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4月28日(木)

 内澤旬子さんの『カヨと私』の装幀をお願いしている松本孝一さんのところへ色校をお届けす。合わせて、その次の本の本文組の相談など。Jリーガーの次に今、最も憧れる職業である装丁家の方とお話するのはとても楽しい。


★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(13)

【茶木則雄(当時:ときわ書房本店、現在:書評家)の回想】

 本屋大賞立ち上げのための会議に参加するにあたって、私はあらかじめ二つのことを心に決めていた。

 ひとつは、一回目の会議で必ず決着をつけること。

 そもそも書店員は(想像以上に)忙しいうえ、シフトの関係で日程を調整するのが難しい。皆さん優秀で一家言ある人達が集まった多人数の会議は、会を重ねれば重ねるほど、収拾がつかなくなる虞がある。だから最初から一発勝負で、と考えていた。

 二つ目は、選考過程の透明化、公正化をどう担保するかだ。単なる人気投票に終わっては、「これこそ書店員の選ぶ今年一番面白い本だ」という賞の創設意義が問われかねない。

 そこで、議題が具体的な選考過程に及んだとき、私はかねて用意した腹案を提示した。

 候補作は全国の書店員のアンケートで10作程度に絞り、最終選考においては参加者全員が候補作をすべて読んだうえで投票する。全部読んでいない人は投票に参加できない。というものだ。さらに、読んだという証明のため、参加者は10作すべてにコメントをつける。と、そこまで踏み込んだ。

 当然、反対意見が様々あった。

 曰く、候補作が出そろい最終投票までの一か月程度で、忙しい書店員が10冊すべて読むことは不可能だ。

 曰く、それを強制しては、参加者が極端に限られてしまう懸念がある。

 曰く、読んだという証明を求めるのは失礼ではないか。

 そんな感じの意見であったと記憶している。

 おっしゃることは、すべてごもっともである。現場の忙しさは私も長年経験して痛感している。こういう厳しい基準を設けると参加者が減る可能性が大いにある。また、読んだかどうかの証明に至っては、失礼極まりない。

 しかし、公正性と透明性を担保するにはこれしかない、と思っていた。

 予想された通り、議論は紛糾した。厳しい口調での文言も飛び交った、と記憶している。

 その度に、為せば成る、という意味のことを私は発言した。ときに、為さねば成らぬなにごとも、という意味のことを口走った、ような気もする。ついには、成らぬは人の為さぬなりけり、と机を叩いたような気が、しないでもない。

 いまや「昨日なに食べた」と訊かれても困惑する私である。20年前の記憶が曖昧なのは致し方ないところだろう。

 とまれ、激しい議論の行方を眺めながら、「これは成功したな」と内心ほくそ笑んだ。

 意見の相違はあっても、全員が前を向き、新しいものを自分たちの手で作り出そうという、熱意に満ち溢れていたからだ。

 細かな修正はあったが、最終的に、私の提案したフレームが落としどころになった。アメリカの陪審員裁判と同じように、全員一致の評決であった。

 と、あやふやな記憶で書き綴ってきたが、ひとつだけ鮮明に覚えていることがある。

 その後の打ち上げ席だ。ここは幕末の松下村塾か適塾か、というほどの気概と熱気の中で飲む酒が、すこぶる旨かったことは、いまでも脳裏に焼き付いている。

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