第1回 前説おじさんが書いていた創刊宣言

ロッキング・オン・グループ公式サイトは2025年7月22日、同グループ会長の渋谷陽一が同月14日に永眠したと発表した。

この訃報に接した時、彼が創刊した雑誌「ロッキング・オン」やラジオDJなど、1970~1980年代の音楽評論家としての渋谷の記憶がある層と、「ロッキン」の通称で知られる音楽フェス「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」の運営会社としてロッキング・オンを認識している層では、かなり印象が違ったようなのだ。彼の死後、「ロッキング・オン」はもちろん、複数の雑誌や新聞に追悼記事が掲載され、ラジオでも追悼番組が放送された。渋谷の死に関して各種媒体が拾いあげた様々な人の反応、SNSで書きこまれた雑多なコメントを眺めていて、それなりの歴史を持つロッキング・オンと渋谷陽一に関するイメージが、バラけているのをあらためて感じたのである。

それをよく示しているのが、「渋谷陽一氏死去 「ロッキン」元総合Pファンの心つかむ熱い言葉で"前説おじさん"としても愛された」と題されたスポニチSponichi Annexの2025年7月22日の記事だ。そこには「渋谷さんは、音楽フェスでトップバッター登場前にステージで前説をすることから、近年は"前説おじさん"として親しまれた」と書かれていた。かつての論争好きな音楽評論家と親しまれる"前説おじさん"では、イメージにかなり距離がある。その距離を語るため、まず渋谷陽一とロッキング・オンの歩みを簡単におさらいしておこう。

10代末から音楽評論家として活動をスタートした渋谷は、1972年にロック雑誌「ロッキング・オン」を創刊した。彼は1973年からNHKで断続的にラジオDJを務める一方、会社としてのロッキング・オンでは1986年に邦楽誌「ロッキング・オン・ジャパン」、1989年にカルチャー誌「Cut」を創刊し、単行本の刊行を増やすなど、出版業を拡大していく。転機となったのは、2000年から「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」を立ち上げ、イベント・プロデュースに本格的に乗り出したことだろう。カルチャー誌「H」、ロック雑誌「BUZZ」、総合誌「SIGHT」など、1990~2000年代に同社が創刊した雑誌の刊行が途絶えていったのに対し、日本最大級の野外音楽フェスにまで成長した夏の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」に加え、年末には「COUNTDOWN JAPAN」、5月連休には「JAPAN JAM」という音楽フェスを開催するのが恒例になるなど、出版業よりもイベント・プロデュースの比重が大きくなっていった。

2013年以降の会社組織は、ロッキング・オン・ホールディングス、ロッキング・オン、ロッキング・オン・ジャパンで構成されるロッキング・オン・グループとなり、当然、創業者の渋谷が社長に就任していた。だが、2023年11月に彼は脳出血を発症して緊急入院し、手術後は療養しながらリハビリにとりくむ状態になる。DJを務めていたラジオ番組が終了するなど、表舞台に登場しない時期が続く。2024年3月31日には社長を退任し、会長職に就いていた。そして、2025年7月に誤嚥性肺炎を併発し、他界したのだ。
2023年11月より療養に入った渋谷にとって、ロッキンの朝礼ともいわれた前説を最後にしたのは、千葉市蘇我スポーツ公園で同年夏に4日間開催された最終日の8月13日だった。当日のGRASS STAGEのトップバッター、アンジュルムを渋谷はどういって呼びこんだのか。前説の一部を抜粋する(わかりにくいところは、カッコ書きで言葉を補う)。

「それでは、最初のアーティストを紹介したいと思います。(5月に)JAPAN JAMをやって、この3ヵ月という短いインターバルで(またアンジュルムの前説を)やるって私、初めてです。もういよいよアップフロント、ハロプロから給料もらえる説(笑)。メンバーも変わり、新体制でのぞむアンジュルム、初めてのロック・イン・ジャパンです。戦いながら変わりながら次を模索していくっていう彼女たちのやり方。それが本当に頼もしいし、カッコいいです。そのステージが、ここで力強く展開されると思います。今回も新しいメンバーが登場するんですけども、アイドルの場合、彼女たちにとってもここで見る1回1回の景色は、本当に貴重なものだと思います。その目撃者として、応援するファンとして最高の声援で迎えてほしい。アンジュルム!」

このグループが所属するアップフロントプロモーションや、同事務所系列のアイドルの総称ハロー!プロジェクトをからめて軽口を入れつつ、70歳を過ぎた主催者が、メンバー交代について前向きに触れつつ、若い女性グループの登場を盛りあげる。
渋谷自身が「アイドルの場合」といったようにアンジュルムは、モーニング娘。以降の流れにあるアイドルグループだ。「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」は名称通り、ロックを主体としつつ、近接ジャンルのヒップホップ、ソウルを混ぜた形で2000年にスタートした。毎夏の開催で規模が拡大する過程でフォーク、テクノなど盛りこむ要素が拡大したのである。2010年代半ばにアイドルとアーティストの中間的存在だったPerfume、きゃりーぱみゅぱみゅなどが出演したのを契機に、それ以降はアイドルが登場することも珍しくなくなる。

かつての音楽ファンの間では、ロックとアイドルは別ものとしてあつかうのが常識だった。だから当初、「ROCK」を冠したイベントにアイドルが出演することに反発するアーティスト、ロック・ファンもみられたが、次第に当たり前になっていった。推理や探偵、謎などが特に語られなくても、ホラー、SFのほか、なんらかのエンタテインメント要素を含んだ小説の総称としてミステリーが使われがちなのに似ている。「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」は、「ROCK」をポップ・ミュージックの総称として使っているようなところがある。アンジュルムに対する渋谷の前説は、「ROCK」をめぐるロッキン的な"ものわかりのよさ"をよくあらわしていた。それが晩年の音楽評論家としての価値判断であり、イベント・プロデューサーとしてのビジネス的判断だったのだろう。

しかし、出発点ともいえる「ロッキング・オン」創刊号(1972年8月号)にまだ21歳だった渋谷が編集長として載せた宣言は、ものわかりのよいものではなかった。以下に全文を引用する。

我々は現在のロック・ジャーナリズムに対して一切の希望を持たないし、直対応的な怒りも持たない。ただあるのは冷たくさめた視点だけである。
40数ページのオフセット印刷のこの小雑誌が、そのさめた視点のささやかな結果であり、一つの我々が投げうる石つぶてである。
掲載されている原稿は全て基本的には投稿という性格を持つものである。そして読者すなわち参加者という性格を持つ雑誌である。
文章の長短、内容、そして技術は一切問わない。ただの感想文ではない、自分を語りそしてロックを語った文章であれば経済的条件が許すかぎりのせていきます。
また金銭的、技術的、労働参加的、販売協力を希望します。
まず定期購読と、投稿を。
最後に創刊号にかかわらず広告という形で協力していただいたロック喫茶各位に御礼いたします。

創刊宣言は、既存のロック・ジャーナリズムの全否定から始まっていた。宣言には明示されていなかったが、「ニューミュージック・マガジン」(1980年「ミュージック・マガジン」に改題)や「ミュージック・ライフ」を仮想敵として「ロッキング・オン」を創刊したことを、渋谷はたびたび書いたり語ったりしていた。彼なりのロック観があり、ロックは既存のジャーナリズムのようには語られるべきでないという判断があってのいらだちだっただろう。ロックとはどういうものか、厳密にとらえたいという姿勢がみてとれる。後年のロッキンの前説で観客に気さくに語りかけた、ものわかりのよい鷹揚さとはかけ離れた若い熱情である。

しかし、同時に宣言には、後年につながる考え方もうかがえる。「読者すなわち参加者という性格を持つ雑誌」と書き、創刊に際して彼は参加者を重視していた。それに対し、渋谷は「参加者が主役のロックフェスを行いたい」との考えで「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」を立ち上げたと伝えられる。「参加者が主役」は、ロッキンをめぐってたびたび口にされ、標語のようになっている。時代ごとにあり様が変化したとはいえ、ロッキング・オンと渋谷陽一は、参加者重視で一貫していたわけだ。
創刊宣言では、参加者に向けて「自分を語りそしてロックを語った文章であれば」掲載すると呼びかけていた。意識せずそう記したのかもしれないが、今読み直すと、「ロックを語った」より前に「自分を語り」とあったのが、予兆的である。「ロッキング・オン」や「ロッキング・オン・ジャパン」については、音楽自体について書くのではなく、自分語りをしているとの批判が初期からあった。様々な音楽雑誌があるなかで、そのスタイルでポジションを築いたゆえに反発はいっそう大きくなった。1990年代後半以降、「ロッキング・オン・ジャパン」が推すタイプのバンドがロキノン系と呼ばれたりしたが、2000~2010年代の「ロキノン」の語には、自分語りを揶揄した蔑称の側面もあった。ただ、「ロッキング・オン」の創刊宣言にある通り、自分語りは渋谷たちが意図した選択だったのだ。

この連載では、ロッキンの始動以降に見えにくくなったそれ以前のロッキング・オンと時代についてふり返ってみたい。