11月15日(水)母親とじゃりン子チエ
子どもの頃、本は読んでなかったけれどマンガはたくさん読んでいた。
世代的にジャンプが大変な部数に向かっていくところだったか。「キン肉マン」「北斗の拳」「こち亀」などなど毎週その話の行方が気になるマンガが掲載されており、月曜日には家から歩いて30秒のところにあった10坪もない本屋さんに駆けていっていた。
マンガ週刊誌を買うだけでなく、もちろん単行本も買っていた。初めて覚えた掛け算は360の段かもしれない。360円、720円、1080円......。その月のジャンプコミックスの新刊の欲しい点数によって、握りしめていく金額が違った。
そうやってマンガを買いに行く時にいつも母親に言われていたのが、「『じゃりン子チエ』が出てるか見てきて」だった。
母親も本は読まないけれどマンガを読む人だった。僕が買ってきたマンガの中で気にいるマンガがあると僕が読んだ後に持っていき、枕元にはいつもマンガ本が詰んであった。
あの世代の人がどこでマンガを知ったのだろうか。いやもっと不思議なのはどこで「じゃりん子チエ」の存在を知ったのか。そして東京生まれ東京育ちの母親がなぜにあんなに「じゃりン子チエ」が好きだったのか。
「じゃりン子チエ」の最終巻が出たのが何年だか覚えてないけれど、僕が家を出ても「じゃりン子チエ」の新刊が出たら買って実家に届けるということが続いていた気がする。そして母親は「じゃりン子チエ」を何度も何度も読み直しながら歳を重ねていった。
そんな母親が5月に倒れ、長期入院になった時、僕が初めてお見舞いに持っていったのは「じゃりン子チエ」だった。
きっと暇を持て余すだろう。そんな時にいつも読んでいた「じゃりン子チエ」があればいい暇つぶしになるだろうと思ったのだった。
ひとつだけ懸念したのは、脳梗塞の影響で左手が動かないということだった。片手でマンガを読むことができるのか。できなかったとき母親はもう「じゃりン子チエ」も読めないのかと落ち込んでしまうのではないかと思ったのだった。
そんな心配は意味がなかった。そもそもマンガを読む気力が湧いて来なかったのだ。持って行った「じゃりン子チエ」は、ロッカーに入れられたまま転院するまで取り出されることがなかったのだ。
リハビリ病院に移り、三ヶ月が過ぎて、やっと面会が可能になった。これまでコロナの影響で、一切面会を受け付けてくれなかったのだ。
面会可能になって、僕はすぐに予約の電話を入れた。三ヶ月ぶりの母親の様子を心配しながら病院に向かうと、母親はとても元気になっていた。車椅子を右足で操作して、ツツツーと廊下を移動すると、自分の部屋に案内してくれたのだった。
陽の差し込む窓際のベッドの枕元に「じゃりン子チエ」があった。転院する時にその一冊だけ鞄に詰めて持っていったのだった。
「あれ? じゃりン子チエ読んでるの?」と訊ねると、「これ一冊しかないから何度も何度も読んで覚えちゃった」と母親は笑った。
車椅子を動かせるようになったこと、トイレを一人でできるようになったこと、病院で友達ができて楽しそうにしていること、そんなことより僕には母親が「じゃりン子チエ」を読めるようになったことが一番うれしかった。なせならそれは僕が小学生のときの母親の姿だからだ。