はじめに:終の住処について
終の住処というものについて、ちゃんと考えたことがなかった。「終の住処」と書くべきか、それとも「終の棲家」と書くべきかもわからない。「住む」と「棲む」、「処」と「家」。「家」というと、限定された箱、空間をイメージする。「処」ならもう少し広く考えられそう。食う寝るところに住むところ。その家がある街や、もっと広くとらえて「地方」まで広げられるかもしれない。ならば「住処」としようか。終の住処。
若いころは終の住処をどこにしようかなんて考えなかったし、終の住処について考える自分を想像することもできなかった。そもそも先のことをあまり考えていなかった。たとえば20歳のころは、3年先の自分の姿すら想像できなかった。どんな職業に就いているのか、どこで暮らしているのか、誰と暮らしているのか。
ことあるごとに「10年前はどうだったか」と考える。今から10年前、2015~6年ごろというと、東京と京都の二拠点生活をしていた。毎月、京都で1週間から10日間前後をすごし、東京で3週間前後をすごすというパターンだった。2015年のぼくは、10年後の自分が、東京の家を手放して京都に定住しているとは考えてもいなかった。ぼんやりと、二拠点生活を続けているだろうと思っていた。2015年のぼくが現在のぼくを見るとびっくりするだろう。
さらに2015年から10年さかのぼる2005年ごろはどうか。東京・奥沢の暮らしに満足していた。10年後に京都との二拠点暮らしをしているとは思っていなかったはずだ。ずっと奥沢で生活していくのだろうと考えていただろう。「終の住処」という意識もなかったけれど、そのまま物理的に住めなくなるまで奥沢の家で暮らしていくと思っていた。
では、さらにその10年前、1995年ごろはどうだったか。阪神淡路大震災があり、地下鉄サリン事件があり、バブル経済が崩壊したころだ。大田区中馬込の賃貸マンションに住んでいた。10年後に家を建てて住んでいるとは想像もしていなかった。筑摩書房の営業局長だった田中達治さん、通称「たっちゃん」と、蔵前の居酒屋で飲んでいて、テレビに映る阪神淡路大震災直後の光景に言葉を失い、たっちゃんと顔を見合わせたのを覚えている。あのころは、地震の多いこの国で住居を購入して定住することのリスクや、経済の不安定さについてあれこれ考えたのではなかったか。もちろんあのとき、12年後にたっちゃんが57歳で亡くなるとは予想もしていなかった。前立腺がんだった。
さらにその10年前、1985年ごろはどうか。目黒区大岡山の狭いアパートで暮らしていた。西武百貨店池袋店にある西武美術館のミュージアムショップ「アール・ヴィヴァン」で働いていた。いや、支店の「カンカンポア」(シブヤ西武B館地下)にいたか。田口久美子さんが船橋西武の書籍売場から店長としてシブヤ西武に異動してきたのもこのころだった。ぼくが副業でライターの仕事を始めたのはその少し前。もちろん「終の住処」なんて考えもしない。会社を辞めることは、ちょっと考えていたかもしれないけれど。
こうして振り返ってみると、10年先のことは予想もつかないのだとわかる。ああしよう、こうしよう、こうなるだろう、ああなるだろうと、予想したり計画したりしても、たいていその通りにはいかない。奥沢に家を建てたのも、二拠点生活を始めたのも、そして京都定住を選んだのも、すべてそのときどきの妻とぼくの選択で、誰かに求められたわけでもないし、何か不可抗力があったわけでもない。それでも10年先のことはわからない。ぼくたちは京都を終の住処に選んだけれども、この先何があるのかはわからない。「終の住処は京都にしました」というのは、あくまで現時点での暫定的なことでしかない。
親たちの終の住処はどうだったのか。ぼくの父は小学校の教員で、北海道旭川市周辺の町をほぼ5年間隔で転勤していた。ぼくが生まれたのは父が比布町の小学校に勤務しているとき。比布町は旭川市の隣の小さな町で、昔、樹木希林とピップエレキバンの社長が登場するCMで話題になったことがある。その後、父は当麻町、美瑛町と転勤し、家族もそのたびに引っ越した。ぼくは小学校で1回、中学校で1回、転校を経験している。そんな経験からか、引っ越しというものに拒否感はない。そして、どこに住んでいても、この家は仮のものでまた何年かしたら引っ越すだろうという感覚も消えない。いや、消えなかった。奥沢に家を建てるまでは。
ぼくが大学進学で親元を離れても、父の転勤生活は続いた。旭川市から少し離れた名寄市で5年ほど勤務した後、旭川市に隣接した鷹栖町に転勤してそのまま定年退職をむかえた。退職と前後して旭川市内に家を建て、そこで父と母は20年あまり暮らした。
両親は土地だけ40代なかばに買っていたようだ。定年退職するまでは辞令に従って旭川市周辺の市町村を数年おきに転勤し続け、基本的には官舎住まい。定年退職したら夫婦ともに育った地域に近い旭川市東部の住宅街に家を建て、そこを終の住処とする。両親が描いていた「住処」についての計画はそのようなものだったろう。
79歳で大腸がんが発見された母は、何度かの短期入院を除くと最後まで自宅ですごした。訪問診療と訪問介護を利用しながら、ぼくの妹が介護をした。ホスピスを検討したこともあったが、結局、本人は自宅での終末を望んだ。がん発見から1年後、80歳で亡くなった。母の大腸がん発見と前後して父にも障害があらわれた。当初はアルツハイマー病かと思われたが、多系統萎縮症だとわかった。ろれつが回らなくなり、脚がもつれて転倒を繰り返し、隣町の施設に入った。母が亡くなって数ヶ月後、父も最期が近いとわかり、自宅に戻った。そして、母と同じく訪問診療と訪問介護を利用しながら妹が看取った。82歳だった。結局、定年後に建てた家が彼らの終の住処になった。万事彼らの計画通りだ。
義母、つまり妻の母の終の住処は自立型の老人ホームだった。義父を送ったあと──がんだった。ホスピスの順番待ちをしている間に亡くなった──老人ホームに入った。老人ホームの立地について、ぼくたちが暮らしていた自由が丘近辺がいいか、義母の郷里の諏訪湖付近がいいか、義母の弟が暮らしていた大宮近辺がいいか、それとも義母が暮らしていた所沢近辺がいいかと訊くと、義母は迷わず住み慣れた所沢を選んだ。老人ホームに入居して義母は楽しそうだった。それまで自宅でしていたのと同じようにホームの自室で手芸を教え、ホーム内にも友だちができた。ミシンを使ってトートバッグづくりにも熱心だった。入居前は自室の浴室を使うつもりだったのに、入居後はもっぱらホーム内の大浴場に通っていた。「これまでの人生で、いまがいちばん楽しい」と義母はいっていた。そこには施設探しに奔走した娘(ぼくの妻)への感謝が込められていたのかもしれないが。
ところが数年後、老人ホームが経営危機に陥り、親会社がゼネコンに替わった。施設の責任者は利用者への説明会で「経営危機に陥った根本原因は皆さんが長生きされているからです」といったのだとか。この老人ホームは利用者が退去したり死んだりすると空いた部屋を次の利用者に販売するのだが(利用者が得るのは部屋の所有権ではなく、売買や相続はできない)、長生きする利用者が多く、いわば〝回転率〟が悪くなって赤字になってしまったらしい。親会社が変わると施設内の空気も変わった。義母が親しくしていた職員は次々と辞めていき、新しく来た職員はあまり親切でなかった。施設の変化のためか、あるいは加齢によるのか、90歳を過ぎたころから義母は不調を訴えることが増えた。最後は心臓が弱り、救急搬送された病院で亡くなった。義母にとっては老人ホームが終の住処になった。
東京・奥沢に家を建てたとき、「終の住処」という意識はなかったけれども、「この街にずっと住み続けたい」という気持ちがあった。「この街」というのは自由が丘界隈のこと。子どものころから数年おきに引っ越しをしていたぼくは、家を所有するという考えがなくて、たぶんずっと賃貸住宅を住み替えながら生活していくのだろう思っていた。大岡山には10年あまり住んだ。居心地のいい街なので、できることなら、大岡山も含めた自由が丘駅からの徒歩圏に住み続けたいと思った。ところが大岡山のアパートから大田区中馬込の賃貸マンションに移るときも、そこから世田谷区等々力の賃貸マンションに移るときも、住まい探しには苦労した。適当な物件がないのではなく、ぼくの信用度の問題だった。いちばんのネックはフリーライターという職業だ。前年までの収入状態を示す書類を見せても難航した。そのため貸主とのやりとりではずいぶん嫌な思いもした。引っ越しのたびにこれではたまらない。そこで、自由が丘界隈に住み続けるために家を建てることにした。驚いたことに、土地を買うのはマンションを借りるよりもうんと簡単だった。
家を建てるとき、「いつまで住むか」という意識はなかった。漠然と「ずっと」と思っていた。体が動く限り住み続けて、自分たちだけでは生活できなくなったら、施設に入ることになるのだろうとぼんやり考えていた。
家を建てるにあたって、ぼくも妻もそれぞれの両親に相談しなかった。そもそも相談しようという発想もなかった。すべて事後報告だった。ぼくが東京に家を建てると聞いて、父は不機嫌になったと母がいっていた。妹の話によると、父も母も、いつかぼくが北海道に帰ってくるのではないかと期待していたらしい。両親がまだ元気だったころ、ほぼ2年に1回、両親の顔を見に行っていた。いつのまにかぼくは、「北海道に帰る」ではなく「北海道に行く」というようになっていた。晩年は生まれ故郷の北海道で、と考えたことはない。
2010年に京都の家を購入したときも、ここが終の住処になるとは考えていなかった。東京と京都の二拠点生活をしよう、年に何度か、1~2週間滞在して、京都暮らしを楽しもうと思っただけだった。あのころは忙しかった。京都に行けば仕事を忘れてのんびりできる、好きなお茶も点てられると思ったのだった。
もしも二拠点生活をしていなければ、京都に定住することはなかった。二拠点生活をするまで、京都はときどき観光で訪れる街であって、住む街としては考えられなかった。排他的なイメージがあったし、「ぶぶ漬け伝説」に象徴される「京都人は腹の底で何を考えているのかわからない」という幻想に惑わされていたのだと思う。でも月の内の3分の1を京都で暮らすうちに、京都人はそれほど排他的ではないし、意地悪でもないということがわかってきた。
二拠点生活をしていなければ、「終の住処」ということも考えなかったかもしれない。その意味では、二拠点生活は「年をとったらどう暮らしていくか」を考える良いきっかけになった。

