古本トロワ 1/3

 7月21日(水曜)

 朝の情報番組にチャンネルを合わせると、レポーターが東京湾をクルージングしていた。海の向こうにはオリンピック選手村が建ち並んでいて、それを守るように海上保安庁の船が停泊しているのが見えた。選手村のベランダに、色とりどりの国旗が並ぶ。今日にはもう、競技が始まるのだとアナウンサーが語る。画面の左上には天気予報が表示されている。東京は晴れ、最高気温は34度だ。

 朝9時、東京古書会館はもう動き始めていた。誰かが口笛を吹きながら仕事をしているようで、口笛のメロディと、冷房の音が低く響いている。「古本トロワ」の長田俊次さんは、タリーズのアイス缶コーヒーを手に、9時過ぎに姿を現す。荷物をテーブルに置くと、「まずは一服してきます」と、8階の喫煙所に消えてゆく。

 今日は水曜日で、東京古書会館では「東京資料会」という古書交換会が開催される日だ。ひとり、またひとりと、東京資料会の経営員と幹事が集まってくる。荷物を置くと、まずはエプロンをかける。東京資料会のエプロンはカーキ色だ。

「おはようございまーす」

「おはようっす。腕、治った?」

「治りました」

「そっか。俺は土曜日に打ったけど、まだ筋肉痛なんだよ」

「腕、上がります?」

「上がる、上がる。だけど、日曜日は熱が出ちゃって大変だったよ」

 ベテラン古書店主たちはワクチンの話題で持ちきりだ。

 経営員の中には、これまで取材した「BOOKS青いカバ」の小国貴司さんや、「古書みすみ」の深澤実咲さんも名を連ねる。ただ、深澤さんによると、小国さんは今日はお休みなのだという。「お刺身に当たって、食中毒になっちゃったみたいです」と深澤さんが教えてくれた。

「じゃあ、もう始めちゃいましょう」。定刻の9時半より少し早いけれど、全員が揃ったところで、「文生書院」の松本洋介さんが朝礼を始める。「昨日は康太君と実咲ちゃん、前日仕分けお疲れ様でした。まだちょっと文庫と新書の仕分けが残っているので、このあとやっていきます。よろしくお願いします」朝礼が終わると、ベテランたちは仕分けに取りかかり、若手は出品される古書をテーブルに積んでゆく。

「これ、ほんとに状態が綺麗だね」。仕分けをしている「金沢書店」・金澤秀樹さんが言う。

「岩波、筑摩、講談社。ハヤカワ文庫もありますね」と松本さん。

「これ、意外と成るよ」。文庫に巻かれた書店のカバーを外しながら、金澤さんが言う。「こっちの単行本はどうします? 大判と小判で分けます?」

「大判、成りそうだね」

「だけどさ、大判と小判で分けちゃうと、小判が成らねえよ」

「(入札最低価格の)2000円なら札が入るかもしれないよ?」

「いや、ギリギリだな。2000円で買えるとしても、札入れてこないんじゃないか?」

 成るか、成らないか。

 経験と嗅覚で見分けながら、本をビニール紐で縛り、出品する山を作る。テーブルに高い山が積み上げられてゆく。出品されている本には、学術書や全集、洋書が目立つ。重い本が多く、「うっ」、「よっ」と、小さな唸り声があちこちから聞こえてくる。その合間に、唐揚げ、ヤンニョムチキン、油淋鶏、タレカツと、揚げ物の名前が聴こえてくる。皆が話しているのは、今日のお昼ごはんのメニューだ。11時半を迎える頃には、今日の市場に出品される本はあらかた並べ終わる。長田さんとそれに「古書のんき」の西村美香さんは、お昼ごはんの買い出しに出る。駿河台下交差点の近くに、「TOKYO 2020」の看板が括りつけられている。9月5日にマラソン競技が開催されるため、交通規制が実施されるようだ。

「資料会の経営員って、入って1年目は食事係を任されることが多いんです」。長田さんが教えてくれる。「僕が資料会に入ったのが去年の7月で、今年の7月から『のんき』さんが入って︱ちょうど入れ替わりのタイミングなんですよ。市場に出品される荷物って、そのときどきで量が変わるんですけど、余裕があるときはちょっと遠いところまで買いに行ったり、逆に量が多いときだと事前に出前館で注文したり。お弁当に文句言う人はいないから、何でもいいっちゃ何でもいいんですけど、なるべくなら喜ばれるものを買いたくて、毎週『何にしよう?』って考えてましたね」

 駿河台下の交差点で信号を待っているあいだ、長田さんはひなたに佇んでいたけれど、西村さんは信号の陰で陽射しから身を守っていた。昔は気にせずひなたで信号を待っていたけれど、ぼくも最近は日陰を探すようになった。信号が青に変わると、靖国通りを渡る。うだるような暑さで、道ゆく人の動きもゆっくりだ。すずらん通りを進み、「から好し」というお店で唐揚げ弁当を、「新潟カツ丼 タレカツ」というお店でタレカツ弁当をテイクアウトする。神保町にも、揚げ物の店が増えている。セブン‐イレブンにも立ち寄り、紙パック入りのお茶を何本か買って古書会館に引き返すと、4階の交換会場の奥にあるテーブルにお弁当を並べてゆく。

「唐揚げか、元気だねえ」。「とかち書房」の佐藤誠さんが笑う。

「タレカツもありますよ。どっちにしても肉で揚げ物なんですけど」と長田さん。

「タレカツだけの弁当と、野菜の天ぷらも入ってる弁当がありますよ」

「唐揚げ弁当は、1個だけ大盛りもあります」

「大盛りを選ぶのは︱誰だろう」

「資料会でわんぱくと言えば××さんだよ」

 ワイワイ話しながらお弁当を選び、お昼を食べ始める。誰かがお弁当の上蓋にタレカツをよけ、野菜の天ぷらを頬張っていると、まわりの皆が「タレカツ、要らないの?」「残すなら食べちゃうよ」と声を掛ける。そう言われた側は、「違うよ、ごはんが食べづらいからよけてるだけだよ。全部食べるよ」と笑っている。なごやかに時間が流れる向こうでは、古書店主たちが出品された古書の山にじっくり見入り、札を入れ始めている。ひとしきり山を見終えた店主たちは、会場の隅で雑談しながら、開札を待っている。

「ほら、中央道の八王子とか、東名の横浜町田とか、あっちから首都高に入ると料金上乗せだってテレビでやってるじゃない?」

 古書店主同士の会話が聴こえてくる。オリンピック開催により、7月19日から首都高速道路は料金が上乗せされ、一般道路にもオリンピック関係車両専用レーンが設けられた。その影響で、一般道路で渋滞が発生していると、ニュースで繰り返し報じられている。

「俺もさ、上道が空いてるのはわかってたんだけど、試しに下道できてみたんだよ。いつもより早めに出てね。そしたら――見たよ」

「見たって、何を」

「ピンクステッカー」

「ああ、オリンピック関係車両ってやつだ」

「そう。グランドキャビンとかいう、ハイエースの高級なやつ。あれがピンクステッカーつけて走ってたんだけど、ウィンカーも出さずにビュッと割り込んできてさ」

「うわ、やだなあ」

「オリンピック車両は優先だって自負があるのかもしれないけど、ウィンカーも出さずに車線変更してきて驚いたよ。しかも、オレンジカット[車線変更禁止区域での車線変更]。もう、やりたい放題だね」

「やっぱり、日本の都市環境じゃオリンピックは無理だったんだよ」

 13時半、開札が始まる。

 4階の端から順番に、経営員総出で開札する。明治古典会の開札だと、経営員に"お道具箱"が配られていたけれど、東京資料会で配られるのは札の束を輪ゴムで留めたクリップボードだ。経営員は、封筒に入った札をクリップボードの上に出し、札に書かれた値段を見比べ、誰が落札したかを封筒に書いておく。開札が終わった封筒をバインダーに挟んでおく人もいれば、エプロンのポケットに入れておく人もいる。ある程度量が溜まったところを見計らって、副主任を務める「愛書館・中川書房」の牛山淳平さんが封筒を回収してまわり、幹事たちが中身を改めた上で、どの山を誰がいくらで落札したか、マイクで読み上げてゆく。

 15分ほど休憩を挟むと、今度は3階の開札が始まる。ぎりぎりまで悩みながら札を入れる古書店主もいれば、あえてぎりぎりのタイミングを狙って札を入れる古書店主もいる。

 15時半にはすべての開札が終了した。休む暇もなく、経営員の皆で片づけに取りかかる。

「××書店さん、どっちだった?」

「"送り"でした」

「じゃ、それは俺がカーゴに積もう」

「××書房さんは?」

「××書房さんは、『名寄せだけお願いします』って」

 落札した本をすぐに自分で持ち帰る店主もいれば、ルート便を利用する店主もいる。"名寄せ"とは、自分で持ち帰る店主に向け、落札者ごとに本を仕分けておく作業を指す。ルート便で"送り"になった本は、経営員が落札者ごとにまとめてカーゴに載せ、2階におろしてゆく。16時50分にすべての仕事が終わると、喫煙所で一服しようと、長田さんはエレベーターに乗り込んだ。

 今回はもう駄目だ――エレベーターで一緒になった「青聲社」の豊蔵祐輔さんがぼやく。この週末には、五反田にある南部古書会館で「五反田遊古会」と題した古書即売会が開催される。即売会とは一般客向けの古本市だ。ふたりは経営員仲間であり、五反田遊古会という古書即売会でも顔を合わせる仲だ。

「だってもう、売り上げが︱目録だって、あんまり注文入らなかったんですよ」

「今回も警察関連の本、目録で出してましたよね」

「でも、今回は注文が入らなかった。お客さんも、売れ残りを出してるってのがわかってるんですよ」

 経営員になるより前に、長田さんは五反田遊古会で豊蔵さんと知り合っていた。「古本トロワ」を創業して間もない頃は資金繰りも厳しく、固定の手当がもらえる経営員になれないかと相談したのが豊蔵さんだった。

 長田さんは37歳でこの業界に入った。前の職場を退職したあと、インターネットで求人を見つけ、神保町の「澤口書店」で働き始めた。

「前の職場っていうのが、レコードショップだったんですね。退職したときは正社員だったんですけど、アルバイトの期間も長かったから、40手前で再就職は難しいだろうなと思ったんです。自分で仕事をやるしかない、って。レコードショップに勤めてたときにも本を扱ってたから、古本屋で勉強しながら当面の生活費を稼ごう、と。それでネットで検索したら、出てきたのが澤口書店だったんです」

「澤口書店」で働き始めたのは、2015年10月頃のこと。少し仕事にも慣れ始めた11月に、社長に命じられて五反田遊古会に足を運んだ。

「たしかあのとき、当日になって社長に『五反田に行くぞ』と言われて、右も左もわかんない状態で南部古書会館に連れて行かれたんです」。長田さんは笑いながら当時のことを振り返る。「正直な話、最初はめちゃくちゃ怖かったんですよ。古本屋の店主って、ちょっと怖いイメージがあるじゃないですか。でも、五反田遊古会があるたびに南部に行っていると、普通に話しかけてくれるし、慣れてくると五反田遊古会に行くのが楽しみになって。だから、自分で店を始めたあとも、遊古会に入らせてくださいとお願いしたんです」

 澤口書店に入って間もない頃に、長田さんは社長に「お前は40で独立しろ!」と言われていたという。その言葉通り、40歳を迎える2018年に独立し、「古本トロワ」を創業する。

 長田さんは落札した本を鞄に入れると、御茶ノ水駅まで歩く。17時22分発の中央線快速武蔵小金井行きに乗り、吉祥寺パルコを目指す。

 5月29日から10月17日まで、吉祥寺パルコ2階で「TOKYO BOOK PARK吉祥寺」という古本市が開催されており、「古本トロワ」も出店中だ。毎週水曜日は、東京資料会で経営員として働いたあと、棚の補充に足を運んでいるのだという。売れたスペースに本を補充するだけでなく、棚を耕すように、じっくり時間をかけて本を並べ替える。棚の右端にあった本を手に取り、これをどこに移動させるか――長田さんの手が宙をゆらぐ。

「もう、迷いっぱなしです」と長田さんは笑う。「でも、ベテランの方でもきっと、迷いっぱなしな気がします。特にこういう古本市だと、自分の店じゃないから、何が正解かってわからないんですよね。『これでよし!』とは思えないんだけど、どこかで形を決める。しばらく経って、売り上げをチェックして、『あれ、駄目か』となったら並び替える。触らないとどんどん棚が死んでいくのはわかっているから、触りにこずにいられないんですよね」

 長田さんの言うことはもっともだ。一度並べて、しばらく売れないのであれば、棚を触って並びを変える必要があるのだろう。ただ、そうだとわかっていても、東京古書会館から吉祥寺パルコまでは30分以上かかる。経営員として働くのは力仕事でもあることを考えると――しかも、明日からは五反田遊古会もあるのだと思うと――「今日はまっすぐ帰って休むか」と、自分なら思ってしまいそうだ。今日のような日にまで棚を触りにくるのはなぜだろう?

「うーん、何でだろう」。長田さんはしばらく考え込んだ。「やっぱり、嫌なとこが少しもないからだとは思うんですけどね。自分の棚を触りにいくのって、苦にならないんですよ。もし会社勤めしてて、仕事として『棚を補充してこい!』と言われたら『うわ、やだな』と思うかもしれないけど、そうじゃないっすからね。早く帰ってこどもと遊びたいなとか、そういうのはありますけど、棚を触るのが嫌だとは思わないんですよね。それに、『今日はやめとこ』ってサボっちゃうと、明日の自分がキツくなるだけで、結局自分に返ってくるんですよ。『仕事が好きだから!』みたいなことではないんだけど、別に嫌じゃないしやっておくか、と。だからもう︱生活ですよ」

 1時間近く棚を触り、吉祥寺パルコをあとにする。普段であれば、TOKYO BOOK PARKで補充を終えたあと、缶ビール飲み干してから帰途につく。家で飲むときは第3のビールだけど、仕事終わりに飲むのはいつもサッポロの黒ラベル。ただ、今日はまだ仕事があるからと、ビールは飲まずに改札を抜ける。中央線の上りはがらがらだ。新宿駅で山手線に乗り換えて、五反田にたどり着くころには、時刻は19時をまわっている。誰もいない南部古書会館でひとり、仕事に取りかかる。

 南部古書会館は、東京古書組合南部支部の建物だ。東京古書会館と同じように、古書店同士の古書交換会が定期的におこなわれており、五反田遊古会や本の散歩展、五反田古書展といった即売会も開催されている。

 2020年春、新型コロナウイルスの感染が拡大し始めると、開催を中止する即売会も出始めた。4月上旬に入ると、緊急事態宣言に合わせて古書会館もクローズし、4月の本の散歩展と、5月の五反田遊古会は中止となった。五反田遊古会は中止と再開を繰り返し、昨年11月を最後に開催が途絶えている。「この8个月のあいだに、五反田遊古会向けに溜め込んだ本があるんです」。本の山を前に、長田さんが言う。「うちはお客さんからの買い取りはほぼゼロなので、仕入れはぜんぶ市場で、それも南部の市場がほとんどなんです。市場に行くと、買うのをセーブできないんですよ。『ある程度在庫はあるから、今は買わなくてもいいかな』って、入札せずにセーブできる人もいると思うんですけど、僕は市場に行くととりあえず札を入れちゃう。買ったら儲かるものが目の前にあるのに、これをみすみす誰かに渡してやるものか︱そういう意地汚い気持ちが働くんです。『今すぐには必要ないから、買わなくてもいっか』とは思えない。売りに出てるなら、買えないにしても札を入れないと、もったいない。今はもう、市場で買いたいから仕事してるみたいになってきてますね。そのためには本を売らないと」

 五反田遊古会の会場となるのは、南部古書会館の1階と2階だ。2階の棚は事前に希望を聞き、棚の配置を決めておく(ただし、棚が余っていれば追加で申し込める)。1階の均一棚は、開催前日に籤引きで棚を決める。1階も2階も、棚を使えば使ったぶんだけ、経費がかかる。でも、「僕は物量にものを言わせて、できるだけたくさん棚を借りてやるんです」と長田さんは笑う。先週のうちに値付けはすべて終えていたものの、棚何台分ぐらいの量があるのかと、事前に調べにきたのだ。

 しばらく本の山を数えていたけれど、「どう考えても、この2日間じゃ出し切れないことがわかったので、今日はもう終わりにします」と、仕事を切り上げた。時刻は20時、南部古書会館の閉館時間だ。ただし、管理人がいるわけではないので、長田さんは自分で電気を消し、施錠をして、南部古書会館をあとにする。五反田駅へと向かう道すがら、あちこちで提灯がともり、賑やかな喧騒が聴こえてくる。

(古本トロワ編7月22日、23日は2021年9月刊行の書籍『東京の古本屋』に収録しています)