1月22日(月)忘れたくない日
6時起床。月、水、金が燃えるゴミの日と聞いたので昔の記憶を辿ってゴミ袋2つ抱えてゴミ置き場と指定されている路地に向かうもまだ誰も出しておらず、不安になって持ち帰る。空はまだ日も昇っておらず早過ぎたのか。
朝食の用意をし、7時に母親を起こす。トイレに連れて行き、顔を洗い、食卓に鏡を置いて、ブラシを渡す。
その間にトーストを焼き、4つに切って出すと、こんなに食べられないよと言って、そのうち2つにイチゴのジャムを塗って食べた。
「何時に来るんだっけ?」
と昨日から何度も聞かれた質問に初めて答えるかのような顔して、
「8時半過ぎだよ」
と答える。
当初は平日は介護施設のデイサービスを利用して、実家に単身赴任した私と暮らす予定だったのだけれど、病院の人やケアマネージャーから一人で家にいる時間を作るのはまだ危険だとアドバイスされ、結局、月曜日から金曜日は施設で寝泊まりしてもらうことになったのだ。そのショートステイ先の送迎の車が、8時半にやってくるのだった。
「やっぱり家はいいねえ」と涙していた母親を、また施設で過ごさせることに罪悪感がわかないわけではないのだけれど、それで自分の負担が減ってずいぶん心が楽になったのも事実だった。本の雑誌社の社是は「無理をしない 頭を下げない 威張らない」だが、それはそのまま私の介護のモットーになっている。
8時半、時間通りに介護施設のワゴン車がやってくる。車椅子の母親はハッチゲートから下ろされたスロープをウィンチで引っ張られ、乗車していく。
1年半前、父親を介護施設に送った時の困惑顔を思い出す。あのときは介護施設に着いて1時間もしないうちに父親から「お父さん、どこだか知らないところに監禁されているんだよ!」と錯乱した電話が入ったのだった。
その父親と違って、病院を退院する際に病室の仲間や看護師さんから泣かれるほど仲良くなっていた母親は、介護施設の車に乗り込むとすぐに周りの人たちに自己紹介をし、見送る私に笑顔で手を振って、介護施設に向かった。
本当の気持ちはわからない。
改めてゴミを捨てに行き、すべての窓を開け、空気を入れ替え、掃除機をかけてから実家を後にする。
3日ぶりにひとりとなる。上着がいらないほどの晴天。父親のお墓に線香をあげてから駅へ向かう。
武里駅から東武伊勢崎線に乗って出社するのはいつ以来だろうか。娘が生まれたとき、妻(と娘)が退院するまで実家で過ごしていた気がする。
しかしそのときのことをいくら思い出そうとしても断片的なことすらなにひとつ思い出せない。たった22年前のことなのになにひとつ覚えていない。たぶん、今日という日のこともすぐに忘れてしまうだろう。
でも、忘れたくなかった。
隣駅で運良く座席が空き、そこに座った時の疲労感を。すぐにまぶたがおりてきてうとうととしてしまったことも。そして窓から見えるかつては見慣れた景色だった風景も。何もかも忘れたくなかった。
でもきっと、忘れてしまうことだろう。