8月15日(火)パリの秘密

 ピエール・スヴェストル/マルセル・アラン『ファントマ』(赤塚敬子訳/風濤社)を手に取って驚いた。1976年のハヤカワ文庫版(訳者は佐々木善郎)を詳細には覚えていないけれど、こんなに厚い本だったろうか。もっと薄かったのではないか。本書の訳者あとがきを読むと、ハヤカワ文庫版はオリジナル版の約6割だという。今度の風濤社版が初の全訳らしい。なるほどね。

 子供向けのリライトや翻案にこのタイプが多いことは今さら書くまでもないが、大人向けの本でも意外に多い。たとえば、ウジェーヌ・シューの『パリの秘密』は、「世界大ロマン全集」の一冊として東京創元社から1957年に翻訳されているが(関根秀雄訳)、原著の7分の1ほどの抄訳である。

 ユゴーがこの『パリの秘密』を読んで創作意欲を大いにかき立てられ、そして書き上げたのが『レ・ミゼラブル』であったというのは有名な逸話だが、この『パリの秘密』について私は以前、次のように書いた。少し長くなるが、引く。

 ユージュヌ・シュー『パリの秘密』は19世紀中頃のパリを舞台に、泥棒、売春婦、堕胎医、そして貧困に苦しむ労働者など、底辺に生きる人々と、贅沢な生活を営む貴族階級の人々が織りなす波瀾万丈のドラマをストーリー色豊かに描く風俗小説である。他人の財産をかすめとるインチキ公証人や前科者、気のいい荷揚げ人足、そして足を洗いたがっている泥棒一家の長男など、多彩な登場人物が入り乱れ、そういう意味では矛盾に満ちた芥溜のパリが活写されている。しかし、薄倖の少女マリや貧困の中でも笑顔を忘れない娘リゴリットなどに見られる大衆小説のツボを外さないメロドラマづくりは見事でも、狂言まわしのロドルフが無個性なので、全体の印象を弱めているのは惜しまれる。さらにご都合主義的な展開が目立ちすぎ、必ずしもすぐれた小説とは言いがたい。底辺の人々への愛情と物語を貫く正義感、そしてその通俗性が当時の読者の喝采を浴びた要因なのだろう。

 エラそうに書いているが、このとき私が読んだのは、東京創元社の「世界大ロマン全集」におさめられた抄訳版であった。つまり7分の1バージョンである。この時点では全訳版の存在を知らなかった。

 1970年代初頭に、世界の名作シリーズという海外文学叢書が全34巻で集英社から刊行されたことがある。『戦争と平和』『罪と罰』『武器よさらば』など、内容的には珍しい書目ではないが、新書版というのが斬新であった。当時の集英社には、コンパクト・ブックスという新書版があり、石原慎太郎『野蛮人のネクタイ』、富島健夫『あぶれた野郎』、梶山季之『やらずぶったくり』など、エンタメ(こういう呼称はまだなかったが)作品を刊行していた。集英社文庫は1977年の創刊であるから、まだ文庫のなかった時代である。その手軽な器に、海外の名作をいれたわけである。

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 この「集英社コンパクト・ブックス 世界の名作」は全34巻であったが、それ以外に別巻を刊行。その1が『風と共に去りぬ』全4巻、その3が『デカメロン』全2巻で、そしてその2が『パリの秘密』全4巻だった。

『パリの秘密』のまえがきには、「全訳とは言えぬまでも一応原著に従って最後まで訳し終えたのは、本訳書をもって嚆矢とする」とあるので、厳しく言えば完訳ではないようだが、集英社版には「初の完訳」と書かれているし、チラシを見てもそこには「本邦初完訳の問題作」とある。東京創元社の「世界大ロマン全集」におさめられたものがこの「完訳版」の7分の1であるというのは、このまえがきの記述による。

 この『パリの秘密』完訳版の存在を知り、しかもその4巻本まで入手したのにこれまで読んでこなかったのは、それを必要とする仕事もとうの昔に終わってしまったからだ。しかし長い間、この完訳版の存在が気になっていた。この夏に、えいっと『パリの秘密』全4巻を読んだのは長年の宿題を片づけたかったからである。

 ユゴー『レ・ミゼラブル』を読んだときのことを思い出す。私がこの長編を読んだのは35歳を過ぎてからだが、実に面白かったことを思い出す。私は子供時代に、児童向けの世界名作全集の類をまったく読んでこなかったので、初体験であった。どうしてこんなに面白いものを読んでこなかったのだと後悔するほど、夢中になった。

 たとえば、ジャン・ヴァルジャンが下水道に逃げ込むと、パリの下水道はどうやって作られたのかその歴史が延々と記述されるのである。どこからどこまでの間は、何何男爵の指揮のもとに作られたとかなんとか、それはほとんどノンフィクションの挿入といっていい。あるいはジャン・ヴァルジャンが修道院に逃げ込むと、今度はパリの修道院の歴史が延々と記述される。『レ・ミゼラブル』は壮大な枝話の連続であると、どなたかが書いていたが、本当にその通りなのだ。

 児童向けの抄訳版ではおそらくそういう「ノンフィクションの部分」はカットされていると思われるが、そこがこの長編のキモだと思う。なぜなら、そうやってユゴーは19世紀初頭のパリを立体的に描きだしているからである。抄訳版ではストーリーしか残らないが、あの大長編の真の面白さはストーリーにはない。それをさまざまなパリの歴史で挟むことで全体像を浮き彫りにするというユゴーの意図がある。それは、完訳版でないと絶対に伝わらない。

 ということがあったので、ウジューヌ・シュー『パリの秘密』完訳版を読むとき、ユゴー『レ・ミゼラブル』と同様な発見が、こちらにもあるかもしれない、と思った。なにしろ抄訳版の7倍もあるのだ。

 この先が書きにくい。ウジューヌ・シュー『パリの秘密』の完訳をこの夏読んだことをけっして後悔はしていない。19世紀の小説は、特に通俗小説は、独特の雰囲気を持つので面白いのだ。台詞が多いし、テンポはゆっくりだし、昔の大衆小説はやっぱり好きだ。『レ・ミゼラブル』を読んだときの発見は、残念ながらなかったが、しかし長年の宿題を終えることが出来たし、それだけでいいとしよう。ただいまは、自分にそう言い聞かせているのである。