炎の営業日誌特別篇『本をはさんで 版元営業という人生』第2回 島田孝久

歯学書の出版社から本の雑誌社に転職した私は、学生時代アルバイトしていた本屋さんへ報告に伺うと、店長から飲み会に誘われました。その飲み会には店長と仲良しの出版社が10数人参加しており、酒を飲みがらざっくばらんに、しかし真剣に本を売るということについて語り合っておりました。

文芸版元ってこんな感じなんだと驚きつつ酒を飲んでいると女性の営業の方からA4一枚のチラシを渡され、そこには手書きの文字がびっしりと書かれ、「晶文社SCRAP通信」とありました。それが私の「晶文社」との出会いであり、またその裏面に掲載されていた「麺食いシマダのこの店に行け!」に釘付けになりました。

当時、営業先で前任者と比較されることに、どうやって私は名前を覚えてもらえばいいのか?と悩んでいた私はこのコラムを見て、そうか自分もDMに自分ことを記したコラムを書けばいいのだと気づき、「今月の杉江」というのを書き出しました。そこでは本のことを離れ、大好きな浦和レッズのこと、家族や友人のことなど好きなように記していきました。そうしてどうにか「杉江」の名前と個性を覚えてもらい、今もどうにか営業という仕事ができているのです。

その私にとって営業の恩人である「麺食いシマダ」は、晶文社の営業部長だった島田孝久さんです。しばらくは「晶文社SCRAP通信」という誌面を通じての存在でありましたが、その後、書店店頭や飲み会などでお会いする機会ができ、私の目指す「版元営業」となりました。今回ははじめてゆっくりお話を伺うこととなりました。


大学2年で就職、いきなり紀伊國屋書店に営業へ

── 島田さんは何年生まれですか?
島田 昭和23年。西暦でいうと1948年。
── 今はだから......。
島田 7のゾロ目なんですよ。世間では喜寿っていうらしいですけど(笑)。
── 77歳。最近までお仕事されていたイメージなんですが。
島田 1970年に晶文社に入ったんですよ。で、僕は大学の受験に2回失敗していて、3回は無理だろうなっていうので、その時にぎりぎり入れたのが私学では法政の二部。そこに滑り込んだんです。
── はい。
島田 で、その大学2年生の時に晶文社の求人広告を朝日新聞で見て......。
── 僕も朝日新聞の求人広告で二度、出版社に就職しました(笑)。
島田 初めて求人欄を見てさ(笑)。それでその時は大学は二部だったから、昼間は日本橋横山町にあった東屋さんっていう乾物屋で働いてたのね。すごくよくしてくれてたんだけど、そこの女将さんが「島田くん、そろそろウチみたいなところじゃなくてちゃんとした勤め人にならないとダメよ」って言われて。「新聞の求人を見てごらん」って見てみたら、たまたま「晶文社 出版社員募集」って。
── 出てたんですか?
島田 出てたの。とっても小さい枠で。それですぐ電話かけてね。そしたら「これこれこういう風になってるから」と言われて「わかりました」というので行ったんですよ。
── その時まだ大学の4年生じゃなくて、2年生ということですか?
島田 2年の途中なんですよ。それで東屋さんっていう乾物屋の女将さんが尻を叩くものだから、「じゃあ」って。
── そういうもんなんですか!?(笑)
島田 まあ面接だけ行ってきますって気分だったんだけども、面接に行く以上はそんな汚い格好をして行くわけにもいかない。その当時長髪だったからね(笑)。
── おお!
島田 その日本橋の横山町っていうのはね、今はわからないけど当時は呉服とかの衣料問屋街だったんだよ。で、その東屋っていうのはそういうお店の食堂に乾物を卸すみたいな感じで商いをやってたわけね。そこの女将さんが、せっかく面接に行くんだったらってすぐ近くのお店でスーツの上下一式を用意してくれてさ。
── すごい!
島田 初めてスーツなんて着てさ(笑)。
── そのスーツを着て晶文社の面接に行ったわけですね。
島田 そうしたらいきなり「島田くんね、免許ある?」って訊かれてね。持ってないですって言ったら運転免許を持ってるのが条件で、「ないとダメなんだ」って言われて。
── それは先に言ってほしいですよね。
島田 というのも取次に見本を持ってまわるのに車を運転できないとダメだったからね。その免許を持っていた人が辞めるから急遽募集したみたいなんだ。
── それじゃあ不採用に?
島田 「ああ、免許かぁ」って言ってたら、「まあいずれにしても面接終わってから判断するけども」って言って、7人ぐらい応募者がいたんですよ。で、面接を受けたら営業だって言われて。当時出版の営業ってなんだかわけがわからなくてさ、ただとにかく営業だっていうわけで、「そうですか」って(笑)。で、「他の6人はみんな免許持っていて、君だけ持っていないんだけど」って。でも最終的に社長が「君に決めたから、会社を1時間早めに帰っていいから教習所に行ってくれ」と採用になっちゃった。
── じゃあすぐに免許を?
島田 30教程だったかな。毎日教習所に行けてひと月で取れたの。で、30教程で1回で免許取れれば教習代は会社が出してあげるからって。
── それは気合い入りますね。
島田 そうしたら仮免で一度滑ってさ(笑)。31教程かなんかになっちゃった。でもそれを言ったら「まあそれぐらいなら」って会社が出してくれたわけ。
── それじゃあスーツを乾物屋の女将さんに買ってもらって、免許は会社に出してもらって(笑)。
島田 そうなんですよ。面接が11月3日だったかな。その日に採用されて、4日に初出社で出勤したんだけど、前任者がいないんで「君一人で紀伊國屋に行って」って(笑)。
── ええっ!?
島田「えっ、一人でですか?」って僕も驚きましたよ。それでも「わかりました」って行きました。
── それは新宿の?
島田 そう、新宿の紀伊國屋書店へ。
── それでいきなり「今日入った晶文社の営業ですけど」みたいに?
島田 そう。できたての名刺持って、「晶文社です」って言ったら、紀伊國屋の人に「どうぞ」って言われたんだけど、何やるのかわからなくてさ。「すみません、何やったらいいですかね」って、書店員さんに逆に訊いて。
── えええ、すごすぎる(笑)。究極のOJTですね。
島田 一応「自社の本の在庫調べててください」って言われたので「わかりました」って。あの頃まだ、晶文社も1960年の創業から10年目ぐらいで、総刊行点数は50点ぐらいかな。あとは学参があったくらいで、B5の用紙の片面に収まるぐらいだったのね。
── 一覧注文書が?
島田 そうそう。で、裏に学参とか学校案内とか中学参。入試用の問題集とかが載っていて、両面で全部受注できた。
── はい。
島田 で、とにかくそれを紀伊國屋に行ってチェックしてさ。最初は時間がかかったよなあ。

背表紙にサイのマークを入れる

── その当時の紀伊國屋さんの建物は今のビルなっていましたか?
島田 なってました。古いのからもう前川國男のあの建築になってた頃で。当時は2階と3階と4階が本屋さんだった。1階はいわゆるストリートになっていて、いろんな物販店が入ってた。地下は飲食店がだーっと入っていて。
── そういう感じだったんですか。
島田 で、2階が雑誌と文庫、文芸かな。3階が人文・社会・理工専門書。で、4階のホールの手前にちょっとした売り場があって、それは芸術書売り場で。だいたいその3フロアだったわけ。
── 今からは信じられない光景ですね。
島田 で、晶文社って小さな出版社なのに、なぜか3フロアに関わるわけ(笑)。
── 文芸もあれば人文書も芸術もあるし...。
島田 そう(笑)。メインは文芸だけど、3階の社会科学にもちょこっとあるし、もちろん芸術書もあるし。それでとにかく3フロアの棚をくまなく調べてさ。自社の本を探すの結構大変なんだよ(笑)。
── あれ、実は大変ですよね。棚に並んでいる背表紙から見つけるのが難しいんですよね。入社前に晶文社の本は読まれていたんですか?
島田 あのね、面接のときに「何かウチの本を読んだことありますか?」って訊かれて、とにかく3冊、エンツェンスベルガーの『政治と犯罪』っていう本と、チェーザレ・パヴェーゼ全集の『故郷』っていう本と、あとポール・ニザンの『アデン アラビア』かな。3冊ぐらいなぜか読んでいたのでそれを言ったら、「ほう」とかって認められた。それはつまりあとで訊いたらその時に応募してきた人間が誰も晶文社の本なんて読んでなかったんだって(笑)。
── ええっ? そうだったんですか!? 大学生が晶文社の本に憧れるのはもう少し後の世代ですか?
島田 もうちょっと後だね。僕が入った頃はだから総刊行点数が50点で、エンツェンスベルガーの『政治と犯罪』もその後晶文社選書っていうシリーズの1巻に入れたけども、当時はまだ函入りの単行本で、チェーザレ・パヴェーゼ全集も全17巻と謳いながらまだ2冊しか出てなかったり。
── そういう時代だったんですか。
島田 ヴァルター・ベンヤミンも完結してなかったな。とにかくちょこっとしか無いわけ。それで売れる本も......なかったかな。そんな頃ですよ。
── じゃあ小野二郎さんが作った本がいくつかあるぐらいで。
島田 そうそう。やっぱり小野二郎ですね。僕は最初。その後、長田弘がやっぱりがーんっていて。その次ですよ、津野海太郎がやって来たのは。
── ええ!? じゃあ津野さんよりも島田さんの方が先なんですかっ?
島田 いや津野さんはもう晶文社に関わっていたんだけど、あの頃はまだ演劇センターっていう集団にいて、そっちをやるか晶文社で編集をやるかって悩んでいたんですよね。
── はい。
島田 それで72、3年ぐらいに津野さんが晶文社に入りますってなった。
── じゃあ島田さんが入った頃は、まだああいうカルチャー的なものは......。
島田 やり始めようとしていたぐらいな感じで。
── 書店の棚に並ぶ晶文社の本もどちらかっていうと専門書というか。
島田 ちょっと硬めだし、今みたいに全部にサイのマークが背のてっぺんについてなくて。
── じゃあ欠本調査で自社本探すのめちゃくちゃ大変じゃないですか。
島田 大変なの(笑)。だから僕、入社してすぐに編集制作に「なんかデザインに統一感を持たせてくれないか」って言ったの。で、そういう考えも元々あったんでしょうけど、しばらくしてサイのマークを統一して付けるようになって。
── そうだったんだですね。今じゃ当たり前のあの背表紙のサイのマーク誕生秘話ですね。
島田 営業からっていうかみんなの総意ですけどね。でも、あれが付くようになって欠本調査は格段に楽になった(笑)。

新聞配達に牛乳配達...小学校3年生から働いていた

── えええっとそれって大学2年なんですよね。ということは就職が決まって、大学は中退しちゃったんですか?
島田 当時、中村社長が「仕事を少なくするから最後まで大学行っていいよ」って言ってくれたんだけど、1970年代の法政っていうのはご存知だと思うんだけど、ロックアウトだ、バリケードストライキだで、学校の中にほとんど入れないような状況で。
── ああ、そういう時代ですもんね。
島田 授業も最初の1年なんかほとんどやってなかったし、2年もほとんどなくて。学校に行ったところで中に入れれば授業は受けるけども、入れなければ外の居酒屋へ駄弁りにいくという感じで、まあ大学に行くなんて感じじゃなかったわね。
── 学生運動が盛んな頃の大学生ってそういう感じだったんですね。
島田 そんな感じだったので中村社長に「どうする?」って訊かれた時に、「晶文社に来る方が面白いから」って(笑)。もういいやっていうので中退しちゃった。
── 当時の大学生にとって出版社というのは憧れの職業でしたか?
島田 出版社に就職したのが結構いた。僕は2年しかいなかったけど同じクラスの仲間が5、6人かな。未だに付き合いのある奴らなんだけど、その内の1人は講談社で、あとは光文社、理美容出版と。
── すごいですね。
島田 そいつらはちゃんと卒業してから行ったから僕の2年後に出版社に入って、その2、3年後にまた会ったときに僕も出版社だって言っても「晶文社......? 知らねえな」なんてぐらいな感じでさ(笑)。
── そんな......。
島田 それで「お前たち給料いくら?」って訊いたら、その当時ですでに2倍ちかい差があった。
── 新卒時点でそんな差が!
島田 まあそうなんだろうなあって(笑)。
── 島田さん自身は、出版社に入りたい、出版社で働きたいという意識はあったんですか?
島田 本はもちろん好きで読んでいたんだけど、仕事にするかっていうのはあまりなかったし、それこそさっき言った乾物屋の女将さんに尻を叩かれて、求人広告に目を通してちゃんとした会社があったら受けてみろって言われて、「そうですか!」ってなもんで。だからたまたまだね。
── たまたまだったんですか。たまたま入っていきなり初日に「紀伊國屋に行ってきてくれ」って。
島田 そう。だっていないんだからって(笑)。つまり引き継ぎの人がいないから。
── 前日というか当日だって、まだ大学生なわけですよね。それでどういう感じで......。
島田 一応ね、働くっていうことに関しては......あまりこれは人に話したことはないんだけど、僕は6歳の時に母親を亡くしてるんですよね。小学校1年の時、で、小学校3年の時から働いていたんで。
── ええっ!
島田 すごいでしょ(笑)。自慢じゃないけどね。
── 小学校3年生から仕事するって......。
島田 まあ、当時はそういうのも当り前だったから。今は絶対小学生を働かせたりしてたら児童ナントカ法とかで問題になると思うけど、当時、子どもができるって仕事として新聞配達があったんですよ。で、最初は朝早いのはあれだろうからって夕刊の配達からはじめて。
── 小学生3年で? ご出身はどこなんですか?
島田 東京の足立区です。ビートたけしと同じ学校なんです。
── おお!
島田 そうしてたら「お前良くやるじゃん」っていうので朝刊も任されてね。朝刊やるっていうと朝の3時ぐらいに起きないといけないわけよ。でもしょうがないねっていうので3時に起きて、2時間かけて新聞配達して、それから学校行って。ひどいときには夕刊も今日はあるからって帰って夕刊配達もしてさ(笑)。
── すごい......。
島田 それをずっとやっていて。さすがに小学校の高学年、5年か6年ぐらいになったら、今度は牛乳配達。こっちの方がお金がちょっといいから。でも牛乳は新聞と違って重いんですよ。
── それは自転車で?
島田 もちろん自転車。しかもあの当時の牛乳配達用の自転車って大人用しかなくて、それに小学5年生がまたがって、しかも布の袋に牛乳瓶をいっぱい詰めたやつをハンドルの両側に掛けて、後ろには3段ぐらい箱を積んで漕いでいくわけ。2回ぐらい転びましたよ。
── 進むのだって大変ですよね。
島田 転んで瓶を何本か割って怒られたけど、「まあしょうがない」って。だから晶文社に入る前の乾物屋に至るまでずーっと仕事してたわけ。小学校3年生から仕事をしてない時期がない。
── すごいです......。
島田 だから高校を出て大学にうまく入れるわけがない。だって受験勉強なんてしてないんだからさ。ずーっとバイトやってたから。でも貧乏だから国立しか行かれないっていうので、国立ばっかり受けてるわけ。受かるわけがないって。
── でも島田さんは中学校卒業したら働こうとはならないで高校にも行こうとか、大学も行きたいみたいな気持ちがあったんですか?
島田 大学は出なきゃっていうのはありました。みんな周りも行ってたしね。
── そうですか。
島田 でもこの間調べたらあの当時、1960年代末って大学進学率が18~22%ぐらいしかないんだよね。
── そうですよね。僕の父親も昭和18年の生まれで高卒でした。だからそんなに大学には進学していなかったと思います。
島田 でもさ、周りはみんな国立にどんどん行くし、やっぱり遅れちゃまずいよなみたいな感じだった。現役では見事に落ちて、一浪して落ちて、それ以上は無理だと思って、入れるところを探そうってなって。
── 法政の二部は授業料が安かったんですか?
島田 あの頃、法政の二部と中大の二部が授業料が3万か4万ですごい安くて、そこしか入れないというか、国立なみの授業料だったんだよね。
── 高校生の時も牛乳配達をやってたんですか?
島田 高校の時はビル掃除とかいろいろね。その時々でいい仕事があればやっていた。ひたすらずーっと。
── それじゃあ大学で学生運動やってる人たちとも全然違う感じですか。
島田 学生運動もちょこっと参加しましたよ(笑)。
── 参加してたんですか。
島田 伊東のASPAC闘争に参加して、伊東の駅前いって機動隊に追い詰められて。駅に詰められて棍棒で殴られて。伊東から泣く泣く帰ってくるんだけど催涙弾の成分が体中についてるから電車に乗るとすぐに分かるわけ。周りから人がブワーッて(笑)。
── 僕らと経験値が違いすぎますね。そうしたら初日に紀伊國屋さんに行けなんて言われたぐらいじゃ。
島田 全然。そういう意味ではまあ度胸はついていたし、人と対面するのも嫌いじゃなかったから。行ってすぐ仲良くなったりしてさ(笑)。
── 人見知りの僕からすると驚きです。
島田 紀伊國屋なんかしょっちゅう行ってたからだんだん向こうも気を許してくれるのか、「食堂行こう」とかって誘っていただいて。
── あの頃紀伊國屋さんには社員食堂があったんですか?
島田 あったんですよ。一番上の9階に社員食堂がありまして。よく連れて行ってくれた。
── 仕入れは今と同じ地下2階ですか?
島田 仕入れはそう、今と変わらない。

「明後日おいで」会ってくれない店長に立ち向かう

── あの当時、一番大きな東京の本屋さんっていったら、やっぱり紀伊國屋さんだったんですか?
島田 紀伊國屋さんでしたね。あとは、ああいうビル全体が本屋っていうのは......ああ、芳林堂があったか。
── 池袋の?
島田 そう、池袋のね。それと渋谷の大盛堂書店。あとはもちろん神田は三省堂、書泉とありましたけど吉祥寺の弘栄堂書店とかもよく行きましたね。あそこはね、すごいんですよ。あまり大きくないのに社員が50人もいて。
── 弘栄堂は有名な書店員さんがいましたよね。
島田 いました。紀伊國屋がもちろんダントツの売上だったんだけど、弘栄堂が5番目か6番目だった。
── 規模が全然違うのに。
島田 たしか1位が新宿紀伊國屋、2位と3位はどこかな......梅田の紀伊國屋が69年にオープンしたばかりで、やっぱりすごい売れたよね。だから2位だったかな。3位が芳林堂で、大盛堂で......あとは丸善が入ったか入らないかかな。
── 日本橋?
島田 そう、日本橋のね。あとは三省堂で、それで弘栄堂があって。その次になぜか銀座の近藤書店が入ってるんだ(笑)。
── えっ? 近藤書店ってそんなに売っていたんですか? しかも教文館じゃなくて近藤書店なんですか?
島田 そう、近藤書店。で、途中から銀座の旭屋書店ができて、ぐーっと伸びてきたんだけど、それまでは近藤書店が入ってた。近藤書店がなんで売れるのか最初はわからなかったんだけど、いろいろとお店の人と話してたら朝日新聞の社員たちが伝票で本を買えるんですよ。
── 外商のような扱いなんですね。
島田 「これとこれ」なんてキャッシュを持っていなくても買えちゃう。それで結構本が売れてたみたいで。
── 銀座は島田さんが担当していたんですか?
島田 行ってました。近藤書店の店長がすごい店長でね。全然会ってくれないんだ(笑)。
── ええ?(笑)
島田 まあ忙しいっていうのはあったんだろうけど、「すみません、晶文社の島田です」なんて言っても「明後日おいで」なんて感じで、もうけんもほろろでさ(笑)。「この野郎、絶対に落とすぞ」って思って、もう頻繁に行ってさ。
── そういうのは負けないで絶対に落とすぞって、そういう気持ちになるタイプですか?
島田 なるなる。僕はもう絶対会わせろって(笑)。
── あはは。
島田 だって「晶文社です」なんて言っても、「昭文社? 地図はウチは間に合ってる」なんて言われて(笑)。「いや地図じゃないんですよ」なんて。
── すごい根性(笑)。
島田 1970年に会社入って次の年に上司のB洲から地方を出張して回って来てくれって言われて。「どこ行けばいいんですか?」って尋ねたら、まず上野から高崎、前橋、長岡、新潟、富山、高岡、金沢、福井とぐるっとまわって、長野、松本、甲府と一週間で行ってこいっていうわけ。
── ええっ‼︎ まだ新幹線もないですよね?
島田 なかったね(笑)。で、「わかりました」って言ったんだけど、まず取次のトーハンさんに行って「こういうコースで回りたいんだけど」って訊いたら、「じゃあこんなお店がここにあります」って地図を書いてくれて。
── その頃トーハンさんへの見本出しは島田さんが行ってたんですか?
島田 運転免許持ちが僕しかいないので全部僕が行ってた。
── その頃のトーハンさんは東五軒町にありましたか?
島田 うん。九段から東五軒町に移ってました。
── 元々は九段にあったんですか?
島田 九段にあったんだよね。
── 日販さんは今と同じ御茶ノ水駅前ですか?
島田 そう、日販はあそこ。でも4階建てでした。
── えっ? 4階建てだったんですか?
島田 4階建てで、1階というかあれは地下だったのかな、そこが店売で。
── 坂になってるから?
島田 そう。ニコライ堂の方まで行くとスッと入れるんだけど、そこは地下なんだよね。駅の方から行くと1階で仕入はそこの階にあって、2階、3階、4階は営業が入ってて、地下にある店売の在庫の補充なんかもやってましたよ。
── それは会社から持って行ってたんですか?
島田 そうそう。当時日販の店売の晶文社の棚っていうのが、僕は紀伊國屋にずっと行ってたから文芸と思うじゃないですか。それが学参にカテゴライズされていたんですよ。
── ああ。
島田 学参のところに「晶文社」ってコーナーがあって。
── あの黄色い本とかのところに一緒に置かれてたんですか。
島田 横にね(笑)。ポール・ニザンとかなんかがね。変だよね。
── ははは(笑)。
島田 でももうしょうがないというか学参で取引口座を開けたみたいだったんで、そういう扱いになってた。

晶文社の9.11

── 晶文社は聖橋を渡った神田川沿いのところにあったんですよね?
島田 そうです。ただ僕が入った頃はあそこの並びだけどもう少し湯島聖堂の外堀り通り沿いにちっちゃな建物があって、そこに晶文社があったんです。
── ああ、近くだけど移転しているんですか。
島田 で、入社して2年か、3年ぐらい経ったら下のもうちょっと広いのが空いたっていうので、そっちへ引っ越ししました。
── いつだったか川が氾濫して大変なことがありましたよね。
島田 あれね(笑)。今でも覚えてるけど2001年の9・11のテロ、あの日の朝だったんだけど、時差があるからニューヨークのワールドトレードセンタービルに飛行機が突っ込んだっていうのが分ったのはその日の夜11時。家に帰ってテレビつけたらドーンッと突っ込んでる映像が流れていた。
── はい。
島田 こっちは神田川が氾濫してもう一日仕事にならなくて、水をかき出したりなんだり大変な思いをして、これニュースになってるかななんて思ってテレビつけたんだけど(笑)。もうずっとテロのニュースばかりでした。
── じゃあ晶文社の9・11というのもあったんですね。
島田 そうそう(笑)。晶文社の9・11は会社に水がガーッて入ってきたっていう大水害でした。
── あの時、在庫を上にあげたり大変だったと噂に聞きました。
島田 「上げろ上げろ」ってやってたけど、途中からもうね、水が来たな、と思ったら一気にガーッと。それで途中でもう「やめたやめた」って。
── もう諦めて...。
島田 諦めた。
── あの頃も見本出しはトーハンや日販を午前中までに終わらせるとかあったんですか?
島田 もちろん午前中じゃないとダメで。
── 大変じゃないですか。
島田 午前中でなくてもいいのは、日教販と鈴木書店ぐらいかな、大きなところだと。だからトーハンと日販はとにかく最初にやらないと受付けてくれないから。
── 22歳で行って初めて見本出し行くときも誰も教えてくれる人いないんですよね?
島田 いないんだよね(笑)。
── だって車を運転するのだってドキドキじゃないですか。
島田 そうだね。免許取ったばっかりだしね。あの頃、晶文社は社長の車のマークⅡとカローラとバンと3台持ってたのね。
── 3台も?
島田 なんで3台もあんなところで必要だったのか(笑)。駐車場が無いから神田明神に借りてたんですよ。そこまで車を取りに行って、見本出しに出ていくっていう。で、しばらくして神田明神から駐車場をどうしても1台あけてくれって言われて、当時たまたま僕は神楽坂にアパート借りて住んでたのね。で、「会社から近いし車を1台キミに任せる」って言われて。「ええっ、乗って帰れってことですか?」「そうそう」「じゃあ夜の付き合いが出来ませんね」「一度帰って車を置いてから行けばいいだろう」「わかりました」なんて(笑)。
── 社用車で通勤......。すごい。
島田 そう(笑)。しばらくはやってたね。
── むちゃくちゃな会社ですね(笑)。
島田 むちゃくちゃだよね(笑)。むちゃくちゃついでに言えば71年か72年だったかな。ビリー・ホリデイの自伝の『奇妙な果実』っていうのを出したんですよ。僕はジャズが大好きだったのでなんとか売りたいって思ってたんだけ、書店さんの反応が良くなくてさ。
── はい。
島田 それで「よしわかった」って思って、あの当時「ジャズ批評」って雑誌があったんだけど、そこにジャズ喫茶の広告がいっぱい載ってるんですね。それを全部調べて、首都圏、東京神奈川埼玉千葉とまわれるところをしらみ潰しにまわって。社長の車を借りてね。
── マークⅡで?
島田 そう。夜、仕事終わってから一ヶ月掛けて全部のジャズ喫茶をまわって。
── 夜!?
島田 そう。だって昼間はジャズ喫茶やってないじゃない。
── ああ、そうですね。
島田 行って、で、平野甲賀に頼み込んでカードを作ってもらったのね。「ビリー・ホリデイ自伝『奇妙な果実』晶文社から」って。それをお店のカウンターに置いてくださいってお願いして歩いた。本を置くの大変だからさ。とにかくそのカードを置いてもらって。そういうのがあるから大学なんて行ってられないって辞めちゃったんだけど、社長がある時「島田くん夜、俺の車でどこか行ってる?」って聞いたんだけど、「いやいや実はこれこれで」って説明して。「ああそう、わかった」って言って1万円。
── くれたんですか?
島田 当時俺、初任給が3万円でしたから。
── 月給の3分の1くれたってことですか。すごいじゃないですか。
島田 「いやいや、そういうつもりでやったんじゃないですから」って一応断ったんだけど、社長が「まあまあ取っておけ」っていうので「ありがとうございます」って。
── そういう売りたい気持ちっていうのは、どこから湧いてきたんですか? はじめからあったんですか?
島田 それはやっぱり好きだったからかなぁ。あの当時ジャズは好きで会社入る前から聴いていたし。だから営業が書店さんに何をするかって、結局自分のところの売りたい本が、その棚にあるかないかが勝負じゃないですか。ないとダメだから。
── はい。
島田 今と違うからね。書店しかないから。
── ネットがあるわけじゃないですもんね。
島田 だから出来るだけ本を置いてもらう努力をする。それをひたすら(笑)。
── ひたすら。
島田 うん。だから紀伊國屋に行くのもとにかくひたすら在庫をチェックして、ない本を全部チェックして、注文してもらい番線をいただいて、会社に帰って伝票切って品出しだよね。学生アルバイトと二人で一生懸命本を出して結束して、翌朝の日販の集品に渡す、という。それをひたすらずーっと。
── それじゃあ翌日には搬入してるんですか。
島田 翌日にはもう。
── それはだから紀伊國屋さんにその本がない、という時間をどれだけ短くするか。
島田 そうそうそう。急ぎの本っていうのはあまりなかったんだけど、必要なときには直納をしてたからね。

分類でいない本...

── 紀伊國屋さんにはどれくらいの頻度で通ってたんですか?
島田 頻度はそうね、週に一度は行くことにしてて。途中で週に二、三回行くようなことになっちゃったりしたこともあったんだけどさ(笑)。
── すごい......。
島田 基本は週に一度。だって注文を取って翌日に日販に渡しても、それがお店に入るのは早くて翌日、翌々日だから、その入る前に行っても意味はないんで。
── ああ、そうですね。
島田 だからその入ったのを見届けて、また行って欠本を補充するみたいなのをサイクルにするとだいたい週に一度だね。
── 話を戻すと初の出張でまわる本屋さんを決めるのに取次に行って訊いた相手っていうのは見本出ししていた仕入の人ですか?
島田 それは営業ですね。北関東エリアの営業とか、信越とか北陸とか、むこうの営業の人に話を訊いて。
── それは急に訊きにいく感じですか。
島田 もちろん急に。
── すごいなあ。「今度ちょっと行くんだけど教えてもらえますか」みたいな感じですか。
島田 そうそう(笑)
── 「高崎だったらあそこに行ったほうがいいよ」みたいに教えてくれる?
島田 そう。場所がわからないから、まず地図を書いてもらって。
── 親切な時代ですね。
島田 それで一週間、当時は土曜も休みじゃないから月曜日から土曜日でしょ。
── まだ週休二日制じゃなかったんですね。
島田 うん。それでぐるっと高崎から甲府まで一週間まわって、帰ってきた。お店に行って「晶文社です」って挨拶しても、「あっ晶文社!」って言ってくれたのは3軒くらいしかないんですよ。ほかは全部「担当変わったの?」って最初に言われる。
── どういうことですか?
島田 「初めて来ました」っていうと、「えっ地図のほうじゃないの?」って。
── ああ、「昭文社」と間違われて?
島田 地図の昭文社の方は圧倒的に営業がすごいわけ。当時の昭文社はとにかくどぶ板営業をやっていたから。だから「"しょうぶんしゃ"です」って聞いて「担当変わったの?」ってなっちゃうよね(笑)。それで「いえ、日が3つの晶文社です」って言っても「ええ?」とかって。
── 晶文社の本もちょっとは入ってるんですか?
島田 入ってたりなかったりで、あの当時、71年ぐらいで行ってすぐに晶文社ってわかってくれたのは新潟の文信堂書店さん。
── さすが。
島田 あとは......金沢のうつのみやさんかな。あんまりないんだよ、とにかく。どこに行っても「ええ?」っていわれて。
── 晶文社ってわかってくれるお店の人がいた時はうれしかったですか?
島田 うれしかったねえ(笑)。金沢のうつのみやさんに行った時に「おお~晶文社、よく来た。そこにあるから見ていってくれ」って言われて。文芸のコーナーに見に行っても本がないわけよ。で、「ないんですけど」って言ったら「いや、そこ。入口入って背中の所に『分類できない本』のコーナーがあって、晶文社の本は全部そこにつっこんであるから」って。
── あはは。
島田 分類できない(笑)。たしかにウチの本はどこに置いたらいいのかわけわかんないよなって。
── その6日間出張に行くときは当時どんなところに泊まっていたんですか?
島田 それはもう本当に一番安い、商人宿。
── 駅前旅館みたいな?
島田 鍵のかからない障子で部屋が区切られていて(笑)。
── おおお!
島田 ちょっと背伸びしてビジネスホテルみたいなところに行ったこともあるんだけど、だいたい行くところは県庁所在地だとか大きな都市だからちゃんとした宿は探せばあることはあって。
── 安いところ泊まって、電車に乗って本屋をまわる。
島田 時間はかかったね。
── そこで他社の版元営業に会うなんてことは?
島田 ほとんどない。
── ないんですか。
島田 ないね。
── そういうもんなんですか。
島田 たぶん実用書系の版元さんなんかは行ってたんだろうと思う。つまり同じ街でも行く場所が違うから。
── あっ、なるほど。
島田 文芸の版元営業とはほとんど会わなかった。
── 今はもうみんなあちこち出張先で会って、仲良くなってますよね。
島田 なんでみんな営業に行かないんだろうって、不思議に思ってたんですよ。随分経ってからだけど銀座の旭屋書店で、初めて新潮社の営業に出会った。当時、旭屋書店はアンテナショップみたいな感じの店だったんだけど、ちょっと見てこい、って言われて来たんですって。それで「えっ初めてですか?」「初めてです」なんて会話をして。
── 新潮社っていうのも1970年代までは営業も......。
島田 それもあとで取次に話を聞いていてわかったんだけど、新潮社や講談社、小学館なんていう大手は取次が営業をやるわけよ。取次にだってあれだけ営業マンがいるわけだから。
── ああそうだったんですね。
島田 我々みたいな......。
── 小さな版元は......。
島田 やってくれないからさ(笑)。だからしょうがないから自分らでやるってことかと。
── 版元営業というのはそうやって生まれた職種だったんですね(笑)。それでひと筆書きのようにして一度地方の書店さんをまわったわけじゃないですか。そういうところはまた行くようにしてたんですか?
島田 行きましたね、何回か行くとお店の人も「ああ晶文社さん、今日の夜は空いてる?」なんて言ってくれるようになって。もちろん「空いてます」って言ってね(笑)。
── お酒は好きだったんですか?
島田 好き好き(笑)。
── じゃあ書店員さんともそういう付き合いは。
島田 うん、それを目的に行くというとアレだけども、まあしばらく行って、親しくなると自然に飲みに行くようになるっていうのは結構多かったよね。
── 1970年代後半ぐらいですか?
島田 そうですね。中盤から後半ぐらいかな。

「小さな総合出版社」の誕生

── だんだん晶文社のブランドが確立されてきた頃ですか?
島田 うん。
── 当時、「うわっ、売れだしたな」みたいなのはあったんですか?
島田 ええとねぇ、何がきっかけかはよくわからないけど「宝島」。最初は「ワンダーランド」って言ったけどあれは73年だったかな。植草甚一責任編集、片岡義男編集長、高平哲郎+津野海太郎がバックで、という。あれが出る頃かな。ウチも書籍だけじゃなくて雑誌に手を出しますんでって。雑誌の営業なんてどうやったらいいのかわからないのにさ。
── はい。
島田 とにかくみんなが一丸となってやったのが印象的だった。
── でもなんかこう、津野さんとかが1972年とかそれぐらいに専属で晶文社に入って来たときに、元々いらした島田さんとかは「よくわからない人たちがウチの会社でよくわからないことを始めるな」みたいな、ちょっと斜に構えて見るみたいな空気っていうのはなかったんですか?
島田 それは全然ない。
── ないんですか。
島田 津野さんは60年代から少しずつ関わっていて、いきなりじゃないからね。
── はい。
島田 60年代の晶文社っていうのは小野二郎、長田弘、津野海太郎もそうだけど、彼らが企画を出して、それで本を作っていて。それが少しずつ仕事量が増えてきたので社員を、編集社員を入れて、企画して原稿まではその三人がやるんだろうけど、その後の本作りは社員にさせるっていうね。そういう感じになっていた。
── そういう分担をしていたんですね。
島田 僕が入ったあとぐらいから少しずつ刊行点数が増えだして、僕が入ったときにはまだ社員も10人いるかいないかぐらいだったけど、バタバタバタバタッて編集社員を入れて、多いときには編集だけで7、8人いたのかな。
── それじゃあ会社がなんか面白いことを始めだしたなみたいなワクワクするような感じがあったんですか?
島田 ありましたね、それはね。
── 島田さんから見たら、津野さんとかちょっと上の世代の人たちがすごいものを作っている感じだったんですか?
島田 次々といろんなね。長田弘は海外の文芸ものの翻訳を持ってくるし。津野海太郎はもう......演芸だろうが音楽だろうが何でもかんでもどんどん広げていくし(笑)。
── はい。
島田 そこまで広げちゃったらさ、もう営業がやりにくいんですよ。
── そうですよね(笑)。
島田 もう「やりにくいなぁ」って言ったら「いいじゃないか、大手出版社のフリをしたら」って(笑)。
── ははは。
島田 そうか、じゃあ「小さな総合出版社」っていう立ち位置でって言ったら、「そうそう、それでいいんだよそれで!」って。それじゃあ「小さな総合出版社」で行きます、って。
── いいキャッチコピーですね。
島田 たしかにそうなんだよね。紀伊國屋に訪問しても置かれているコーナーのあるフロアーがどんどんどんどん増えて、もうほぼ全てのフロアーに晶文社の本がある。
── 在庫チェックも一日じゃ終わらないですよね。担当者も休みがあるし。
島田 そうなんだよ。同じ曜日に行っていても、いつも会えない人がいるから。そこはずらしたり、いろいろありましたね。
── 「ワンダーランド」を創刊する時はどうされたんですか。雑誌は書籍と違って大変じゃないですか。取次の扱いも。
島田 雑誌コードをちゃんと取ってね。さすがに雑誌コードを取る交渉は社長とB洲でやったみたいだけど。なんとかうまく取れたんだよね。
── 雑誌コード取るのって大変ていいますよね。
島田 大変ですよ。しかしそれが簡単に取れたもんだから簡単に手放しちゃって(笑)。6号で「宝島」止めるって言ったときに、JICC出版局が「すいません、いただけませんか」っていうので「ああいいよ」って。
── ええええ。
島田 オレはね、「いやちょっと待って、雑誌コード取るのって大変なんだから。とりあえず休刊ということにしてコードは持っておきませんか」って言ったんだけど、「嫌だ」って(笑)。欲しい奴にくれてやるって。
── 大盤振る舞いすぎる(笑)
島田 それでJICC出版局が「宝島」っていう誌名で判型を変えて雑誌を出してさ。
── はい。
島田 でも売れたよね、「ワンダーランド」は。
── 大きいやつですか。
島田 うん。デカ版でさ。あれを最初に作ったとき、取次もそうだし書店に持っていっても「こんなの置けないよ」って言われて。
── 売り場としては困るサイズですよね。
島田 しかもペラペラで棚差しというわけにもいかないじゃん。平台に置くしかなくて。
── そうですね。
島田 「これ一冊置くのに何冊分取ると思うんだよ。2、3冊分だぞ。それだけの売上を確保できるのか」って言われてさ。
── やっぱり言われたんですか。
島田 言われたんです。それで「努めます」って(笑)。「がんばります」としか言いようがない。
── 営業としてはそれしかないです。
島田 紀伊國屋で最初、500部入れたんだっかな。月刊誌だったんですけど一週間経たない内に「追加で」って来ました。
── ええ、すごい!
島田 目立ったのか追加注文が出て、飛ぶように売れた。
── もうお祭りみたいな感じですかね。
島田 そうそう。お祭りだね。ところがやっぱりミソがついて、2号を出したときに世界文化社さんから「『ワンダーランド』っていうのはウチが誌名登録しているんで」って言われて、雑誌名を変えざるを得なくなって。
── うわー!
島田 そんなの晶文社のみんなはわからなかったから、もう、お手上げ。「えっそんなことがあるんだ。誌名って登録しておかなきゃいけなかったんだ」っていうので、それで「ワンダーランド」という名前では出せなくなって、いろいろ調べて「宝島」っていう風にして。まあそういう意味でいうと、素人集団みたいなもんなんですよ。それで一ヶ月休んでワンダーランド改め「宝島」ってやったんだけど、やっぱりケチがついた途端に失速して。結局6号かな。社長も決断が早いね(笑)。
── 引く時は早い。
島田 それでもう雑誌はやめました。
── そういう時は社内で「お前の責任だ」みたいなことは?
島田 ないない。
── いい会社ですね。
島田 まだあの頃は高度成長期が完全に失速はしていないから、けっこういろんな面白いことがやれたんですよね。

"新しい時代の新しい知性 晶文社"のL字プレート

── それで書籍の刊行に集中していく感じなんですね。
島田 やっぱり書籍一本でいくしかないね、っていうことになって、それでどんどんどんどん出し始めたよね。年間5、60点かな。
── はい。
島田 最初はB5サイズの注文書一枚だったのが、もうあっという間にB4で4枚ぐらいになって。これはもう大変だなぁって(笑)。
── 書店での在庫チェックが大変ですよね。
島田 とにかく一回出したら3000部でも4000部でも一応在庫になるから。しかも書店に置いてもらわないと売れないんだからっていうことで、ひたすら営業に行って、置いてらう。置いてもらうのも常に置いてもらうのが何かっていうと常備寄託っていってさ。
── はい。
島田 とにかく常備の契約取って、一年置いてもらって、ということをずっとやってさ。その時に金沢のうつのみやさんじゃないけど分類できない本コーナー、なんてところに置いてもらわれちゃ困るから"新しい時代の新しい知性 晶文社"なんてL字プレートを作って、それを書店に持っていって。そこにとにかく並べてくれ、と。
── そんな努力をされていたんですか。
島田 今と逆だよね。分類をきちっとわけて陳列しましょう、じゃなくて。とにかく晶文社という棚を作ってもらう(笑)。
── そのL字プレートは島田さんが作ろうよって言って?
島田 みんなで言ってね。それがあるとないとで全然違うんですよ。出張とかで初めて行くところのときなんかはカバンにいっぱい入れていって、棚にぴっと差して、「ここにお願いします!」って。全然一冊も本がないのにL字プレートだけ差しちゃってさ(笑)。
── ははは(笑)。
島田 「本が入ったらここに入れておいてね」ぐらいな感じで。
── 書店さんが悩まず置けるようにするのは大切ですよね。L字プレートはどこの出版社の近くとかって考えていたんですか?
島田 やっぱり文芸の新刊に近いところ。一番注目度の高いところをターゲットにしてやっていましたね。
── それにしてもコピーの作り方が上手ですよね。「小さな総合出版社」とか。
島田 「新しい時代の新しい知性 晶文社」とか(笑)。しかもサイのマークをひたすら全部の本につけて。あれ、最初はデザイナーが嫌がってね。平野甲賀が考えたんだけども......いや平野さんは自分で考えたからいいんだけど、他のデザイナーに頼む場合に「なんでこんなマークつけなきゃいけないんですか」なんてすごく嫌がられて。
── デザインするのが難しいんですかね。
島田 「ウチはポリシーで全部つけてますから」って押し切って。
── サイのマークを入れるのを完全に統一させたんですね。
島田 徹底してね。背の上と平の下に必ずつけろって。
── サイのマークは島田さんが入社するときにはもうあったんですか?
島田 あったんだけどあの頃はまだ本によってバラバラで、必ずしも全部つけるとはなってなかった。変な鉄腕アトムみたいなマークが付いている本もあったりとか、色々ありました。
── サイのマークを徹底するよになって欠本調査もやりやすくなって。
島田 そうそう。そのために入れたので(笑)。

歌舞伎町の常備店

── 晶文社の本は、植草さんの本を出だした頃から売れ方が変わってきた感じなんですか?
島田 植草さんは僕が入る前に一点、『ジャズの前衛と黒人たち』っていうのを1967年に一冊が出ていて。その後70年代に入ってからわーっと出はじめた。植草さんの単行本だけは取次に持っていくと部数が三千部、四千部っていう他の本とは違って、ものによっては1万とかで「大手ですね」とかって言われたりして(笑)。
── いいですねえ(笑)。
島田 それであまりにも評判が良かったので、やっぱり角川やらが文庫に狙ってくるわけね。
── 文庫化させてくれ、と。
島田 そう。あまりにも多いのでそれを防衛する意味で「植草甚一スクラップブック」全40巻っていう。それは津野海太郎がアイデアを出して。とにかく全部そこにぶち込んで文庫にはさせない、と。
── 防衛策だったんだ。
島田 判型も文庫に対抗して小ぶりな造本にして。
── 値段も。
島田 そう、安いんです。600いくらか700円。そのかわりあれはビニールカバーを全部につけて。ビニールカバーの何がいいって返品で返ってきたら剥がして新しいビニールカバーを掛ければまた新品で売れるっていう。
── 確かに!
島田 ただね、ビニールカバー同士がくっつくんですよね(笑)。特に夏場なんかはベターッてくっついて離れない。だから出張行くときにはカバンの中にカバーを何種類もいっぱい入れておいて、そこら辺のちょっと汚れたりくっついたりしたやつを抜いて、新しいやつに掛けかえたりして。
── そういう作業をしていたんですね。
島田 ひたすらしてましたね。
── それじゃあカバンが相当重かったんじゃないですか?
島田 重かったねえ。だからカバンには凝ってました。お医者さんのカバンをまねたりだとかして。
── ああ、あの大きなパカッとあくカバン。
島田 「島田君、なんか今日のカバンはいいね」とかって言われて(笑)。「いやいや」とかって(笑)。
── 常備という仕組みはもう既にあったんですか?
島田 ありました。だからどこのお店に常備を入れてもらうかっていうようなことを考えるわけです。
── はい。
島田 書店さんも例えば100冊なら100冊を同じ本を一年ずっと置いておくわけにはいかないみたいなことがあって、だからあまり快くは思わないんですよね。こっちにしてみればとにかくひたすら置いてもらおうっていうのがある。そのためには常備寄託っていうのが一番いい手段なんで、なんとか常備をお願いしますと。だから出張で新しい店に行くのって全部常備のお願いに行くんですよね、ひたすら。
── そうなんですね。
島田 もう本当に常備が取れただけでもう嬉しいなって。
── あの頃は晶文社さんで何点ぐらいの常備なんですか? 100点ぐらいですか?
島田 最初に常備セット組んだのが......あれはやっぱり70点ぐらいだったかな。
── 結構なボリュームですよね。
島田 棚一段から一段半ぐらいだったかな。書店さんも色んな反応があって、例えば新宿、紀伊國屋さんは常備じゃないんだよね、毎週行くから。
── 常備の必要がない。
島田 でも歌舞伎町の入ったすぐの所に尾張屋書店っていうのがあったんですけど、それとか西口の路面店、ブックスローランっていう。
── 全然知らないです。僕が営業になった頃にはなかったかも。
島田 もうないよね(笑)。いずれも場所柄ね、いわゆるエロ本売りなんですけど。尾張屋なんて店の7割方エロ本とビニール本しか置いてないんですよ。そういうところにも行って、駄弁って店長と仲良くなって、そのうちに「今度常備お願いしますよ」なんていうと「じゃあ入れてみようか」なんて。そうするとエロ本が満載の一角に晶文社の"新しい時代の新しい知性"って。
── えっ!!(笑) そこにまたL字プレートを差すんでんですか!?
島田 そう(笑)。それで常備の基本セットを入れると、それがけっこう売れるんですよね。
── えええ......。いろんなところに本を買う人はいるわけですかね。
島田 そうそうそう。必ずしも紀伊國屋しか行かないっていうんじゃなくて、いろんなところに。逆に紀伊國屋には行かないっていう人もいるかも。だからそういう人に接点をね、新宿はその尾張屋さんとかブックスローランっていうのは両方ともエロ本がメインの本屋さんなんだけども。
── 常備店リストに確かになりますね。「歌舞伎町1-6-1」って書いてある。
島田 へへへ(笑)。
── じゃあ島田さんは「この店じゃウチの本は売れないな」みたいな感覚は持たないようにしていたんですか?
島田 ない。全然。とにかくひたすら書店さんがあれば書店さんにウチの本をどれだけ置いてもらえるかっていうようなことを訪問して交渉してきてたかな。お店の格とか大きさなんていうのは関係なくて、とにかく(笑)。
── すごいですね。
島田 「ここは置けば売れるんじゃないか」って感覚が芽生えたらとにかくお願いする、と。
── それがなかなかできないです。
島田 渋谷の......どこだっけな、変なところがあったんだよね。今はもう渋谷も大改造しちゃってるからあれだけど、昔JRから井の頭線に行くビルの通路の踊り場みたいなところの一角に本屋があったんだよね。
── どこだろう......。
島田 そこが人は通るわで、棚はちょっとしかないんだけど当たると売れるんだっていうので、そこになんとか置いてもらえないかと思って行って、なんとか置いてもらったら売れるんだ、そこも必ず(笑)。
── はい。
島田 必ず新刊を持っていくと「おっじゃあ10冊入れとけ~」とかって言って。そういう店もあったりね。とにかく接点をいかに多くするかっていうね。
── 晶文社の本が目につくように。
島田 うん。
── 出版社って売れる本が出来ないと書店さんに認知されないってあるじゃないですか。
島田 そう。そういう意味でいうと晶文社の本は売れる本じゃないんだよね。自分でもわかっているわけ。だって初版が二、三千部とかそういう本がいろんなところに並ぶわけないし、売れるわけはないんだけど、ここにそれがあるとね、なんとなく他の本も売れるんじゃない? みたいなさ。
── そうですね。
島田 相乗効果みたいなものを期待してね。
── なるほど。

小野二郎、津野海太郎、長田弘が企画し、平野甲賀がパッケージした本が悪かろうはずがない

島田 だからまあそうね、売れるからっていうんじゃなくて、とにかく置いて、試しましょうって。
── でも実際に結果もついてきてたんですよね?
島田 結構やっぱりね。そういう意味では売れた。
── 面白いですね。
島田 そういう営業を僕はずっとやっていたんで、何年だったかな。76年〜78年かな、人文会っていう組織に晶文社が入った時に......。
── 人文会ってすでにあったんですか?
島田 ありました。伝統的な出版社の集まりですね。そこに晶文社と草思社が入っていったわけ。それは新参者ですよ。そもそもはみすず書房の相田さんっていう人が基礎を作られて、ウチのB洲っていうのはその相田イズムっていうのをなんとか取り入れようって努力していた。で、人文会に入って他の出版社、東大出版会とかの販売データを見ていくと、晶文社とまったく違うってことがわかったわけ。
── はい。
島田 向うは圧倒的に大学生協なんですよ。生協がダントツで人文会の版元の本を売ってるわけね。
── はい。
島田 尾張屋とかブックスローランとかJRの通路のお店なんていうのは絶対に入ってこなくて(笑)。
── そうですよね。歌舞伎町1-6-1ですもん(笑)。
島田 絶対出てこない(笑)。で、あるときにね、その人文会の各社の都道府県別の売上のランキングとウチが極端に違うのは、名古屋と仙台だった。圧倒的に弱かったのね。
── 晶文社さんが。
島田 うん。で、それをある時に中村勝哉社長に「こういうデータがありまして、なぜか名古屋と仙台がウチの売上が低いんですけど」って話して出張に行き出したら売上がしっかりあがっていった。だからある程度やれば数字に現れるのはわかったんだよね。当時の仙台に......八重洲書房って知ってる?
── 八重洲書房さん。有名でしたよね。
島田 うん。谷口さんっていう東北大を出た御夫婦がやってて。そこはもう本当に晶文社の本をしっかり扱ってくれて。行くともう5、6時間居座って(笑)。
── ずっとお話してるんですか?
島田 話したり、棚触ったりして。名古屋だってちくさ正文館とか、そこにずーっといましたからね。
── 古田さんのところですね。
島田 名古屋なんて行くと必ず夜、ちくさ界隈の飲み屋にダーッてみんな集まってさ。飲み会を延々やってたりさ。
── みんなっていうのはなんですか。本屋さんがいっぱい集まってくるんですか?
島田 本屋さん。それこそ古田さんはじめ、ウニタの竹内さん、三省堂や丸善なんかの他のグループからもいっぱい来てくれて。
── 「やればやるだけ売れる」っていうかちゃんと売上が上がるという、「やればやる」って当時は何をしてましたか?
島田 売上スリップによるデータ管理をした上で、そうだね、ただひたすら書店さんに行って話をして、本を置いてもらうと。
── 話というのは何をされてましたか?
島田 話してたのはいろいろだね。別に本のセールストークというよりは、まあいろいろですよ。
── はい。
島田 僕の中での落としどころとしては、小野二郎とか津野海太郎とか長田弘が企画した本は決して悪くない、いいものだし、しかもそれを平野甲賀が綺麗にパッケージしているわけですよ。本という形でね。
── はい。
島田 これは悪かろうはずがない。絶対置いてって(笑)。売れない、かも知れない。でも試して見る価値はある、と。そういう感じでお願いするっていうね。
── その人たちが作っていたものに誇りは持ていたということですかね?
島田 それは持ってた。
── カッコいいなぁ。
島田 それはすごいなと思ってました。そこは尊敬してますよ。


背中にサイのタトゥーが打たれた男

── いいですねえ。
島田 小野二郎さんは早くに亡くなっちゃったけど、結構サシで飲んだしね。
── 晶文社はそうやって飲みに行ったりっていうコミニケーションがあったんですか?
島田 だってそれこそ毎日のように、普通は5時に終わると......会社が大きくなってくると在庫も増えてくるでしょ。倉庫で出荷するアルバイトも増えてきて、5、6人いたのかな。それが5時になると「島田さ~ん」なんて誘いに来るわけ。それで「おう、行くか」って(笑)。
── ははは(笑)
島田 それですぐ近くに酒屋の卸問屋があって、そこの一階の倉庫が5時になるとバーッと開けて立ち飲みになるんだ。
── 角打ちみたいな感じですか?
島田 今で言うね。倉庫だから椅子もなにもないわけ。
── そのバイトっていうのは学生さんですか?
島田 みんな学生だった。
── 島田さんは30歳ぐらいで。
島田 それぐらいかな。
── それじゃあ本の雑誌の目黒さんが配本したあとに学生と飲んでいたようなことを島田さんもしていたんですね。
島田 5時に行くと開けたばかりだから一番乗りの客なわけ。「ああまた来たか」みたいな感じでさ。
── ははは。
島田 それで「とりあえずビール」なんて言って飲んでると「あぁ~、ビールの飲み方も知らないのか。そんなチビチビ飲むもんじゃないんだガーッと行かなくちゃ」とかって、そこで飲み方を教わって(笑)。それはもう、年がら年中飲んでました。
── それで小野二郎さんなんかとも飲んでいて。
島田 そう。「行くか」なんて言って。神田の「みますや」だっけ、有名な。あそこに行ってサシで飲んでましたよ。
── はい。
島田 あの人は最後明治の教授をやっていて、「今度の正月二日に明治と早稲田でラグビーの対抗戦があるから君も来い」なんて言って(笑)。
── へえ。
島田 そういえば会社入って最初に小野二郎さんが着流し姿でどこからともなくフラッと現れて。「おっ、君か。一般公募で入った初めての社員は」なんて言われたこともありました(笑)。
── あっ、初めてなんですか?
島田 初めてなの。それまでは全部縁故で。最初に入った時に小野二郎さんにそう言われて。2005年かな「晶文社を辞めます」ってなった時に長田弘がひょっこり現れて、「島田くん、君のようにサイのタトゥーが背中に打たれているような人が他で仕事を出来るのかね」なんて(笑)。
── 結局晶文社に何年いらしたんですか?
島田 その時で35年。
── それは晶文社を背負ってきてますよね。
島田 タトゥーかぁって(笑)。
── でもそれは小野さんにしても長田さんにしてもやっぱり見てたんですよね。「こいつがウチの本を売ってきたんだな」って。
島田 結局オレも辞めて、みんないなくなってしばらくしてまた晶文社に戻りました。
── また晶文社に顧問で復帰されましたよね?
島田 何年いたのかな。今は完全に引退したけど。
── 一度退職されたあとは。
島田 NTT出版に行って、九年。
── 九年もいらっしゃったんですか。じゃあ他の仕事できたわけじゃないですか(笑)。
島田 でも結局晶文社に戻りました。タトゥがあるからね(笑)。
── 晶文社では編集者と協力して本を作り、売ることができていたんですね。
島田 まあ協力というかはあれですけど関係は密でしたよね。
── はい。

やっぱりウィル、意志がないと動かない

島田 『数の悪魔』っていうのがドイツで出版されて、あれはオールカラーだったんで「こんなの無理だよ」って言ったんですよ。オールカラーで出せるわけないじゃないって。でも晶文社はエンツェンスベルガーの本をずーっと出してきたんだからこれはやりましょうって。やらないわけにもいかないっていうので、とりあえず原価計算だけやってもらって数字出したら定価が四千円から五千円にぐらいになったのね。とてもじゃないけどそれじゃ高すぎて商品にならない。
── はい。
島田 じゃあ、って下げられるところを下げられるだけ下げてやってみませんか。ということになって。その分初版部数を多く刷らなくちゃいけないけども、それはこっちがなんとかやりますっていって、賭けに。
── 『数の悪魔』は、晶文社で一番のベストセラーですか?
島田 そうですね。たくさん売れたのは『数の悪魔』。
── あのあと新入社員で入られたO河さんという方は、書店員さんから"『数の悪魔』くん"って呼ばれていました(笑)。小学館のドラえもんビルみたいな。
島田 ははは(笑)。中川六平っていう変な編集者がいてさ。ちょっと一人早稲田の学生がいるんだけど採ってくれないか、っていわれててね。当時の経営状態ではとてもじゃないけど無理だって。それが『数の悪魔』がバーッと売れた。売れて重版、重版、重版っていう時にその六平が「いまだ!」とばかりに。
── あはは(笑)。
島田 「島田、頼む!」って(笑)。
── そういう経緯だったんですか。
島田 「じゃあわかりました中村勝哉さんにちょっと頼んでみますよ」って。中村さんには「『数の悪魔』が売れててちょっと人が要るので」って言って「わかった。とりあえず入れてみようか」って(笑)。それが"『数の悪魔』くん"。
── 『数の悪魔』は初版で多めに刷って原価を下げて、どう営業をかけたんですか?書店さんに「これは売れる本だから」とかって?
島田 もういろいろやりましたね。プレスリリースみたいなものを作って書店に投げたりとか、いろいろやりましたよ。あれは。会社の業績を考えて、こっちも必死だったしね。
── いやでも必死になったら売れるっていうものでも......。
島田 まあそうだけどね、でもやっぱりウィル、意志だよね。意志がないと動かない。
── はい。
島田 そう、こういう逸話があるんだ。日販へ見本で持っていったの。それで横に筑摩書房の田中達治がいて。
──「蔵前どすこい通信」の田中さんですね。
島田 それで田中達治に「お前は何を持ってきたの」って聞いたら「これはちょっと社運をかけてる本なんだよ」っていうのよ。誰の何の本かって聞いたらそれが赤瀬川原平の『老人力』って。
── ちょっと、それ......!
島田 それが1500円でさ(笑)。で、「ああそう、面白そうじゃん。オレはね、『数の悪魔』なんだよ」って言ってやったの。「でも2800円なんだよなぁ。値段じゃ勝てないなぁ」なんて隣同士で話してて。「よし、どっちが売れるか賭けよう!」って。向こうは自信があるわけ。1500円だし赤瀬川原平だし。こっちはエンツェンスベルガーなんて誰も知らないような著者でしかも2800円。それでも自信はあるから「よし、乗った!」ってやったの。それでひと月後の売上数がほぼ同じだったんだよね。
── すごい! あの大ベストセラー『老人力』と並ぶなんて。
島田 ほぼ同じだったから蔵前まで行って、田中達治にさ「バカヤロー、ウチは2800円だぜ」って(笑)。
── 売上額でいったら倍ほどですよね。
島田 それで「ウチの勝ちでどうだい」って言ったら、「う~ん」って認めないわけ(笑)。
── 営業らしい負けず嫌いですね(笑)。
島田 「いやいや、これからが勝負だ」とかって言って(笑)。
── お互いもういいベテランなのに(笑)。
島田 そんな事やってたね。
── 『数の悪魔』の時に、「これは来たな!」ってどこかのタイミングで思ったんですか?
島田 あのね、そんなにいきなりではなくてじわじわでした。これは僕もそうなんだけど、算数ってけっこう嫌いになっちゃう人が多いんですよね。僕も嫌いだった。どちらかっていうと文系の人間で、算数は嫌いというか苦手だったんだけど。でもね、好きになるきっかけが、この本にあるっていうのが読んでいるとわかるわけ。それをなんとか、なんとか広げたいっていうので。それをいろんなところに持っていって、エンツェンスベルガーの数学の本っていうだけじゃなくて、こんなきっかけで嫌いなものが好きになることがあります、みたいなことを、細かくやってたわけ。
── はい。
島田 そうしたらね、あるとき読売新聞の売れてる本みたいな当時のコラム欄があって、そこに取りあげられたわけ。"エンツェンスベルガーっていうドイツの詩人にして政治学者の人が書いた本で、数学嫌いが一夜にして好きになる、よく出来た本だ"みたいな。
── そうなんですね。
島田 銀座の旭屋書店さんに取材して書いたらしく。
── はい。
島田 それが火をつけたのね。それからまたそのコラムを拡大コピーして書店さんに配って歩いた(笑)。
── ああ、書いてありますね、営業部が発行していた「SCRAP通信」に。"八月二九日、讀賣新聞夕刊の「読書トレンド」で絶賛"と。
島田 「読書トレンド」って名前だったか。
── このとき島田さんは営業部長ですか?
島田 でしたね。
── どんな感じで重版をしていました?
島田 ええとね、5000部単位で増刷を、次の次まで決めていました。
── おお~。
島田 常にね。次は何日の午前って決まって、刷りに入るとその次の次っていう。もうとにかく次の次で。
── 先回りして。
島田 そう。5000部単位でやって。それが売れるんだもんねぇ。2800円の本がさ。
── 興奮しますよね。
島田 でね、途中でわかったのが、あれはエンツェンスベルガーがドイツの子供向けに書いた本なんだけど、日本の場合はどの層に買われているかっていうのを調べたらおじいさんおばあさんが、孫に「これが良かろう」って買っていたの。
── そうだったんですね。
島田 それで2800円ってちょうどいい金額なんだよね。
── なるほど、プレゼントにするのに安すぎてもいけない。
島田 孫にっていうのは、愛読者カードでチラッと見たんだったかな。「あっ、これだ!」って。もうそれから「孫に一冊」って(笑)。
── 帯とかPOPみたいなののキャッチコピーにしたんですか?
島田 そうそう(笑)。

著者も驚く翻訳本『定本 映画術』

── すごいなあ。売るヒントはいろんなところにあるんですね。
島田 つつけばつつくほどいろんなきっかけが出てくるよねっていう。
── でもそういうのを探したり、考えたりするのは好きでしたか?
島田 好きっていうか、まあ嫌いじゃなかったですね。だからその、自慢話ばかりしてるわけじゃないんだけど、それよりちょっと前に『定本 映画術』っていうヒッチコックとトリュフォーの本を出したんだけど、これもやっぱりフランスから原書が届いた時に「これはちょっと無理じゃない」って思ってたのね。
── はい。
島田 でもこれまたすごいのが、山田宏一って翻訳家が訳稿を最初の第一稿、第二稿、第三稿ってどんどん送ってくる度に原書にない図版とかどんどん増えていくわけ。これを編集者がまた、てんやわんやしながらも。
── 許可取ったりして。
島田 取ったりとかもう、「やめてくれよ」って思ったんだけども、山田宏一のその熱量がすごいのがさ伝わってくるわけ。やっぱり編集者もそうだったんだけどさ。だからこういう過程の本は絶対売らなくちゃいけないって思うわけよ。
── 熱が伝わってきますからね。
島田 その『映画術』は原書がペラっとした本なのに、翻訳版はB5の分厚い本になって。
── そんなことあるんですね(笑)。
島田 しかもこれを普通の原価計算したら7000円とか8000円になってもおかしくない本なの。その当時僕はまだ役員じゃなかったもんで、定価を決める役員会議やってる隣の部屋にずっと待機していて、会議が終わってすぐに「いくらにしましたか」って聞いたら「7000円だろうなぁ」って。
── それに直談判したわけですか?
島田 それじゃ売れないから下げてくれって言ってね。それでギリギリ許容範囲の2900円ってなって、当時みすず書房の関口さんから「価格破壊だ!」って揶揄されましたよ。それで「やる」って決めたからには、とにかく見本が出来たら一等最初に持ってきてくれって伝えて、こんな分厚い本を20冊抱えて、一番近いのが銀座だから銀座の旭屋書店さんに5冊、山下書店に5冊、近藤書店に5冊、教文館に5冊って置いていって。それで会社に戻ったら旭屋書店の齋木店長から電話があって、「島田くん、あっという間に5冊売り切れたよ」「ええっ!」なんて。これはもう絶対行けるぜって、で、それから見本出しに行って。
── えっ、取次に見本を出す前に!? すごい!(笑)
島田 だって部数を決めるのに売れ行きの感触がないとこっちも言えないから。
── 言えないからって、「もう実は売れてるんです」って、そんなのアリ!?(笑)
島田 ははは(笑)。しかもどこに置いたって、レジの前の新刊コーナーにどんって置いて。そうしたらあっという間に売れた。それでこれは行けるって思ったのね。で、見本出しするとき、もちろん日販はもうビルになっていて、地下に駐車場があって車で入って、ヨイショって持ったら向こう側から「島田さん!」って声かけてくれる人がいて、それが白夜書房のF脇さんでね。「何持ってきたんですか?」って訊くから、「これ」って見せたら、「ええっ、これは!」って。
── F脇さん好きそうですよね。
島田 そう(笑)。「ヒッチコックとトリュフォーが本になったんですか!」「なったんだよ」「へえ~! 買います買います」「いま見本持ってきたんだからダメだよ」なんて。それでやっぱりこれは反応が大きいなって。それで仕入に行ったら思う壺っていう(笑)。
── 『数の悪魔』の時もそうだし『映画術』の時もそうんですけど、営業の感覚、特に今の営業の感覚だと原価計算が合わないでどうにか出そうと思ったら、変な話『数の悪魔』を全部モノクロにしちゃえばいいじゃん、とか『映画術』も図版切っちゃえばいいじゃんとかなると思うんですけど、当時そんな発想には......。
島田 ならない(笑)。
── 一番いいかたちで出版するという。
島田 それこそヒッチコック、トリュフォーの『映画術』なんか原書にない図版も入れて、原書以上の本にしちゃったわけ。それで何かの時にトリュフォーがなんかのイベントで日本に来ているっていうので、じゃあサイン本作ろうっていうので編集と二人で車に積んで帝国ホテルのスイートルームに本を持って行って、サインしてもらったの。
── すごい。
島田 そうしたらトリュフォーが本を見てびっくりして。オレはフランス語わからないからあれだけど、「アメリカ版とか中国語版とか色んな版が出来たの見てるけども、これは最高だ」って。
── そのサインしてもらった本はどうしたんですか?
島田 三省堂さんとかに持っていったよ。あっという間に売れたって。
── すごい!(笑)
島田 その時自分用に一冊残しておけばよかったと思って(笑)。
── 残してないんですか。本屋さんが喜んでくれればいいやって思ってですか?
島田 それはね。
── すごいなぁ(笑)。やっぱり売るのが好きなんですね。
島田 うん。

「晶文社SCRAP通信」誕生秘話

── 僕、ちょうど本の雑誌社に入社したのが『数の悪魔』ぐらいの頃で、当時晶文社にいらした高橋さんや目春さんと飲み会でお会いしていたんですね。高橋さんは飲み会でいつも「晶文社SCRAP通信」を配っていて。それをいただいて、島田さんの存在を知ったんです。裏面で「麺食いシマダのこの店に行け!」というコラムを連載されていた。
島田 ふふふ(笑)。
── 「あっ、こういうことをやっていいんだ」って思ったんですよ。このコラムってどういう経緯で始まったんですか?
島田 そもそも「晶文社SCRAP通信」が高橋が手書きで作り始めたんですよね。
── 素晴らしい書き文字ですよね。
島田 そうしたらね、「本のPRだけじゃ書店さんもあまり興味持ってくれないかも知れないから、なんか営業の紹介みたいなコーナーをつくりませんか」っていうんで。「わかった。じゃあ順番に一人づついくか」っていうのでトップバッターは部長で、と。なんでもいいっていうんで家の近くのラーメン屋の話を書いたわけ。そしたらその後誰も書かないわけ。高橋から「島田さん、次もお願いします」っていうんで毎月尻を叩かれて(笑)。
── そうだったんですか(笑)。
島田 もうしょうがないからずーっと毎月書いて。
── この「SCRAP通信」はそもそもどんな発想で誕生したんですか。
島田 ヒントになったのは「まるすニュース」だよね。
── ああ、鈴木書店の井狩さんが毎日発行していました。
島田 その「まるすニュース」を井狩さんが入院したことがあって、「島田さん、ピンチヒッター頼めませんか」って頼まれたことがあったんですよ。
── そんなことがあったんですか。
島田 なんでオレがって思ったけどね(笑)、「だけど毎日は無理だよ」って言ったら「一回でいいんで」っていうので、ピンチヒッターで書いたことがあるの。
── そうなんですね。
島田 でもさ、全然読まれなかったみたい(笑)。だって字は下手だし、井狩さんみたいにきれいな丸文字は書けなくてさ。
── あれは無理ですよ。
島田 それこそ近藤書店に行った時に、「なんかお前、ひどいのが一回来たな。まるすニュース」って(笑)。
── ははは。
島田 そのすぐ後に講談社のマルコニュースって知ってる?
── はい。
島田 あれが始まったんですよ。「まるすニュース」もあるし、晶文社もなにか無いかなって思って。それで「じゃあSCRAP通信で」ってことになってね(笑)。
── そうだったんですか。それでたまたま高橋さんが字がうまくて。
島田 やっぱり手書きがいいよねっていうのがあって。彼女は絵も描けるし。
── ほんとあたたかみがあって、上手でしたよね。
島田 当時やっと出始めたワープロを買ってきて、それで一生懸命文章打ったやつを会社に持っていくと、高橋がそれを見ながら書き文字に直すっていう(笑)。
── 通常の逆のことをしてたんですね(笑)。
島田 でも偉いよね。僕が辞めた後もずっと続いてて。
── 続いてましたよね。でもあの頃はあれですよね。島田さん、目春さん、高橋さんっていう営業部の人たちは外から見ているとものすごい結束力のある集団で。
島田 うん。よく頑張ってたよね。
── 頑張ってましたよね。あと女性の営業って当時珍しかったですよね。
島田 そうだね。
── 晶文社って女性が多かったんですか? 編集者も女性が多かったみたいで。
島田 時期にもよりますが、入社時は編集3名、営業事務1名が女性社員でしたね。
── 当時としては多そうですね。
島田 僕が入った翌年、翌々年にそれぞれ男性社員がきましたね。73年にS崎勉っていうのが入ってきて。
── 編集の方ですよね。
島田 彼が最初の独立した編集者、つまり自分で企画を出して自分の本を作るっていうのがS崎勉から始まった。それまでは全部、長田弘と津野海太郎と小野二郎が企画したものを社員がこなしていくっていうスタイル、分業制でやってたからね。
── そのS崎さんが『つげ義春とぼく』とか『ぼくは本屋のおやじさん』とかの編集者なんですよね。
島田 そうそう。『ぼくは本屋のおやじさん』の早川義夫さんね。
── 島田さんが営業でお会してたんですか?
島田 そう。会ってて、こういうのがあるんだけど、ってS崎に話して、で、何とか本にしてって頼んだら「独立した本は無理なんだ。なんかシリーズがあれば一冊ポンと入れられるけど」っていうので「就職しないで生きるには」っていうシリーズを作ったんですよね。その第1巻に『ぼくは本屋のおやじさん』を出した。
── じゃあこれを出すためにある意味、シリーズが立ち上がった。
島田 そうそう。
── 早川さんやポラーノ書林のH井さんたちで冊子を作ってましたよね。
島田 そうそう。茗渓堂のS本さんと文鳥堂のS藤さん。4人で「本の新聞」っていうのを作っていて、僕はそこになぜかしらないけど闖入していて、いろんな話をしているうちに早川さんの文章がすごくぴぴっと来てさ。いいなと思って。
── それでS崎さんに。
島田 そう。
── あの辺の書店員さんたちは島田さんと同い年くらいなんですか?
島田 だいたい同じぐらいじゃないかなあ。S本さんがちょっと若いのかも。

八重洲ブックセンターオープンと晶文社コーナーの到達点

── そうなると東京駅に八重洲ブックセンター本店がオープンしたときは営業マンとして見ているってことですよね。78年ぐらいですもんね。
島田 そうだね。
── 凄かったですか?
島田 凄かった。八重洲ブックセンターは。
── 初日に本が売れすぎて大変だったって逸話は聞いているんですが。
島田 ドーッとみんな入っていくんだよ。八重洲口ってあの当時はそんなに降りることのない出口で、それがオープンした時は人がドーッと来て、みんな八重洲ブックセンターに入っていく(笑)。凄かったね。
── なんか伝説ですよね。
島田 で、あれは鹿島建設のブックセンターで、鹿島ってそれまで小さな店しか経験してなくてでかい本屋は初めてだし、だから大盛堂から人が来たり、あとはもう初めての人ばかりで、だからわけがわからないわけね。
── はい。
島田 こっちは自分のところの棚を作ることが優先だから(笑)、ここは晶文社ねってバーッて。
── あはは。
島田 そうしたらある時、文芸の担当の女性が「島田さんところの本はどうやって並べていいかわからない」っていうわけさ。そうだよなあ。じゃあ宿題ということにして、次回来るときまでに考えておいてって言っておいたら、次行った時に「島田さん、わかりました!」ってパッと並び替えてて。「島田さん、見てください」っていうので見たらオレが逆にわからなくなっちゃったわけ。「どういう基準で並べたんですか」って訊いたら、彼女泣きそうになっちゃって。
── それはどういう基準だったんですか?
島田 「島田さん、サイマークのカラーの色順に並べたんですけど」って言うからさ(笑)。それも一つの基準かも知れないけどね。
── あの色はジャンルわけとかじゃない?
島田 全然関係ない。カバーに使う色の一色を取ってるだけなので。
── ああ、それは確かに斬新ですね。それで結局どうしたんですか? 各階にわかれていきました?
島田 わかれていった。
── そうですよね。
島田 でもその晶文社コーナーの最終着地点じゃないけど、それやってすごいなって思ったのは渋谷の大盛堂。エスカレーターがあって、2階だったか3階だったか、上がりきったところに晶文社が全部。
── あったんですか?
島田 あった。8段でずらっと。
── すごい。
島田 それが最初で、その後、渋谷に旭屋書店が地下にできたんだけど。
── ありましたね。
島田 お店ができた時に蔵本さんっていう最初の店長が、「島田くん、晶文社のコーナーを作ったよ」って。
── すごいですね。
島田 それがさ、晶文社コーナーの横を見たらみすず書房と岩波書店の棚、あとは未来社もちょこっとあったかな。
── それはすごい並びじゃないですか。
島田 「これ、やり過ぎじゃない蔵本さん」って言ったら「いや、いいんだよ」って。
── 地図の昭文社しか連想されない時代から始まって、棚一本まで変わっていったんですね。
島田 そうそう(笑)。
── しかも岩波とかみすずの並びでで。

17ケースの本を積み、二週間以上に及ぶ図書館営業

島田 図書館の営業もある時からやり始めて、高校図書出版会っていうのが日本ライブラリー出版会っていう名前に変わったんだけど、図書館への巡回販売をやっててね。これこそまさにBtoCじゃないけど、直接行って見本を見てもらってそこで注文を取ったら本が入るわけだから書店営業とは全然違うんですよね。
── はい。
島田 書店は入れてもらっても実際売れるか売れないかわからない。返品があるわけでしょう。ところが図書館営業はまさにそこでチャリーンとお金が落ちるわけ。
── はいはい(笑)。
島田 これをやったときに、今でも忘れられないんだけど、北海道で襟裳岬の付け根に様似っていう小さな町があるんだけど。
── その町で何かあったんですか? 図書館の大会とか。
島田 いや、2年掛けて北海道を全道まわったの。東と西とに分けて。
── ええ、あの広い北海道を!?
島田 それこそ図書館営業は、札幌とか旭川とか函館とか小樽とか大都市はほとんど行かなくて、厚岸町とか様似町とか別海町とか、人よりも牛が多いような土地にある図書館へ営業をかけるの。
── そうなんですか。
島田 それは晶文社だけじゃなくて、日本ライブラリー出版会に参加している10社の中の一社としてで売りっこするんだけど。
── それらの本を持っていくわけですね。
島田 それで様似に行ったらぱーっと晶文社コーナーがあって。作ったんだって(笑)。というか、様似の図書館には相当買ってもらったんだよね。それで「じゃあコーナーにしちゃいますか」って。図書館に特定出版社のコーナーなんて聞いたことないんだけどって言ったら「いやいや、その方がやりやすいから」って。それが北海道の図書館で2館かな。晶文社コーナーができたの。
── 先ほど人文会の人たちが大学生協で本を売ってて、島田さんとはぜんぜんやり方が違うって仰ってたじゃないですか。それを吸収して、島田さんもだんだんそういう売上も作っていったってことですか?
島田 そうそう。結局、ある意味書店店頭での販売に限界みたいなのがあって、じゃあ、それこそ昔の言葉で言えば押込みっていうのも一つの手かなっていうので。
── 押込み。
島田 それこそ巡回ケースを17ケースぐらいハイエースかなんかに乗っけて行くわけさ。それで行くともう2週間以上帰ってこれないわけ。ずーっと図書館とか回ってて。
── それって国書刊行会だけの話しかと思ってました。
島田 最初入ったグループは高校図書出版会って名前で、高校とか学校の図書館を回ってた。大学は行かないよ。高校の図書館か公共の図書館に行って見本を見てもらって、その一冊一冊本のPRをして「いいでしょ」って買ってもらう。
── そこでは在庫は減らないわけですか?
島田 もちろん。車に積んでいるのは見本だからね。
── それじゃ見てもらった17ケースをまた車に積んで移動するわけですよ。
島田 また次のところへね。その17ケースは最初から最後までず~っとあるわけ。で、しかも高校の図書館って必ずエレベーターのない4階建の一番奥にあるんですよ。なぜかみんなね。
── ははは(笑)
島田 それをこっちは17ケース運び上げないといけない。単独じゃできないんで必ず地元の書店さんと同行販売するのね。で、書店さんによっては「島田さん、手伝いましょうか」って人もいるけど、それは10人中1人くらいしかいないわけよ。9人は「島田さん、上げといて」って(笑)。
── うわ~(笑)。
島田 1人で4階の一番置くまで上げないといけないのかって(笑)。それで一時間ぐらい説明して終わって、「じゃあ今日はこのへんで」ってまたそれを下ろす(笑)。
── 大変だ。
島田 それをやりまして、そうしたら北海道の2年目の時だったかな。腰を痛めて。北海道は日販の係長と同行してたんだけど、「島田さん、アンマさん呼べるところへ一旦」。
── 泊まりましょうと(笑)。
島田 そう(笑)。
── それでもそこでギブアップじゃなくて?
島田 やるしかない。一度出ちゃった船は戻れないからどうしようもないって。
── すごいなあ。
島田 でもさすがに四十歳過ぎてからは腰がつらくなって、沖縄に行ったのを最後に。
── 沖縄まで行ったんですか?
島田 行きました。北海道で好成績を上げちゃったわけ。二週間で3000万円ぐらい。
── うわ~。
島田 そうしたらもう、「島田さん次はこっち行ってくれ、こっち行ってくれ」って。みんなズルくてさ。自分たちが行ってるところはちゃんとシマができていて、そうじゃないところはなかなか行きたくないようなところで、そういうところを僕に振ってくるわけ。次は北関東ね、とか次は山陰ね、とかって売れそうもないところばかり。
── はい。
島田 で、最後は北海道でガーンとやっちゃったもんだから、沖縄だけ行っておしまいにしますかって。沖縄はさすがに1000万弱でしたけど。
── そのキャラバンは東京から走っていくんですか?
島田 遠いところは取次を使って輸送するんです。
── あっそうか。取次さんってそういう役割もあったんですね。
島田 日販は嫌がるんだけどトーハンとか栗田は昔からやってるから快くやってくれて。
── まったく知らない世界です。
島田 会社から行くのは北関東、北陸、東海、仙台ぐらいまでかな。日産レンタカーに行ってバンを借りてきて、そこにダーンッて入れて「行ってくるぜ~!」って(笑)。
── それで二週間。すごいなぁ。
島田 あはは(笑)。

汚い店ときれいな店の寿司屋どっちがいい?

── 島田さん、営業をやっていて嫌だって思ったことないんですか?
島田 ないんだね。それは小学校3年から働いているから働くことは当り前でさ、働かなくちゃ生きていけないんだから。
── 人と会うのも別に?
島田 別に苦じゃない。
── そういうことをやって本を届けてたんですね。
島田 そうそう。それこそそれよりずっと前のことになるけど、日販の千葉支店にある時一週間、月曜から土曜まで行ってくれないかって。それはたぶん上から話を持ってきたんだけど、「何をするんですか」って訊いたら学参で、千葉ってウチの東大「学力増進会」編の「ぐんぐんシリーズ」とか「スイスイシリーズ」とかが結構売れるんですよって。
── ああ、あれ晶文社だったんですか。僕、こう高校受験のときに使ってました。
島田 そうなんだ。それでね、それをいっそのこと千葉の支店に行って、千葉支店の営業コースが7コースあるんだけど営業マンと一緒に行って売ってくれと。毎日千葉まで朝早く出てさ。
── 行ったんですか?
島田 行った。泊まりでもいいって言われたんですけど、「いや通います」って毎日、千葉支店に行って朝の朝礼をやった後でその担当の人と一緒の車の助手席に座って。で、日販の帳合の書店を全部まわるわけ。
── 多田屋書店さんとかですか?
島田 いやそういうでかい本屋さんはすでにほとんど入ってるから。それこそ半分雑貨、半分書店みたいなところを。
── そういうところを?
島田 そう。そういうところでも。
── そうか、生徒はいるわけですもんね。
島田 高校受験案内とか問題集とか置くと売れるわけ。それで支店長が目標を立てて「島田くん、じゃあ一週間でこれだけ」って「えっー!」て思ったけど「じゃあ頑張ります」って(笑)。それで行ってやったんですよ。
── すごい......! それ、島田さんのお陰で売上が立つ?
島田 その時はね。
── すごいなぁ。
島田 その一週間の時に一日だけだったけど、書店さんがよくやってくれたっていうので「今日ちょっと夜空いてる? 寿司でも食いに行くか」ってなって。
── おお。
島田 「島田さん、汚い店ときれいな店あるけど、どっちの寿司屋がいい?」って訊くから(笑)、「汚い店がいいですね」って。
── まるで舌切り雀じゃないですか?(笑)
島田 「そうだろうな! そういうところのほうが美味いんだよ」って。そこでシャコとか色々食わせてくれて。
── 島田さん、そうとう人と出会ってますよね。
島田 出会ってるね(笑)。
── いやあ、くらくらしてきました。自分がまだ何もやれていないっていうのがよくわかりました。
島田 いやいや、そんなことはない。ただ色々やらないとね。まだ僕がやってない売り方もいっぱいあると思うんだ。思いますよ。
── はい。

12月12日(金)スッキリ隊納め

都内某所にスッキリ隊出動。合計3度の出動でおおよそ6000冊の本を整理させていただく。

すべての本に持ち主の思い出が詰まっており、その重みに押しつぶされそうになるが、これらの本がまた誰かの手に渡り、新たな思い出が書き加えられていくと思うと、本というものが半永久的であることに救われる。

本の方が人間よりも長生きなのである。

12月11日(木)自宅作業

終日自宅で来年刊行する本の原稿と向き合う。

最近気づいたのだけれど、営業と編集の二足の草鞋では、ゲラをじっくり読みたい時は電車に乗って遠出するのがいい。

12月10日(水)オーラ

午前中、企画会議。

午後、信濃八太郎さんとともに南伸坊さんのところへ取材にでかける。

久しぶりに全身からオーラの出ている人に会い、興奮を隠せない。

12月9日(火)胃カメラ

午前中、出版健保に出頭し、人生初の胃カメラ。この5年ほど健康診断の際にバリウムを断っており、そろそろきちんと検査しておいいたほうがいいだろうと自首したのであった。

前の晩に眠れぬほど緊張したのだが、するするすると通された胃カメラは無味無臭で、これは大嫌いな寿司や刺身を飲み込むよりずっと楽。ときおりゲップが出てしまう以外は意外と耐えられるものだった。

すぐに診察となり、モニターでわが胃を見ながらお医者さんに説明される。てっきり日ごろのストレスからいくつもの自然治癒した潰瘍の跡があるかと思いきやポリープがひとつあるもののそれは良性とのことで、念のためピロリ菌の検査を受けることとなる。

ここ数年あちこちで聞いていたピロリ菌がついに私の人生に登場した。いったいどんな菌なのか興味津々だったが、小水をとり30分後に判明したところわが体内には残念ながらピロリ菌は不在であった。

夜、千代田図書館の会議室にて、青土社のエノ氏が取り組んでいる出版フィールドワークプロジェクトというののインタビューを受ける。

本屋大賞以外のことで話を聞かれるのは初めてのことで、20歳以上年下の人たちから次々と質問を受ける様子は、まるで取り調べのようであり、2時間に渡るの尋問の結果、ついに「私は30年間ろくに仕事をせず、隙さえあればサボっておりました」と完オチしてしまう。

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