第2回 音楽評論家・渋谷陽一の出発

 渋谷陽一は「ロッキング・オン」を1972年に20歳で創刊するその前年、「ミュージック・ライフ」1971年6月号に「枯れたロック界に水をまく放水車GFR」と題した3ページにわたるグランド・ファンク・レイルロード論が掲載され、音楽評論家として商業デビューしたとされる。かつて彼は「僕がいわゆるロック評論を書き始めたのは十八歳の時である。高校を卒業して大学に落ち浪人していたころだ」(『ロックミュージック進化論』1980年)とふり返っていた。同誌に寄稿したのは「知人の紹介」によるものだとも書いている。だが、篠原章が『日本ロック雑誌クロニクル』(2005年)で指摘した通り、渋谷は1951年6月9日生まれ(本人は「ロックの日」生まれだと自慢した)なので、19歳でのデビューが正しい。渋谷の記憶違いだろう。

 また、先の「ロック評論を書き始めた」というのも、商業原稿(渋谷がよく使った表現でいえば「売文屋」)の最初という意味だろうし、彼はその前からロックに関する文章を書き始めていた。「Revolution」というロックのミニコミの最終号に投稿が掲載されたのだ。それをきっかけに「ロッキング・オン」の創刊メンバーは出会ったと、当事者たちが回想している(渋谷陽一『メディアとしてのロックン・ロール』1979年、橘川幸夫『ロッキング・オンの時代』2016年など)。「Revolution」は、音楽評論家・雑誌編集者の水上はるこが中心となって発行していたミニコミである。
水上は1966年に新興楽譜出版社(現シンコーミュージック・エンタテイメント)に入社し、「ミュージック・ライフ」編集部に配属された人物である。同誌は戦前の1937年に歌謡曲の投稿誌「ミュジックライフ」として創刊され、当局の干渉で1940年に「歌の花籠」と改題。戦時下の1943年に休刊したが、戦後の1951年に「ミュージック・ライフ」として復刊し、ジャズをとりあげた。1960年代にはポップスへシフトし、1965年に星加ルミ子が編集長になって以降は、ビートルズ人気もあって、洋楽のアイドル、スターの写真と情報を中心にした若年層向け芸能誌といった性格を鮮明にした。
そういう時期に「ミュージック・ライフ」編集部に加わった水上は、ジャニス・ジョプリンやボブ・ディランの記事を書きたいと編集会議で提案したが、それでは雑誌が売れないと却下されたという。たとえ実力があっても、アイドル的なルックスでなければ忌避する。それが星加の商業的判断であり編集方針だった。違和感を抱いた水上は、別部署へ異動後、1969年に退社する。彼女は、同年に「ニューミュージック・マガジン」(現「ミュージック・マガジン」)が創刊された際、短期間手伝ったという。文字中心で硬派な同誌の創刊号の執筆者紹介には「水上治」なる名前が載っており、「でも本人は女の子なので、治ははると読んであげてください」と記されていた。
初代編集長・中村とうようの評伝『中村とうよう 音楽評論家の時代』(2017年)の著者で彼と親交があった田中勝則は、同書で「とうようさんによると、とうようさんが出演するラジオ番組にもっとも熱心な投稿をしてきたのが水上さんで、それがキッカケで書いてもらうことになったらしい」と記している。
その一方で、水上はロックに関する文章を書きたい一念でミニコミを発行した。
「友だちと組んで『Revolution』というファンジン、当時のミニコミを発行し、小難しいロック論をこねくり回していました。もちろんお金になるはずもなく、三号で廃刊になります。当時は政治的なものも含めてミニコミが社会で影響力をもっていた時代でもありました」(水上はるこ『最低で最高のロックンロール・ライフ』2024年)

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 水上は1973年に草野昌一社長に説得されて新興楽譜に再入社する。星加ルミ子退社後の1975年8月号から1979年4月号まで「ミュージック・ライフ」の編集長を務めたが(日本で高まったクイーン人気が高まった時期。次の編集長は同バンドを取材した東郷かおる子)、同年に退社しフリーになった。とはいえ、1970年に計3号の「Revolution」を作った当時の水上が、「ミュージック・ライフ」のアイドル路線への反発を糧に活動していたのは、確かだろう。

 その「Revolution」終刊号に「ロック評論への警告」、「ほんにロックはどこで鳴る」という投稿がそれぞれ掲載されたのが、渋谷陽一、岩谷宏という「ロッキング・オン」の創刊に参加する2人だった。いずれも挑発的な内容だが、今となっては少部数だったミニコミを入手するのは難しい。だが、渋谷の「ロック評論への警告」については、国立国会図書館デジタルコレクションを検索すると、斎藤次郎『共犯の回路 ロック×劇画・可能性のコミュニケーション』(1973年)という本が表示される。同書は、教育・マンガ評論家でマンガ原作も担当した斎藤のロック論およびマンガ論だが、そこでごく一部ではあるものの渋谷の文章が引用されているのだ。

 ロックの興行が日本でまだ黎明期だった頃に書かれた同書の、ロックとビジネスの関係について語られた部分にそれは登場する。「例えば、先鋭的な(それは少しそそっかしくて舌たらずな、という感じも含めてなのだが)ロック雑誌『Revolution』」と紹介したうえで斎藤は、渋谷の文章を引用する。
「......さて、このロック・フェスティバル、千円以上の入場料を取り、東京でも最高の小屋を使って行われるわけだが、一体何のためにこんなことをやるのか俺にはまったく理解できない。ロックは日常の演奏活動のトータルな姿勢において、その本質が問われるのである。この日本のロックの演奏活動の現状をもっともよく認識可能な場にいるはずの氏(註、中村とうよう氏)がよくもこんな楽観的なコンサートを行えたものだ。今、日本のロックに必要なものは数か月に一度行われるロック・フェスティバル(!)などではない」

 斎藤が註で示した通り、渋谷は中村とうようを批判対象にしている。前述のように「ニューミュージック・マガジン」は1969年に創刊されたが、同年に同誌が主催し、プロモーターのキョードー東京がサポートして「日本ロック・フェスティバル」が開かれた。出演はゴールデン・カップス、内田裕也とフラワーズ、エディ藩グループ、ブルース・クリエイション、井上堯之など。日本のロック創世記における意欲的なイヴェントであり、1970年の1月に第2回、5月に第3回が実施された。だが、渋谷はこれに嚙みついた。「Revolution」では国内ミュージシャンの労働条件の厳しさを指摘しており、彼らに安定的に演奏できる場を保証するのがロック評論家や興行屋の仕事だと批判する。「数か月に一度行われるロック・フェスティバル」ではなく、「日常の演奏活動のトータル」をというわけだ。まだビジネスの現実に直面していない若者による青臭い理想論である(「ロッキング・オン」創刊後、現実に出くわした渋谷は、彼特有のビジネス感覚を身に着けていく)。

 渋谷は翌年、「ミュージック・ライフ」に原稿が初掲載されるよりも前にオリジナルコンフィデンスが発行する雑誌「ミュージックノート Then」2号(1971年4月)に書いた「ロック批評はどこにある」で、「ニューミュージック・マガジン」などに寄稿する音楽評論家・浜野サトルを批判していた。次いで、浜野からの反論が「季刊フォークリポート」1971年夏号に載ったのに対し、同誌1971年秋号の「何故書くのか 聴衆としての自己に執着しつつ」で応答している。渋谷が論争好きだったことはよく知られているが、それは「ロッキング・オン」創刊前からすでに始まっていたのだ。
浜野との論争のテーマはロック批評のあり方であり、ここで詳細には踏みこまない。ただ、再反論において渋谷が、浜野の「批評とは、つねに触媒的なものである」という言葉について、自らの批評を卑下したものと断じた点に注目したい。触媒であることを否定したうえで「私の批評を構成しているひとつひとつの言葉は、ミュージシャンにとってのひとつひとつのサウンドにも相当するものなのだ」、「私は聴衆であり、一個のロックの愛好者である。そういう自己から出発する以外に方途はない。そして、多くのロック・ファンはそういう存在である筈だ。私の基盤はそこにしかないのである」と、渋谷は自らのスタンスを説明した。聴衆による批評という考え方は、翌年の「ロッキング・オン」創刊号で宣言される「自分を語りそしてロックを語った文章であれば経済的条件が許すかぎりのせていきます」につながるものだろう。
ここから前年の「Revolution」最終号における「日本ロック・フェスティバル」批判をふり返ってみよう。『共犯の回路』で渋谷の文章を引用した著者の斎藤次郎は、彼の主張を支持するとしつつも「この要求は宛名が少しちがうのじゃないか」と述べる。評論家、興行屋、TV、ラジオといった「むこう側」の人に要望をいうのではなく、「ロックが必要なぼくたちの空間をつくりだすこと」、「ぼくたちがロック集会の主催者」になることを考えたいと、斎藤はいうのだ。この議論は50年以上前のものだが、今読み返すと後に渋谷が進む道を示唆していたようで面白い。
渋谷は、「ミュージック・ライフ」や「ニューミュージック・マガジン」といった既存のロック・ジャーナリズムへの苛立ちから「ロッキング・オン」創刊へと進んだ。そして、聴衆の批評をミュージシャンにとってのサウンドに相当するものと位置づける考えを打ち出した。だが、その時点では「ロックの演奏活動」を「むこう側」にゆだねることを疑っていなかった。しかし、「ロッキング・オン」創刊からスタートしたロッキング・オンという会社は、2000年より「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」を開催するようになる。「ロックが必要なぼくたちの空間をつくりだすこと」に渋谷が本格的にとり組み始めるのだ。それを踏まえると、その30年ほど前に音楽評論家としての出発点といえる「Revolution」の原稿でロック・フェスに言及していたことは、彼の根っこのようなものを感じさせて興味深い。