2月13日(金)厳選の蔵書

スッキリ隊出動。本日は500冊と少量なので、立石書店の岡島さんと私の一軍のみで千葉市若葉区に向かう。スッキリ隊の遠征としては千葉県最長不倒距離の更新。道が混んでおり、到着まで二時間ほど要す。

蔵書整理をご希望された方はお仕事を定年し、本の終活をされているとか。残すのはこれだけにしましたと大切そうに本棚に鎮座していたのは藤沢周平全集と沢木耕太郎ノンフィクション作品集成、そして中村哲氏の著作だった。なんて素敵な厳選の蔵書なんだろうか。

一時間ほどで整理を終え、スッキリ飯として「元祖 豚丼屋 TONTON」でロースと豚バラの「ハーフ&ハーフ」を食す。並盛りとは思えない量で、岡島さんともども大満腹。

夜、帰宅後にたかしまサーカスの人たちとオンラインの読書会。20代の方々が中心なのだがとてもたくさん本を読んでおり、好きな本屋さんを聞けば私も知らぬような独立系書店の名前がぽんぽんあがる。幸せな一夜を過ごす。

2月12日(木)10周年

今年一月で10周年を迎えた本屋Titleさんを訪問し、10周年記念本の『転がる本屋に苔は生えない』(タイトル企画)と、Xのポストで一目惚れしていた地図子『生きている実感がほしくて、川を歩いている』(ことばの畔 えにし舎)を書い求む。

店主の辻山さんが本屋Titleをオープンする以前は、都内で小さなお店を開けるなぞほとんど皆無で、私の記憶では山下書店から独立した旗の台の松田書店と、井荻書店から独立した音羽のBOOKS音羽くらいだった。それらのお店はこれまでの本屋さんの流れを汲むお店であり、本屋Titleさんはその後「独立系書店」と呼ばれる本屋さんのはしりだったろう。

しかし本屋Titleさんのおもしろいところは「独立系書店」に見えながらも世間のベストセラーがないわけではなく、先週発表になった本屋大賞のノミネート作も一冊ずつ棚や平台に差してあるのだ。だからお店に入ってどこかほっとする。知っているものがあるという効用だろう。いわゆる「街の本屋」でありながら、「独立系書店」の顔も見せている稀有なお店だ。

この10年の間にいったい何万人の人が荻窪駅からこの本屋Titleさんまでの道をてくてく歩いたろうか。あの本を買おう、この本あるかな。どんな本が並んているかな。もはやこの道は本の巡礼の道と言ってもいいのではなかろうか。

そんなことを想いを馳せながら今日私もてくてく歩いた。実は先週休みを勘違いしておなじ道を歩いたのだけれど。

10年経って本屋Titleさんは本好きの教会になったのだ。

2月11日(水・祝)せっかくの休み

週末は実家に赴き母親の介護にあたっているため、正真正銘の休みは祝日のみ。

朝から長距離ランニングをと予定していたものの雨が降っておりひとまず断念。息子を仕事場に送っていきがてら、妻、娘と浦和美園のイオンへ。ユニクロに直行し、Jリーグとのコラボ企画で、Yシャツにレディアの縫い付けをオーダーする。大人気のため出来は3月1日になるらしい。

帰宅後、昼食をとって横になったら夕方まで熟睡してしまう。ランニングもできず怠惰な1日を過ごしてしまったことを激しく後悔。

2月10日(火)新年会

午前中、デスクワークに勤しんでいるとお隣さんの書泉のKさんが来社。出版関係のよもやま話。

午後、来週、滋賀のたかしまサーカスでお世話になる琵琶湖の漁師である宮﨑さんが来社。漁の話を伺う。

夕方、大阪の出版社140Bの青木さん来社。一緒に作った「4 booksellers for books. 4B」という本を読者に届けるグループの話をする。

夜、市ヶ谷のアルカディアに行き、ネット21の新年会に参加。挨拶で書店員2氏がベタ付け報奨金のお願いをしていたが、出版社の経営者及びお偉いさんの挨拶は本の値段をあげますというお話だった。

帰宅後、今日が誕生日だった娘に図書カードをプレゼント。たいそう喜ぶ。

2月9日(月)本の雑誌動乱録 その2

本の雑誌社から届いた封書には書類審査を通ったという書面と地図が入っていた。今ならスマホで行き先がすぐわかるけれど、当時はスマホもなく、どこかに行くには地図が必要だった。送られてきた地図は手書きのイラストで記された地図だった。

本の雑誌社は京王線の笹塚駅から十号通り商店街というのを抜け、住宅地の真っ只中にあるようだ。ほとんど真っ直ぐなので間違いようはなさそうだが、ただとある交差点に「不安になってもまだ真っ直ぐ進んでください」と書いてあるのが気になった。

面接の日時を決めるのに初めて本の雑誌社に電話する。まさか椎名誠が電話に出ることはないだろうが、それでも緊張した。呼び出し音が一度か二度鳴る前に女性の声が聞こえ、面接を受ける者ですと伝えると担当者に代わった。

その時勤めていた歯学書の出版社の勤務時間は9時から18時だった。営業で外回りしていたとはいえ勤務時間中に面接に行くわけにはいかず、終業後でいいかと訊ねると問題ないとのことだった。会社のある御茶ノ水から笹塚まで余裕をもって一時間と考えた。面接は9月下旬の7時と決まった。

椎名誠に会えるかもしれない。そのことで激しく緊張した。

それまで椎名誠が監督した映画の上映会に付随したトークショーに出かけたこともあったし、サイン会に並んだこともあった。しかしそれは会ったというほどのものではなく、ただただその姿を眺めるという程度だった。

それでも私は椎名誠のオーラに完全にノックアウトされていた。全身から放たれるただ者ではないオーラに足が震え、声をかけるどころではなかった。

作家・椎名誠との出会いは、実はテレビだった。ザッピングしていたテレビにムツゴロウさんこと畑正憲が映し出され、私はリモコンの指を止めた。当時、動物王国など季節ごとに特番が組まれる人気ものだったのだ。そのムツゴロウさんの隣に黒々と日焼けした人が、柔和な笑顔を浮かべて座っていた。それが椎名誠だった。

平成元年、1990年の6月のことだったと思う。その年、私は高校を卒業し、浪人となり、予備校通いをしていたのだ。

通っていた高校は95%が大学か短大にすすむ進学校で、同級生はみなその春、受験をし、受かったり受からなかったりしたが、なんの迷いもなく大学にいくことを目標としていた。

私もその流れに浮かんでいたものの、ずっと心の奥底で悶々としていた。なぜ大学に行かなきゃいけないのか、それがわからなかったからだ。

学校の先生は大学に行かなければ人生は終わると脅した。両親は自分たちが大学に行っていないから大学は出ておけといった。5つ年の離れた兄は、自身の大学生活を思い浮かべ、「大学は自由な時間がいっぱいあるから好きなことができる」と薦めてきた。

しかし私はその自由な時間に魅力を感じていなかった。実は校則のない高校ですでに三年間自由を履き違え、自由な時間をとことん謳歌してしまっていたのだ。もうこんな無駄で怠惰な時間には耐えられなかった。

さらに私を悩ませたのは「好きなこと」だった。兄はその好きなことである音楽に大学生活を費やしイカ天などに出場していたが、私にはそもそも好きなことがなかった。

大学に行け。
好きなことを探せ。
その二つに私は追い詰められていた。

その春、まったく身の入らないまま受けた大学はすべて不合格となり、流されるように浪人し、代々木の代々木ゼミナールに漂着していた。

そうして2ヶ月ほど経った頃、高校の同級生で親友の下澤くんと秋葉原駅で会った。会ったというか待ち合わせをしていた。

下澤くんも大学受験に失敗し、水道橋の研数学館という予備校に通っていた。親友ならば同じ予備校に通えばいいと思うのだが、下澤くんはそれだと絶対遊んじゃうからと同窓生がほとんどいない予備校に通っていた。

日比谷線の電気街口の改札口で下澤くんを見つけると私たちは並んで改札を通り、ホームに立った。どこかに立ち寄るわけではなく、秋葉原から北千住、そしてそれぞれの家がある東武伊勢崎線に一緒に乗って帰るだけだった。週に一度、それが浪人生に許された唯一の息抜きだった。

北千住で東武伊勢崎線に乗り換え、青い空の下を黒々と流れる荒川を渡ったときだった。文系だった私は、それまでの2ヶ月で日本史と英語の成績は上がったものの、どうしても国語が成績が芳しくなく、そのことを下澤くんに相談したのだった。

すると下澤くんは笑みを浮かべてこう言ったのだ。

「それは杉江が、本を読まないからだよ」

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雪もすっかり溶けており、無事介護施設に車がやってくる。二泊三日の幽閉から解放される。

直行で市ヶ谷の地方小出版流通線ンターさんへ新刊の見本出しに伺う。いまだに「配本」を期待している出版社がいるというのに驚く。

見本出しを終えるとすぐに会社に戻り、納品されたばかりの「本の雑誌」3月号のツメツメ作業に勤しむ。

16時半に終了。駒込の青いカバさんと千駄木の往来堂書店さんに直納。

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