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8月23日(金)古本屋さんの喜び

月曜日の続きで、南麻布へスッキリ隊出動。立石書店の岡島さんと約2000冊の本を運び出す。マンションのエントランスに8段の階段があり、激暑の中、昇り降り50回ほどしてレンガに黒いシミをたくさん残す。

お預かりした本を古書会館に運び込むと、ちょうど地下の「ぐろりや会」で出店しているBOOKS青いカバの小国さんと遭遇。小国さんは「Edit-us」というサイトで「本だけ売ってメシが食えるか」という連載をしており、次回が最終回ということで、「新刊書店をやめていく人に古本屋という選択肢もあること伝えたいんですよね」とその最後の回の原稿を練っているところだと話されていた。

私はこのようにスッキリ隊という古本仕事のある一部をさせていただいているのだけれど、やはり新刊と古本の仕事はだいぶ違うように思う。

私自身すでに5年以上こうして買い取りに関わり、また古書現世の向井さんや立石書店の岡島さんから古本屋の仕事を教わる機会があるのだけれど、実はいまだに古本屋の面白さというものの核心がつかめずにいる。

以前も書いた気がするけれど新刊の仕事の喜びといえば、本がたくさん売れることで、それも同じ本がたくさん売れること、すなわち重版が何度もかかったりして部数が伸びることで、自分たちが作った本がそれだけ多くの人に求められていることによる喜びが大きいのだった。数の喜びだ。

きっと新刊書店の書店員さんたちも自身の読み通り、あるいはそれを超えて本が売れることが大きな喜びであると思うのだけれど、古本の場合は、同じ本が何冊も売れることはほとんどないわけで、そうなると何が喜びになるのか、新刊の仕事をしている私にはまだ掴めずにいる。

新刊と古本の最も大きな違いは仕入れ値と売値を自分でつけられることだろう。そうなると例えば100円で仕入れたものが1万円で売れた!というなことがあればそれは商売として大きな喜びなると思うのだけれど、その場合、本来は高値で買い取るべきものを安く仕入れたわけであり、そこに罪悪感が生まれそうで、そうなると喜びとともに苦しみも生まれてしまい、なかなか純粋な喜びならなそうな気がするのだ。

ならばなぜ私がスッキリ隊を続けているかといえば、それはいろんなお宅に伺い、その人ならではの集めた本を眺められるという面白さがあるからなのだった。そうそう人様の本棚を眺められることなどなく、そこには10年、20年あるいはそれ以上の年月をかけて集められた本が並んでおり、大型書店でも出会えないような本が背表紙を向けているのだ。

そのときに生まれる「こんな本があるんだ!」という純粋な喜びは、おそらく新刊書店さんが毎日届く新刊の箱を開けたときのような喜びに似ていて、本好きとしては普遍の喜びだろう。

果たして古本屋さんの喜び(面白さ)とはなんなんだろうか。改めて向井さんにでも聞いてみようと思うのだけれど、本当の意味で、それがわかったら私もそっちに行ってしまいそうなので、わからないほうがいいのかもしれない。

ちなみに私の実感としては、新刊書店をやめて(やめざるえず)図書館で働きだす人というのはここのところ増えているけれど(東京の場合それと同じくらい版元営業になる人も多い)、まだ古本屋さんになる人というのは小国さんが話すように少ない気がする。

なにより一人でも多くの人が新刊書店で働き続けられるために何ができるのか──ということを私が最も考えなければならないことであるのだけれど。

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