第2回 「うちのとんかつが千円以上になったら店を畳むときだね」と大将は言った。
地下鉄西日暮里駅のホームから地上に出ると、高架が見えた。そこを走っている日暮里舎人ライナーの姿は地上からは見えないが、頭上の線路は首都高速のような圧迫感がある。この駅はJRを含めると4路線も走っているのだが、大きなビルは少なく、ターミナルというより便宜上の乗り換え駅といった風情が漂う。駅前の交通量は多いが、横断歩道を渡る人は少なく、信号を渡ってすこし歩けば静かな街並みが広がっていた。
この日もうだるような暑さだった。駅からすこし離れれば高い建物は姿を消し、家屋が作る影を綱渡りして日差しを避け歩く。やがてスマホの地図に載っていない小さな踏切があったから、慌てて地図を拡大すると、うっすらと鉄道の線路が見えた。旅客を運ぶ営業線は太く黒い線で描かれ、貨物線は薄く表記されるようだ。車が通れない小さな踏切を渡るときに左右を見回したが列車の気配はない。だが線路を越えると街の雰囲気がグンと変わった気がした。古くは川が国を隔てたように、この街は線路が町を隔てているのかもしれないと思った。
線路を越えてしばらく歩くと、下町の色がどんどん濃くなっていく。やがて目指す「とん国」が見えると、色褪せたファサードの前に先に着いた杉江さんが待っているのが見えた。どこかうれしそう。その理由はすぐにわかった。真正面から見た店の面構えが実にいいのだ。古びたショーケースに手書きのメニュー。古いけど清潔感があるのが好ましい。前に立っただけでわかる、ここは間違いなくいい店なのだと。
ガラスの引き戸を開けて中に入ると、老齢の店主がこっちをちらと見た。「無骨」さと「几帳面」さを感じさせる店主の佇まいに背筋が伸びる。愛想がいいタイプには見えず、目つきも鋭い。
空いているテーブル席に腰掛けてメニューをながめる。私たちの他に客はいないが片付けで忙しそう。時計を見ると13時を回ったあたりで、ランチの客がはけたあとだろう。「とりあえずビール」を頼むと冷蔵庫から出して栓抜きで開けてくれる。二つ置かれた小さなグラスにサッポロビールを注いで静かに乾杯した。
店主の手が止まったタイミングを見計らってとんかつ定食690円をオーダーした。ランチ価格にしたって安い。これだけでは悪いような気がして、追加でニラ玉とオニオンスライスも頼むことにした。
ビールグラスをかたむけ雑談していると、目の前から玉ねぎをカットする「シャシャ」という音が勢いよく聞こえてくる。イレギュラーな注文にペースを乱された怒りのメッセージに思えて、先ほど伸びた背筋がつい丸くなる。
「ジリリリ」
不意に電話が鳴った。今時珍しいピンク電話から、少し大きめのボリュームで鳴り響くベル音。私たちが注目する中で受話器を取り上げた店主は、間髪入れずに叫んだ。
「間に合う!!」
ガチャンと受話器を叩きつけるとまな板の前に戻っていく。店内に奇妙な沈黙が流れた。私と杉江さんは顔を見合わせた。営業電話か、あるいは詐欺電話か。これは聞かないわけにはいかないだろうと勇気を出したのは年下の私だ。店主の答えは「肉屋」だった。
「今日はそこまで注文がないから、いらないの」
余白を補って察するに、先方から「肉の在庫は大丈夫ですか?」という問いかけがあった。それに対して「間に合ってるから」と返事をした、ということだ。迷惑電話のような扱いをされた相手に少し同情するが、「声が小さいんだ」とブツブツいうから、「それは向こうが悪い」とつい相槌を打ってしまう。
「あんたたちはこの辺の人じゃないね」
あれこれ話しかけたり、めずらしそうに店内を見ていたから怪しまれたようだ。だが、他に客がいないこともあり、これが会話のきっかけとなった。
店主の生まれ年、過去の職歴、最近の政治について思うことを自由に話してくれたから、おしゃべりは嫌いではないのだろう。ちなみに、店名の由来は「国を守るため」。
「攻め込まれたらおれはいつでも戦う」
そう言って胸を張る様子は三島由紀夫を思わせる。80歳近いという店主の顔つきは精悍で実にかっこいい。話しながらも決して手を止めない。無駄のない所作に惚れ惚れしていると、また電話が鳴った。私たちの間に緊張が走り、電話に向かった店主を期待を込めた眼差しで見つめる。
不機嫌な顔で受話器を耳に当てた店主は、背筋を伸ばし深く息を吸った。
「今日中!!」
そう、これだ。店主はやはりガチャンと音を立てて受話器を置いた。このスタイルは不変のようだ。誰からの電話か、今回も答えを探すのは難しい。二度目ということで気安く尋ねると、今度は米屋だった。
ふたたび私なりに要約すると、「店にある米のストックがそろそろ底をつくかもしれない。だから今日中に持ってきてほしい」という意味である。電話でダラダラしゃべるなんて時間がもったいないのだ。無駄を極力省こうとするスタイルは、時間をお金に換えて生きてきた個人店の生き様そのものだ。
客席のテレビからは昼下がりのワイドショーが流れている。テーブル席からはカウンター越しに作業をする店主の上半身が見える。トントン。肉の筋を切る音だろう。ぱんぱん。肉についた粉はたく音。ジュー。ようやく肉が油に入った。サクサク。町とんかつでしか聞けない音がある。
10分ほど待って出てきたロースカツはうまかった。
ほどよく茶色に色づいたカツの衣はしっとりとサクサクの中間で、どちらかといえば塩よりソースがあいそうだ。そして衣の中に鎮座する肉が存在感を放っていることに驚く。噛み締めるたびに肉の旨みをしっかりと感じる。
杉江さんが頼んだのが名物みそかつ。オリジナルの味噌ダレは創業以来変わらぬ味で、偏食の杉江さんは実にうまそうに食べている。悔しいのでタレを少しもらってビールのアテにしたらたしかにうまい。この濃厚な味噌ダレに負けないくらい肉の味わいが強いことも印象に残った。先ほどの電話でわかるように、いい肉を仕入れているのだろう。
「こんないい肉を使って、この値段でやっていけるんですか」
「金なんかたくさん持ってもいいことないから」
店主は若い頃に有名な洋食屋で修行を重ねたらしい。独立する際に庶民が気軽に食べられる料理として選んだのがとんかつだった。うまいものを気軽に食べてほしい。その矜持は今も変わらない。
「うちのとんかつが千円以上になったら店を畳むときだね」
気がつけば時計は14時30分をまわっていた。中休みを取る頃合いだろうと思って慌てて会計を頼む。だが、通し営業だから気にしなくていいよと顔の前で手を振る。客がいなくなったら休む、まかないは空いた時間に適当に食べる。このスタイルを50年以上も続けてきたのだ。
それでもお代を支払い席を立った私たちに店主は声をかける。
「また来てね」
「絶対に来ます!」
最後にようやく笑顔が見れた。私たちを見送る店主の腰はすこし曲がっていて、重ねてきた歴史の重さを改めて思った。
とん国
東京都荒川区西日暮里6-33-8