10月9日(木)戌井昭人『おにたろかっぱ』

  • おにたろかっぱ
  • 『おにたろかっぱ』
    戌井 昭人
    中央公論新社
    2,860円(税込)
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戌井昭人『おにたろかっぱ』(中央公論新社)は、崖っぷちミュージシャンの父ちゃんが、3歳の息子タロと過ごす日々を描いた物語で、まるでその様子は令和の『岳物語』なのだった。

子供を子供として扱わず、ひとりの人間として対等に付き合う。その源にあるのは確固たる教育や思想なんてものではなく、単に父ちゃんがそれほど立派ではないからだ。立派ではないことを父ちゃんはしっかり理解しているのだ。

それは父ちゃんだけではない。元漁師で日がな一日せんべいを食べタバコを吸う竹蔵さんも、自動車工場をクビになり筋肉をつけようと町中をタイヤを引っ張て歩くのぼるくんも、賭けごとが大好きなアコーディオン弾きの田部井さんも、登場人物のほとんどがいわゆる「社会」からこぼれている人たちであり、それはまるで『岳物語』の野田知佑さんのようでもあり、そのすべての人が愛おしくなる素晴らしい小説だった。この小説があれば、これからどんなつらいことがあっても生き延びていけるだろう。

かつて坪内祐三さんが戌井昭人さんの『ひっ』を現代の「教養小説」と評し、教養小説を「つまり一人の若者の人格の形成や発展を描いて行く小説だ。」と定義していた。(新潮社「波」2012年9月号掲載『テキトーに生きろ/現代の「教養小説」』より

その評の中で坪内さんは

「二十一世紀の現代、そのような乱痴気に巻き込まれても、それは、大人になるためのイニシェーションたり得ない。
 ならばどうすれば良いのだろう。
 そのことを、大人に成り得ないことを、正確に書いて行けば良いのだ。」

と記しているのだけれど、『おにたろかっぱ』はまさしく大人に成り得ないことを育児を通して正確に書かれた小説であり、育児というイニシエーションにより大人になっていく教養小説であろう。

3歳のタロは、父ちゃんの大好きな古今亭志ん朝を聞いているので言葉の発達がとても早く、さらに身体も大きく、どんどん成長していく。

ひるがえって父ちゃんは少し前にドラマの主題歌としてヒットしたものの、その後はコロナもあって尻すぼみになっている。

自分はまだ飲んだくれたりして遊びたいものの、目の前に手のかかる息子がおり、生活費を稼ぐデザイナーの妻は忙しく、気づけば息子の世話をしている。

心の中はまだ子供と変わりない父ちゃんと目の前でどんどん成長していく息子。父ちゃんはその息子の姿を見て成長していく。

坪内さんは書評の結びとして、

「私は『ひっ』に続く戌井昭人の「教養小説」、すなわち三十歳になった時の「おれ」の姿を読んでみたい。つまり『ひっ』の続篇を切望する。」

と書いているが、『おにたろかっぱ』はまさしく五十四歳になった「おれ」の教養小説なのではなかろうか。

坪内さんに読んでほしかった。そしてその書評を読みたかった。

10月8日(水)バス旅

日の出前に家を出、始発2本目の電車に乗って、南船橋を経由し蘇我駅にたどり着く。いつか来た駅と思ったらジェフのスタジアムがあるところで、駅の改札は真っ黄色だった。

しかし本日はサッカー観戦ではなく、移動はまだ半分にも達していない。

ここから高速バスに乗車するのだが、そのバス停が見つからない。事前にYahoo!の路線情報で調べたところ蘇我駅というバス停から南総里見号という高速バスに乗れるはずなのだが、駅ロータリーに立つバス停にはその文字がない。発車時刻は刻一刻と迫っており、気分はまさにバス旅のリーダー太川陽介である。

藁をもすがる想いで、ちょうどロータリーに入ってきた同じ会社のバスを運転するドライバーに尋ねるも、「僕もイレギュラーで今日初めて蘇我駅に来たのでわかりません」と謝られ万事休す。

本来はここからバスで2時間ほど先にある千倉という外房の町までいき、イラストレーターの信濃八太郎さんと落ち合い、とある旅館の社長さんにインタビューする予定なのだ。

もしここでバスに乗れず別の方法をとったら一時間も二時間も遅刻ということになるだろう。そうなればインタビューは録り終えている頃だ。

嗚呼、まさかバス停が見つからないなんて落とし穴があるだなんて。信濃さんすみません。初めての取材だというのに申し訳ございません。

と電話帳から信濃さんのアドレスを探しつつ、最後の頼みの綱であるGoogle先生で「蘇我駅 高速バス 乗り場」と検索し、さらに画像検索してみると、南総里見号のバス停が写しだされた。

あるのだ! 実在するのだ! どこかにあるのだ!

その画像が載っているプログに移動するとこんな文章が記されているではないか。

「バス停には蘇我駅となっていますが・・・駅からは離れています。歩いて約4~5分位でしょうか。どちらかと言えば、"蘇我駅前"とか"蘇我駅前大通り"の方がいいんじゃないかと思いました・・・。」

そしてさらに地図のようなもを見つけると、確かに駅前からまっすぐ伸びる道にバス停が表示されていた。

ここか!?

慌てて走ること数分で、南総里見号のバス停を発見する。そしてすぐにバスがやってきて無事乗車できたのだった。

朝9時、千倉駅に到着し、信濃八太郎さんと無事落ち合え、取材も滞りなく進んだ。安西水丸さんの愛する「SAND CAFE」にて、さざえカレーを食す。帰りは東京駅行きのバスに乗る。

10月7日(火)ハレとケ

午前中は月に一度の会議。「本の雑誌」と単行本の進捗状況や特集の内容などを確認していく。

今週末より怒涛の如くはじまる週末のイベント出店のスケジュールを見て、進行の松村が、「杉江さん、ちゃんと代休取って休んでくださいね」と心配してくれる。

しかし営業なんてものは本が売れるなら疲労をまったく感じず、本が売れないと立ち上がれないくらいくたびれるのだ。だから少なからず本が売れるイベントはまったく疲れず、それどころかいろんな人に出会えてハッピーなので、イベントはいくら続いてかまわない。去年は9月からの一年間で27日休日にイベント物販していたほどだ。

それにしても15年くらい前は、出版社が軒を並べて本を売るイベントなんて神保町ブックフェスティバルとブックマーケットくらいしかなかったものが(かつては大掛かりな東京国際ブックフェアというのがあったが)、いまや市町村が主催したり、よもや書店店頭に出版社の人間がずらりと並んで本を売ったりとで、毎週のようにどこかで本を売るイベントが開かれているのだった。

本のお祭りが増えるのはうれしいことではあるのだけれど、本が、あるいは本を買うことがハレとケでいえばハレのものになってしまっているということでもあり、それは少し心配なのだった。

本なんてものはいつもすぐそこにあってほしい。
どちらかというとケの中で手に取られてほしい。

10月6日(月)カレーのまんてん

  • 本の雑誌509号2025年11月号
  • 『本の雑誌509号2025年11月号』
    本の雑誌編集部
    本の雑誌社
    880円(税込)
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昼前に「本の雑誌」11月号ができあがってきたので、助っ人の鈴木くんや編集の近藤と早速ツメツメ作業に勤しむも、今月は『神保町日記』のチラシを投げ込んだりとひと工程増えたおかげで、3時近くまでかかってしまう。

あまりにお腹が減ったので、「カレーのまんてん」でカツカレー(ご飯少なめ)を食していると、なんとインバウンドの旅行者がぞくぞくと店にやってきてびっくりする。しかも「チキン」と頼んで「ポークオンリー」と言われ、結局退店したりという顛末。いったい誰がインバウンド向けのガイドに「カレーのまんてん」を紹介したのだろうか。

夕方、駒込のBOOKS青いカバさんに「本の雑誌」の納品に伺い、夜、上京していたスズキナオさんと青山ブックセンターで待ち合わせし、近くの酒場で連載の打ち合わせ。わくわくしてくる。

10月5日(日)遠田潤子『天上の火焔』

  • 天上の火焰
  • 『天上の火焰』
    遠田 潤子
    集英社
    1,980円(税込)
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週末実家介護三日目。さすがに三日いると飽きるというか母親の何気ない一言にイラついてしまう。

満を持して遠田潤子『天上の火焔』(集英社)を読み出す。

遠田潤子の小説であるからさまざまな人間の業の中で、人生がジェットコースターのようにうねっていくのだけれど、「親と子という関係は逃げられない天命のようなものです。たとえ、それがどのような関係であってもです。/自分の意思では選べず、避けることもできない。ならば、天命とはある意味、天災のようなものだ。」という文章があり、わが胸を撃ち抜かれる。

小説は備前焼の窯元に生まれ育った主人公が、人間国宝でありながらも好好爺の祖父とそれとまったく対照的に冷酷無比で息子に愛情を注がない父親の間でもがき苦しみ、ふにゃふにゃの人間からひとりの人間に成長していく様を描く家族小説であるのだけれど、その一端は恋愛小説にもなっており、また青春小説でもある。

さらにそういったジャンルを超えた「遠田潤子の小説」ということになるのだけれど、遠田潤子はやはり強烈だ。読み終えた頃にはすっかり小説に呑み込まれてしまい、母親へのイラつきなどすっかり雲散霧消してしまった。

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