第二回 女の時代、メディアの時代(前編)                対談ゲスト:酒井順子さん(エッセイスト)

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【対談ゲスト:酒井順子さん(エッセイスト)】

女性雑誌の誕生と進化

平山(以下、平) 今回は「女100年のメディアと流行」というテーマですが、昭和100年はまさに女の時代、メディアの時代だったかと思います。100年というと長いスパンですが、大雑把に分けると、前半192557年)は戦前、戦中、戦後ですよね。そして後半19912025年)はいわゆる「失われた30年」。間の195890年)がわたしや酒井さんが生まれ育った、高度経済成長からバブルという一番景気のいい時代だったと思うんです。メディアでいうとテレビとラジオと雑誌の時代でした。酒井さんは『百年の女』(中公文庫)で雑誌『婦人公論』(中央公論新社)の100年(創刊は大正時代ですが)を眺めて書かれていますが、まさに今回のテーマに近いですね。

酒井(以下、酒) そうですね。昭和初期というと、『婦人公論』(中央公論社)とか『主婦の友』(主婦の友社)とかは既に出ていて、だんだんと人気になって。

 女性誌が全盛になっていく頃ですよね、少女雑誌もすでにたくさんありました。少女雑誌が「少女」の概念を作ったといういい方もされていたりもします。少女雑誌は『少女界』(金港堂書籍、1902年)が最初といわれていますが、『女学世界』(博文館、1901年創刊)とか『少女世界』(博文館、1906年創刊)とか『少女の友』(実業之日本社、1908年創刊)、『少女画報』(東京社、1912年創刊)、『少女倶楽部』(大日本雄弁会講談社、1923年創刊)とかいっぱいありました。

 女学校に行く人が増えることによって、子供時代と主婦時代の間にモラトリアム期間が生まれてきました。その時間で雑誌を読むようになったり、趣味や余暇の時間など、個人で使っていい時間が生まれてきた。高等女学校への進学率の高まりは、ただ学歴が高くなるということだけではない影響をもたらしたと思います。

 高等女学校令が1989(明治32)年ですね。いわゆる新中間層(注1)といわれる公務員とかサラリーマンとか頭脳労働の人たちの家庭が登場して、お父さんは家と違う場所で働く、お母さんは家で家事、育児、教育をやる、少女たちは高等女学校に行って雑誌を読むという生活スタイルになった、と。なので明治3040年代に少女雑誌がいっぱい出てきた。投稿欄などで独特の世界が生まれて、それこそ「エス」(注2)みたいなお姉さまと妹の関係みたいなのができたりとか。それでいうと、7080年代に雑誌がたくさん創刊されたのも、ニューファミリーとか核家族みたいなところから出てくるので、図式が近いのかな。

 短大、大学への女性の進学率が上がってさらなるモラトリアム期間ができることによって、いわゆる赤文字系の雑誌が人気になったり、女子大生ブームみたいなものがあったりしました。そんなところも、女学校登場の時代と似ている気がします。

 しかも7080年代になってくると景気が良くなって、留学したり、バイトや派遣という労働形態も出てきたりしてすぐに定職に就かなくてもよくなった。モラトリアム期間がさらに長くなって、30歳ぐらいまで楽しく暮らせたんですよね、当時は。

 60年代の週刊誌ブームもそうですよね。女性週刊誌って最初はOLをターゲットにしていたじゃないですか。OLたちが週刊誌を読んだのも、結婚までの期間の延長が背景にはある。女性週刊誌は、最初はOL向けで、だんだん主婦も読むようになっていったようです。それぐらい読者としての女性会社員、つまり可処分所得を持つ層が増えてきた時代。

編集担当:そうなんですか! 当時はもうちょっと今より高尚って言ったら失礼ですけど、今のああいう感じじゃなかったんですか?)

平・酒 高尚でもない(笑)。

 やっぱりミッチー(美智子妃)ブームに伴って創刊されたので、皇室ネタは今に至るまで鉄板。「セックス」の話題も、かなり取り上げていました。

平・酒 (笑)。

 すごい並びですね。皇室は定番ネタですよね。酒井さんは皇室ネタがお好きとか?

 紀子さまと同い年の者としては、やはり皇室ネタ好きです。やっぱり楽しいですよね。市井の女性たちの生き方が皇室の人たちとか皇室の妻たちにも反映されているかのようで。

 うんうん、確かに。

 紀子さんと雅子さんは違うとか、眞子さんがああなるとは、とか。

 佳子さんはどうなるとか。

 最近は『赤と青のガウン オックスフォード留学記』(PHP文庫、2024年)が今、ベストセラーの三笠宮彬子さまとか、時代を表しているなって思うんですよね。

 あの方たちはロールモデルがないから大変ですよね。

 本当にそうです。でもロールモデルの話でいうと『負け犬の遠吠え』(講談社、2003年)を出したときに、編集者の女性が人生相談をしてきたんですよ、「私も負け犬なんですけど」とか。そのときみんな必ず「ロールモデルが見つからなくて」と言ってました。最近高齢者本についての新書(『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書、2024年)を出したのですが、それについてのインタビューを受けるときも女性の編集者の方が必ず「ロールモデルがいない」と。「負け犬」から20年以上経ってて、まだみんな......

 迷い続けてる。ははは。

 なんなら私が会社員時代も、同じように「ロールモデルがいない」と言っていましたから、35年以上前ですよね。だから多分もっと前の人も、ロールモデルって言葉はないにしても、何か上に目標になるような人がいないなって思ってたんじゃないかな。

ロールモデル問題――『クロワッサン』『anan』『JJ』

平 「ロールモデル問題」。これは女性特有なんでしょうか。

 男性は戦後から昭和いっぱいにかけて、さほど生き方が変わっていません。ずっと「稼ぐ主体」であったわけですが、女性は時代によって生き方がどんどん変わっていくというところにおいてロールモデルが見つかりにくいのでは。

 そうですよね。レールがあればそこから外れる人にもある程度パターンが......

 脱サラ組には脱サラ組のロールモデルがあるわけだし。

 あります、確かに。

 女性にはなかなか。多様すぎるというか。今に至るまで働き方も結婚や子産みのスタンダードもどんどん変わっていっていますから。だからロールモデルがいないという女性に対しては「この先ずっと多分見つからないと思う」と言ってます(笑)。

 個人的にはロールモデルとか気にしないで生きてきたタイプではあるんですけど。実は最近、松原惇子『クロワッサン症候群』(文藝春秋、1988年)という本を読みまして。

 ありましたね。

 『クロワッサン』(マガジンハウス)という雑誌が、774月に創刊した時は「ふたりで読む ニュー・ファミリーの生活誌」っていう謳い文句だったんですけど、そこから1年でガラッと変えて「女の新聞」というキャッチフレーズで、主婦が店を始めるとか、自立の体験談を載せるようになったんです。そのなかでロールモデルを非常に称揚していて、御用達文化人がいるっていうふうにこの本には書いてあって、それが桐島洋子さん(注3)、犬養智子さん(注4)、澤地久枝さん(注5)、向田邦子さん(注6)、加藤登紀子さん(注7)、吉行和子さん(注8)、これがみんな「東京出身でキャリアがあって独身もしくは変則的結婚をしている美人でない中年女性」っていう(笑)。

 はははは。

 そういう共通項があるというふうにこの本では書いていて、なんならあえて不美人に写ってる写真を使ってるんじゃないかと。ただ桐島洋子さんにしても向田邦子さんにしてもちょっと特殊というか、真似できるようなものではないんですけどね。で、それに憧れた人たちが何となくそのまんま年を取って、それこそ負け犬......という言葉はこの頃にはないけど、そうなっていくとしているんですね。

 なるほど!

 原因はもちろん雑誌だけではなくって、本人たちの依存心が強いとか、親子の癒着があるとか、豊かな時代になって職業選択ができるようになったせいだっていうふうに書いてあるんですけど。

 『クロワッサン』が出たのが......

 774月創刊。で、1年後の785月号で路線変更。

 フェミっぽくなって、女性の自立みたいなものを称揚していったけど、それに乗り切れない人もいた。あとやっぱりマガジンハウスの雑誌は、なんていうか、負け犬養成メディアという面もあるし(笑)。

 うん、うん(笑)。

 モテるために何かするっていうんじゃなくて女性が自分がこうしたいからそうしましょう、そうしなさいっていうような雑誌でした、「anan」創刊の頃から。

 わりと啓蒙的ですよね。

 対して『JJ』『CanCam』『ViViなどの赤文字系雑誌のような、モテた末に夫をサポートし、偉くさせて、そちらのお金で自己実現をしていくという専業主婦養成メディアもあった。そういう二大流れがあったように思いますね。

 そうですね。斎藤美奈子さんの名著『モダンガール論』(文春文庫)の「女の子には出世の道が二つある。社長になるか、社長夫人になるか」を思い出しました。そういう意味では、昭和初期のモダンガールと何も変わってない。ちなみに『アンチ・クロワッサン症候群:結婚しない女たちの素顔』(社会思想社)という本もありまして、これは「わいふ」(現『Wife』)(注9)という、主婦の投稿で成り立ってるミニコミから始まった雑誌の編集部が出した本なんですけど。この本の主張としては、女性がたかが雑誌に煽られただけで人生を変えるわけがない、むしろ時代に応えて雑誌が生まれてるんだと。御用達文化人もそれほど出てなくって、それ以外の有名人も細切れに大量に出ている、読者の投稿もリアルである、と。そもそも『クロワッサン症候群』の著者の松原さんは男性の視点を内面化し過ぎている、結婚できない人=嫁き遅れ的な文脈で捉えてるじゃないか、でも、やっぱり自立は大事でしょ、と「わいふ」の方は主張しています。

 なるほど。実は、赤文字系とマガジンハウス系の方向性がわかれる瞬間っていうのがあったんですよ。

 えぇーっ。

 「ニュートラ」(注10)ってご存知ですか?

 はい。

 ニュートラブームというのは、1975年ぐらいから始まっています。『JJ』が『別冊女性自身』として創刊された時からニュートラ特集だったんですけど、でも実はニュートラを初めて紹介したのは、『anan』なんです。

 へえー!

 『anan』に「ニュートラのすべて」って特集がある。しかも表紙の子の髪型が......

 ニュートラですね。

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 『anan19759月号

 

 1974年頃の『anan』では、ニュートラを新しいファッションとして紹介していたんです。マガジンハウス(当時は「平凡出版」)は、新しい動きをキャッチする術に長けていますから。けれども、やっぱりニュートラを着てる人たちは保守的で、男性にモテるためのファッションだっていうことに気づいて、だんだんこのままでいいんだろうかっていうふうに思い始めたんですね。それでとうとう、1975年の9月号『anan』で「あなたはニュートラ派? リセ(注11)派?」という論争に。

 お! リセが出てきた。

 そう! リセエンヌも、実は「Olive」ではなく「anan」が先に紹介してます。

 リセエンヌ、パリの高校生。

 はい。要するに自分を表現するファッションが「リセ」ということになっているんですけど、ここでいろいろな男性に好みを聞いて、両派が激突している。

 へえ、男性に? それもどうなの。

 で、保守的な男性はニュートラ派で、もっと左寄りの人は「やっぱりリセですな」とかいって(笑)。

平・酒 (笑)。

 言われる筋合いない!(笑)。

 ニュートラが好きか、リセが好きかでイデオロギーがきっぱりわかれる。吉行淳之介なんかは「リセだ」と言っておりますね。で、結局ここで『anan』は、ニュートラと決別するんですよ。「さよならニュートラ」になってニュートラは『JJ』に引き取られることに(笑)。

平・酒 あははは。

 でもそっちの方が人数多いですよね、きっと。

 そうなんですよ。そして大ブレークする。

 言われてみたら「アンノン族」が京都に旅行に行ってるとき、ニュートラファッションをしていたような気がする。

 そう。こういう(コピーを示して)鎖マークのブラウスとかってもうニュートラ、ハマトラの象徴じゃないですか。

 スカーフの上にネックレスしてるし。

 実は1976年って日本の女性にとって結構大きな年なんじゃないかと私は思っていて。ニュートラとリセが分かれたというのは、日本女性の生き方の、二つの大きな潮流ができたということなんですよね。

 おぉー。確かに、生き方にも関係しますね。

 そうなんですよ。

 「anan」早い! それで75年に『JJ』創刊っていう感じですね。へえ......わたしが作った資料のメディア・流行年表には「ユリ・ゲラーが来日」とかそんなしょーもないことしか書いてない(笑)。

 いや、ユリ・ゲラーも重要です!

 五島勉『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)発売とか言ってる場合じゃない。いや、小学生には19997月に恐怖の大王が降ってくることは一大事件でしたが。

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 (中編に続く)

 

注1 新中間層 自営農家や中小商工業者などの旧中間層に対して、資本主義の発達に伴って増加した専門・管理・販売などの業務に従事するホワイトカラー層のこと。(デジタル大辞泉より)

注2 エス Sisterの頭文字からとられた隠語で、女性同士(同級生、先輩後輩、先生と生徒、少女雑誌の投稿欄における擬似姉妹など)の親密な関係を指す。ほかに「オメ(お目)」、「おでや」、「オカチン」、「アルファとオメガ」、「バウ」、「ハンドイン」、「ご親友」、「お熱」などさまざまな呼び名があり、語源にもそれぞれ諸説がある。

 注3 桐島洋子 1937 - 。エッセイスト、ノンフィクション作家。高校卒業後に文藝春秋新社(現文藝春秋社)に入社し『文藝春秋』誌の記者となる。妻のあるアメリカ人との間に3子を産む。最初の出産は退職したくなかったために妊娠を隠し、出産後1週間で職場に復帰。第二子出産時には医療費がかからないため海外旅行に出かけて船で出産。第三子は子供の父親の船に同乗するために書類を偽造してプレス・パスを入手するなど体当たりの人生を生きる。その後、ロスアンゼルスで新しい恋人と子どもたちとの生活を書いたエッセイを1970年に刊行して人気となる。

 注4 犬養智子 1931 - 2016年。作家、翻訳家。三井銀行役員、衆議院議員などを歴任した祖父と、証券会社投資取締役の父、三井銀行第3代会長の娘である母を持つ由緒正しい家柄に育つ。学習院大学政治学科を経て米イリノイ大学大学院に留学。シカゴ・デイリーニューズ社に勤務する。帰国後にフリーランスとなり、翻訳、童話、エッセイ、小説のほかイラストなども手がける。共同通信社社長の犬養康彦と二児をもうけて離婚。地方制度調査会、国や都の審議会委員なども務めた。

 注5 澤地久枝 1930 - 。中央公論社の編集者を経て『妻たちの二・二六事件』を執筆。その後『火はわが胸中にあり』で日本ノンフィクション賞、『記録 ミッドウェー海戦』で菊池寛賞を受賞。昭和史や太平洋戦争関連の著書が多数ある。

 注6 向田邦子 1929 - 1981年。テレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。映画雑誌の編集者を経て、ラジオやテレビの脚本を書く。おもなドラマ作品に『時間ですよ』、『寺内貫太郎一家』、『阿修羅のごとく』、おもなエッセイに『父の詫び状』など。1980年には『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』で直木賞を受賞した。料理も得意で、妹と小料理屋を開店。料理本なども出版した。

 注7 加藤登紀子 1943 - 。シンガーソングライター、作詞家、作曲家、女優。東京大学在学中に「日本アマチュアシャンソンコンクール」で優勝してデビュー。2枚目のシングル「赤い風船」で日本レコード大賞新人賞を受賞したのを皮切りに、歌唱賞を2回受賞している。現在、日本訳詩家協会6代目会長。星槎大学共生科学科客員教授。

 注8 吉行和子 1935 - 。俳優、エッセイスト、俳人。作家吉行エイスケと美容師の吉行あぐりのもとに生まれる。兄は作家の吉行淳之介。女子学院高等学校在学中に劇団民藝付属水品研究所に入所。1955年に舞台と映画でデビューする。映画『にあんちゃん』、『才女気質』で毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。大島渚監督の映画『愛の亡霊』主演で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。エッセイでも日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。

 注9 『わいふ』 1963年に創刊した女性向け会員制投稿誌。1975年から第二次『わいふ』、2006年から第三次『Wife』として現在も発行を続けている。なお、第二次期に「主婦の復権」をめぐって東京女子大学教授(当時)の林道義と田中喜美子編集長の間で論争が起こった。

 10 ニュートラ ニュー・トラディショナルの略。1970年代半ばから1980年代半ばにかけて流行したファッションスタイル。ブラウス、カーディガン、ワンピースなどシンプルなスタイルにグッチ、フェンディ、エルメスなどのブランド小物を合わせるファッション。『anan』が命名したといわれる。なお同時期に横浜・元町界隈で流行したトラディショナルなファッションを「ハマトラ(横浜トラディショナル)」と呼んだ。

 11 リセ フランスの後期中等教育機関。但し80年代以降、日本の女性誌でファッションとして語られる「リセ(エンヌ風)」はフレンチカジュアルと呼ばれる、ボーダーのカットソーやチノパンツ、スカーフ、カーディガンなどシンプルでシックな装いを指す。80年代の『オリーブ』では実際のリセエンヌたちの街角スナップや屋根裏部屋のインテリアなどを掲載していた。

 

【対談ゲスト】 酒井順子(さかい・じゅんこ)

エッセイスト。1966(昭和41)年東京生まれ。高校時代より雑誌「オリーブ」に寄稿し、大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003(平成15)年に刊行した『負け犬の遠吠え』はベストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。著書に『子の無い人生』(KADOKAWA)、『男尊女子』(集英社)、『家族終了』(集英社)、『消費される階級』(集英社)、『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)など多数。