判決が来月6月7日に予定されている。外務省は法的責任を認めようとしていない。本作を読まなければ、私はこの訴訟に興味を持たなかっただろう。
 松尾の後日談については、もうちょっと書いてほしかった気もする。だがこの作品通りの終わり方も余韻十分で、これはこれでいい。

権現の踊り子

権現の踊り子
【講談社文庫】
町田康 (著)
定価580円(税込)
ISBN-4062753510

評価:★★★★

 不思議に思うのは、その異様な読みやすさだ(まあ相性によってはそうでない、逆に読みにくくてしょうがない方もおられようが)。読みやすいとは、表現が平易であるとか、意識のどこにもひっかかるところがない、などということでは全くない。とにかく一つのセンテンスがいかに長かろうが、つるつるとうどんが滑り込むように活字が脳の中に入ってくるのである。つまり、文章のリズムと、こちらが読み進めていくリズムとが非常にたやすくシンクロするのだ。それは無論、読み手の私ではなく、文体のもつ力だ。所謂町田文体である。読んでるうちにドーパミンがとろとろと出てきて、ちょっとトランス状態になる。言うなれば生理的文体であるともいえる。まあ今更こんなこと書かなくたって、この作者の文体の魅力については、多くの方が先刻ご承知のことではあろうけれど。
 この作品集は著者初の短編集である。作者の他の多くの作品同様、本作品集も、哄笑、脱力、焦燥、唖然呆然、シュールな笑いに満ち満ちた町田ワールドを形成している。リズムに乗ってぐるぐると、迷宮一気巡りをお楽しみあれ。

ダーク(上下)

ダーク(上下)
【講談社文庫】 
桐野夏生 (著)
定価580円(上)/600円(下)
ISBN-4062753855
ISBN-4062753863

評価:★★★★★

 探偵・村野ミロシリーズの最新刊である。シリーズの諸作を未読の方は、できれば本作の前にそれらを読んでおかれることをお勧めする。
 それにしても本作でミロがヒールへと急激に変貌してゆくさまには言葉を失う。ヒロインがここまで毀れてしまう物語がかつてあっただろうか。シリーズの他の作品では非常に魅力的だったサブキャラの、あまりに無残な落魄ぶりにも驚かされる。一方、ミロの養父の愛人が重要な役割で登場するが、これがまた凄まじくグロテスクなキャラだ。してみると確かに、タイトルに違わない暗澹たる作品だ。だがそればかりではない。これはシリーズの中でも最高にエロティックでありロマンティックな、それこそ鳥肌の立つような究極の恋愛小説なのだ。
 もともとミロは愛を渇望しつつ生きる女だ。それなのにシリーズ諸作を通して、彼女を愛した男たちは、そのほとんどが破滅の淵へと追いやられてゆく。決してミロが魔性の女ということではない。結局、男たちはその精神の弱さゆえに自滅してゆくのだ。だが作者は本作で、ようやくミロとつりあう強さを持つと思われる男を登場させた。それでも作者の筆は仮借ない。その男を待つ運命は過酷だ。自滅する方がはるかに楽なのだ。

白菊

白菊
【創元推理文庫】 
藤岡真 (著)
定価700円(税込)
ISBN-4488436021

評価:★★★

 何とも技巧に凝った作品だ。3人称視点と1人称視点を使い分けたり、伏線をあっちこっちに張りながら、予想を覆される方へと読者を誘導する作者の手腕は確かに見事である。ラストなんて唖然とさせられた。
「白菊」をめぐるミステリーである本編を挟んで、プロローグとエピローグとで「白菊」の作者の素顔と、その作品の成り立ちが明かされるという粋な構成だ。ただ、人物を含めて、いささか奇抜すぎる設定が多く、リアリティが感じられない。作者には鮮やかなどんでん返しを決めたい、あるいはそのどんでん返しにつながる効果的な伏線を張りたいという意思がまずあって、そこから人物造形を考え、この作品を作り上げているのだろうか。でも正直なところ、無駄に込み入っているというか、技巧のための技巧というか、いささか空疎な印象がぬぐえなかった。まるでリヒャルト・シュトラウスの交響詩みたいな感じ。ミステリーマニア受けする作品だろうとは思う。 

ミャンマーの柳生一族

ミャンマーの柳生一族
【集英社文庫】 
高野秀行 (著)
定価450円(税込)
ISBN-4087460231

評価:★★★

 作者が、早稲田大学探検部の先輩で作家の船戸与一に随伴して旅行したミャンマーの、エンタメ系ルポルタージュ。
 変てこなタイトルといい、キッチュでハイテンションな題字のデザインといい、何だこれ、というのが第1印象。だがページをめくるとたちまち、ふーん、は、ほほぅ、そして、へえー、となった。ミャンマーの政治体制を日本の江戸時代の徳川幕府と柳生一族に例える発想が面白い。何ともわかり易く説得力がある。ミャンマーというと、軍事政権下にあって、アウン・サン・スー・チー女史が軟禁されたり釈放されたりする国、という程度のことしか知らなかった私にとって、この本はとても勉強になった。
 自己顕示欲の強そうな作者のB級キャラが全面に出ているのもいい。軍事政権下のミャンマーに不法入国し、現地の反政府ゲリラや麻薬王と交流するなどという無鉄砲を繰り返してきた作者のやんちゃぶりが何とも爽快だ。作者一行の行動を監視する任務を負いながらも隙だらけの「柳生」のメンバーや、マイペースで周囲に気を使わない船戸氏を揶揄する作者の遊び心が、随所で絶妙なお笑いポイントを作っていて楽しめた。

99999(ナインズ)

99999(ナインズ)
【新潮文庫】 
デイヴィッド・ベニオフ (著)
定価700円(税込)
ISBN-4102225226

評価:★★★★

 8つの短編からなる作品集。冒頭に用意された表題作からいきなり鮮烈。試合開始早々の一発でダウンを喫する。そのまま残りの作品を読み終えてしばらくの間、私はしばし腑抜けていた。パンチ・ドランカーならぬベニオフ・ドランカーとでも言うべきか。
 どの作品もシンプルで読みやすい。どの作品も似ているようで似ていない。しかし相通じる何かは確かにある。そしてそれらをうまく言葉に表すことはなかなか難しいことに思える。孤独感、寂寥感、やるせなさ、絶望感……そういったものの中に、ごくわずかに開放感、すがすがしさ、救い、といったものが混ざった感じとでもいおうか。とにかく微妙なアンビバレンスが感じられ、何ともいえない不安定な心地に誘われるのだ。
 ところで、成功作「25時」、そして本作もそうであるように、社会的弱者、あるいは敗者の目線での作品に深い味わいのあるこの作者は、現在、映画のシナリオや脚色で売れっ子になっており、「ステイ」という作品での稿料は170万ドルという破格の額だったという。昨年には有名女優と結婚した。小説家としての彼に、サクセスはこれからどう影響してゆくだろう。脳裏をちらりとスコット・フィッツジェラルドの影が横切る。

ティモレオン

ティモレオン
【中央公論新社文庫】 
ダン・ローズ (著)
定価760円(税込)
ISBN-4122046823

評価:★★★★

 表紙裏の解説によると、犬が捨てられて、家路を辿る物語らしい。なるほど、これは大人向けの名犬ラッシーみたいな話かな、と思っていたら大違い。何ともまあ、シニカルでグロテスクな物語だった。
 ティモレオンという愛らしい目をした雑種犬と、その飼い主であるゲイの老人、そして彼らが生活している家に転がりこんできた、ボスニア出身を騙る残酷な青年のおりなすぎくしゃくした関係をひとつのモチーフとして、そこに関係性の希薄ないくつかのエピソードが投げ込まれるように絡む。この風変わりな構成と、読者の予想や期待を裏切るエピソードの内容が、この作品を魅力的なものにしている。中でも「ジュゼッペまたはレオナルド・ダ・ヴィンチ」が強烈。それらのエピソードの隅っこを、ティオレモンの姿がちらりとかすめてゆく。美しさと醜さ、優しさと残酷さとが混ざり合いながら、ロンド・スケルッアンドが奏でられてゆく。この物語を読み終えて感じる苦味は格別だ。だがその中にほんのりと、甘やかな香りがする。

博士と狂人

博士と狂人
【ハヤカワ文庫NF】
サイモン・ウィンチェスター(著)
定価777円(税込)
ISBN-4150503060

評価:★★★

 辞書を最初に編纂するということがどんなに大変なことかは想像を絶するものがある。ある意味狂気にも近い忍耐力と根気のいる作業だろう。その作業に関わった一人が、実際に精神病院に収容されており、しかも過去には殺人事件まで犯している人物だったとしたら──この冗談みたいな話は、完成までに70年の歳月を費やした、オックスフォード英語大辞典(OED)の編纂にまつわる実話なのだ。件の人物はW・C・マイナー博士。教養があり、繊細な感性の持ち主でありながら、人一倍強い性欲に翻弄されていた彼は、戦争でトラウマを負った末に、統合失調症を発症した。幻覚に悩まされた彼は、ついには殺人まで犯してしまう。精神病院に収容された彼は、ふとした経緯からOEDの編纂に協力するようになり、しかも編纂主幹のジェームズ・マレー博士から「最も重要な」篤志協力者とみなされるようになる。
 まさに「事実は小説より奇なり」ということわざを地で行くノンフィクションであり、非常に克明に描かれた人間ドラマとしても面白く読めた。