2月3日(土)生きるということ
朝9時、妻と介護施設に母親を迎えにいく。
車椅子に乗ってうれしそうに出てくると、車に乗って「はあ」と一息つく。施設への不満が口をついて出てきたらどうしようかと思ったけれど、「ご飯が美味しくてさ」と肯定的な言葉で出てきてそっと胸を撫で下ろす。どうやら私同様にこの新しい暮らしを受け入れることができているようだった。
自宅に帰ると「ああ、やっぱり家はいいねえ」と声をあげる。その言葉を聞いてうれしい気持ちと切ない気持ちの両方が湧いてくる。週末だけでも帰れるように工面している自分に対する誇りと、結局毎日は面倒を見られない自身の器の小ささの間で揺れ動く。
天気が良いので車椅子に乗せて父親の墓参りに向かう。その車椅子を参道で止めて、母親に杖を渡す。退院から2週間経ち、私と我流のリハビリを続け、家の中をずいぶんと歩けるようになっているのだ。
でこぼこする道をゆっくりゆっくりと父の墓に向かって歩く。線香に火を灯すとこれまで車椅子で届かなかった香炉に供えた。
「届いたね」
青空の下、母親はそう言って笑った。
車椅子まで歩いて戻り、近所を散歩する。通っていた美容院を覗くと、窓の向こうで美容師さんが驚いた表情を向け、手を振った。通り過ぎようとすると美容師さんは足音を立てて出てきて、「杉江さん!」と手を掴むとそのまま泣き崩れてしまった。
病院を退院した母親は、ほとんどの時間、家の庭を眺めている。どこに行くわけでもなく(行けないのだが)、新聞を読むわけでもなく、音楽を聴くわけでもなく、またピアノを弾くわけでもなく、ただただ庭を眺めている。
その姿を見て、私はいったい「生きる」というものはどういうことを指し示すのだろうかと考えていた。仕事をして、成功したり失敗したりして刺激を受け、あるいは誰かと会って、仲良くなったり喧嘩したりして、そういう起伏こそ「生きる」というものなんじゃないのかと思ったりもした。
しかしそれは私だっていつか途絶えるのだ。そのあとの「生きる」とはいったいなんなんだろうかとずっと考えていた。
今、目の前で、母親と美容師さんが手を取り合って泣いている。
「生きる」ということがここにたくさん詰まっている気がした。