9月9日(金)昭和四十八年の北上次郎

いやあ、びっくりした。日下三蔵から「これ、目黒さんですか」とメールがきたのだ。何だろうと思って添付ファイルを開いてみると、

 週刊小説創刊記念
 賞金一千万円懸賞小説

 と大きな見出しが目に飛び込んできた。実業之日本社の「週刊小説」の創刊(昭和四十七年)を記念して小説を募集したらしいのだが、その結果が昭和四十八年十月十九日号の「週刊小説」に載ったというのだ。

 該当作はなし。佳作に、赤江行夫「通訳の勲章」という作品が選ばれている。この段階では日下三蔵がなぜこの懸賞小説の結果を私に送ってきたのか、まだわからない。視線を下にスーッとずらしてようやく判明した。最終候補作が他に四篇あり、その四篇の作者と作品名が並んでいたのだが、そのいちばん下に、こうあったのである。

 北上次郎「沈黙の石」

 いまミステリマガジンに連載中の「書評稼業四十年」でも書いたのだが、最初に「北上次郎」の筆名を使ったのは、一九七二年につくった個人誌「星盗人」で1ページ書評を書いたときである。これは個人誌であるから、当時の私の知人たちにしか渡していない。書店で販売する雑誌で初めて「北上次郎」の筆名をつかったのはその翌年に創刊された「月刊NANPA」で見開きのコミック評を書いたときだ。この「月刊NANPA」は当時私が勤めていた明文社が創刊した若者向きの雑誌で、その編集長に「目黒くん、なにか書かない」と言われて書いたものだ。2号が出たのは記憶しているが、3号が出たかどうか、もう覚えていない。

 本の雑誌の創刊は一九七六年だが、つまりその創刊前にも「北上次郎」の筆名は使っていたということだ。北上次郎の「沈黙の石」が週刊小説の懸賞小説最終候補に残ったのは昭和四八年(一九七三年)であるから、「月刊NANPA」の創刊と同年である。だから若き私が書いたとしてもおかしくはないが、もちろん私ではない。

 日下三蔵が週刊小説について調べていたときにたまたま昔の記録が出てきたということらしい。ちなみに、その週刊小説の懸賞小説の選考委員は、丹羽文雄、柴田錬三郎、吉行淳之介、水上勉、尾崎秀樹の5人。

「北上」も「次郎」も珍しい姓名ではないから、同姓同名の人がいてもおかしくはない。私は筆名にすぎないが、その方は本名だった可能性もある。週刊小説の懸賞小説と同年に出た「月刊NANPA」の創刊号は、小出版社の雑誌であったから、昭和四八年のその「北上次郎」氏の目に触れた可能性は低い。その三年後に創刊された本の雑誌も、最初は小部数であったから、その「書評とブックガイド」誌で自分と同じ名前の人間が書評を書いていることを知らなかった可能性のほうが高い。

 しかし、最終候補の「沈黙の石」がどういう内容の作品なのかはわからないが、週刊小説の懸賞小説に応募したのだから、エンターテインメントには違いない。だとするならば、その方がその後もエンターテインメント作品を書き続けていたならば、どこかでこっちの北上次郎の名前を知ることもあったかもしれない。昭和四八年の北上次郎氏は、そのときどんなことを考えただろうか。年齢の記載がないので、そのときに幾つだったかもわからない。

 そういえばずっと昔、私は榊吾郎という筆名を使っていたこともあるのだが(ほんの一時期、この筆名でサンデー毎日にコラムを書いていたことがある)、柾吾郎がデビューしてからその筆名を使うのをやめてしまった。柾吾郎は一九八七年に第一三回のハヤカワSFコンテストに『邪眼』が入選してデビュー。のちに『ヴィーナス・シティ』で日本SF大賞を受賞した作家である。榊吾郎と柾吾郎は同姓同名ではないが、なんだかよく似ていてまぎらわしい。どうせこっちは遊びの筆名だからとひっこめたわけである。

 昭和四八年の北上次郎氏が週刊小説の懸賞小説に応募した年と、書店で販売する雑誌で私が初めてこの筆名を使った「月刊NANPA」の発売年は同年であるので、まったくの偶然だが、あちらの「北上次郎」氏がその後、どういう人生を送ったのか、思いが馳せていくのである。