第0回 SF幼年期のアルジャーノン

  • アルジャーノンに花束を〔新版〕(ハヤカワ文庫NV)
  • 『アルジャーノンに花束を〔新版〕(ハヤカワ文庫NV)』
    ダニエル・キイス,小尾 芙佐
    早川書房
    1,078円(税込)
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 本連載も始めてもう三年。これまで読んだ古典SFの数はざっと三十作。SFファンとしてはまだまだ初心者だが、それでも「アーサー・C・クラークってエッセイストだっけ?」という状態から見れば、ずいぶん進化した。

 当初はSF小説を読むと素直に驚いたり感動したりしていたのだが、最近では「この小説はあの小説に影響を受けてるんじゃないか」とか「これってSFと言えるの? SFっていうのはそもそも......」などと面倒くさいことを考えるようになった。

「SF的自我の目覚め」と言っていい。人間で言えば、三、四歳児程度だろうか。我がSF人生もようやく幼年期に入ってきたと言える。

 というわけで、この辺で、かつて読んだことのあるSFを再読してみたい。いくらSF音痴であっても、本好きではあるので、話題になった作品は多少読んでいる。SF幼年期読者の目で再読したら、それらの作品はどう写るのか。

 第1回はSF史上最も成功した小説間違いなしと思われる、ダニエル・キイス著『アルジャーノンに花束を』(小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫)。私も二十代のときに読み、感動した記憶があるが、「知的障害者の若者に脳手術を行ったら超天才になったものの、予期せぬ困難が待ち受けており、最後は××になる(ネタバレのため伏せる)」ということしか憶えていない。一体何に感動したのかも思い出せない。

 最初のページを開いて「ああ、そうだった!」と思いだした。主人公が自分を手術した研究者に対して書く「経過報告」の体裁をとっているのだ。彼は幼児並みの知能しかないので、文章はひじょうに拙い。文法や綴りの間違いも多々ある。それが手術後、知能の発達に伴い、文章力もぐいぐい上がっていく。同時に、観察力や洞察力も高まっていく。この手法が本書の成功の要因なのだが、今読むと別の感想が湧いてくる。

「これって当事者研究じゃん!」

 従来、「研究」とはあくまで研究者や医師といった専門家が行うものとされていた。患者が自分の病状や状態について言ったり書いたりすることは昔からあったが、それらはあくまで「闘病記」や「体験記」という私的かつ主観的なものとして学術の外に位置づけられてきた。 

 ところが、当事者研究は文字通り、当の患者や障害者が自分の状態を客観的に研究し、報告しようというものだ。病気や障害に苦しむ当の本人にしかわからないことは山ほどあり、専門家には気づかれない重要な点が多々含まれている。私を当事者研究の魅力に引きずり込んだのは医学書院の「シリーズ ケアをひらく」である。シリーズ開始から二十数年たった今、点数は四十を数えるが、驚くほど多くの文学賞やノンフィクション賞を受賞しており、現代日本出版界における最強のシリーズだと思う。実際どれもこれも面白い。精神疾患、依存症、身体障害、発達障害、認知症、脳機能障害、ろう者などの当事者や当事者をケアする専門家(この人たちも「当事者的」な見方をしている)が主観と客観を交えながら冷静に、でも本音で話をするのがこのシリーズの醍醐味だ。ありとあらゆる当事者が出てくるこのシリーズでもまだ出てこない障害・病気がある。それは「知的障害」。なぜなら、知的障害は自分の体験を十分に言語化できないからだ。特に五歳児並みの知能しかない人には不可能だろう。

 これを可能にしたのが本書アルジャーノンなのだ。山田正紀氏はかつてSFについて「想像しえないことを想像する」と言ったそうだ。一部では「アルジャーノンはSFじゃない」と言われているらしいが、山田正紀的な意味ではSFの中のSFと言える。

 アルジャーノンは科学的にてきとうな部分もあるけれど、精神医学の観点から見ると、今でもすごく示唆に富んでいる。「ケアをひらく」と同じく医学書院で刊行されている滝川一廣著『子どものための精神医学』によれば、発達の精神医学には大きく二つの潮流があるという。一つは身体医学をモデルにした、脳による「認識」の発達を見る正統精神医学、もう一つはフロイトに代表されるような、他者との「関係」の発達を見る力動精神医学。

 前者は人間を「合理的」な存在とし、子供の脳が外部環境を取り込みながら発達していくと考える。もしその発達が合理的(正常)でない場合は何かそれを阻害する要素があると見なす。

 いっぽう、後者は子供の精神の発達を他者(他人や社会)との関係性から考える。エディプスコンプレックスなど親との葛藤もこの「関係」の発達に含まれる。

 本書の主人公チャーリーは手術によって脳の認識機能を著しく改善させることに成功したが、一方でその手術は関係の発達には何も寄与しない。彼が変わることで周囲の人間との関係性が変わってしまうし、そもそも彼は知的障害ゆえに親から見放された過去があり、認識力の発達のおかげでその深刻さに気づいてしまう。チャーリーの苦しみはそこに生まれる。知能の発達後も彼と関係性が変わらなかったのはアルジャーノンという名前の鼠だけ。だからこそそれがラスト一行の圧倒的な感動を呼ぶのだろう(私も泣いてしまった......)。

 六十年くらい前に刊行された本書が今なお輝きを失わないのは、「ケアをひらくSF篇」的な構造を持っていることと、関係性に苦しむ人(=生きづらい人)に強く共鳴する極めて現代的なテーマゆえにちがいない──なんてSF幼年期の私は思ってしまったのだった。