第1話 ヤギが治した? 猫アレルギー
秋は午後から日暮れにかけての時間がとても短い。ヤギたちと鶏たちにご飯をあげて、鶏の寝床を掃除していると、遠くの方から鳥の囀りや風の音に混ざって小さなニャーが聞こえる。やれ来た、寅雄が来た。鳴き声は少しずつ大きくなって、一体どこから来るのかとキョロキョロしていると、隣のオリーブの林から近づいてきた。悠々と枯れ草や柵をくぐり抜けてキジトラ柄の身体が現れる。夕日が透けて輪郭が輝いている。よく来たね、トラ。今日はどこで遊んでたの?嬉しくなってたくさん話しかけてしまう。
あいつ、小さいからって柵の隙間から勝手に出入りして......ヤギたちがちょっとだけ面白くなさそうな顔つきで寅雄を見ているが、寅雄はまるで気にしていない。畑と鶏の敷地にはヤギが入って来れないのをちゃんと知っているからだ。畑のえん麦を齧ったり、鶏小屋の上に登ってブルーシートの屋根の上でくつろいだりして楽しそうに過ごす。
これまで飼ってきた動物たちは、みんな私の目が届くところで暮らしている。けれども猫の寅雄だけは、自由気まま。どこで何をしているのか、わからないし、来たいと思った時だけ、やってくるのである。それを心の底から良しと思っているかと言われると、そうでもない。迷い悩んでいるのだが、こうして餌目当てでもなく私が大事にしている場所に自分の意思で遊びに来てくれる姿を見ると、幸せホルモンがドバドバ溢れ出てきてどうでもよくなってしまうのだった。
猫のことは実はずっと苦手だった。
母親が猫のことを毛嫌いしていたからだ。庭に来れば追い払っていたし、猫を飼っている親戚の家に遊びに行くと、帰り道はずっと猫が臭かった不衛生だと文句を言い続けていた。何を考えているのかよくわからないし、取り澄ました感じが可愛くない、裏表がある、第一不吉な感じがする、と何度も聞かされた。母親が毛嫌いしているものは他にもいろいろたくさんあって、彼女は常に何かに対する呪詛を吐き続ける人だったので、猫だけが悪者だったわけでもなかったのだが、いやでもやっぱり猫は母の嫌いなもの五選くらいには入っていたと思う。
私自身が猫をどう思うのかを考えたり主体的に触れ合うチャンスもなく、柴犬を飼っていたことも手伝って、自分は猫ではなく犬が好きなんだと思っていた。実際犬は今も大好きだ。
そうして大人になり横浜で一軒家を数人でシェアして暮らしていた頃、はじめて猫とひとつ屋根の下で暮らすこととなる。一階の部屋に入居してきた女の子が黒白の長毛猫を連れてきたのだ。名前は忘れた。すまん(猫氏と彼女に謝っている)。彼女の部屋は庭に面した窓があったので、猫氏には窓から出入りしてもらって、部屋の中だけで暮らしていただき、玄関や玄関脇にある台所などの共用スペースには入れないで欲しいとお願いした。私はシェアハウスの管理人でもあったので、それくらいの決済権はあった。そもそも大家さんには猫が入居することは秘密だったのだ。そして家賃は一万円と激安だったので、彼女としても猫氏の共用スペース出禁ルールを守ってでも入居する価値はあったのだろう。
けれども猫氏はその出入りのルールがいたく気にくわなかったらしい。そしてそのルールを作って押し付けたのが私であることも、きっちり理解していた。私は二階に住んでいたのだが、私が出かけている時に猫氏はこっそり二階に上がってきては(二階は四部屋あって当時は私が二部屋使っていた。当然だが猫氏の出入りは許していないがドアは不用心にも開けっぱなしだったりした)、私のベッドに潜り込んで毛だらけにして何事もなく帰るという嫌がらせを仕掛けてきた。なんという賢さと陰湿さ。
しかも猫氏は大量のノミを保有していた。飼い主である女の子は全然刺されないのに私だけ刺されまくった。体質の違いなのか人種の違いなのか(彼女の母親は英国白人だった)。玄関に置いた靴に足を入れると、白い靴下の上にピョンピョンとノミが数匹乗ってくるのが見えるという具合で、足は蕁麻疹のように点々だらけとなり、痒さでろくに寝られなかった。ちょうど夏だったし冷房もなかったのでイライラは増すばかり。
最終的に確かエチオピア旅行で買っていた南京虫を殺す白い粉末の殺虫剤を撒いてノミを死滅させた。あれは強力すぎて日本で販売許可が降りない類の殺虫剤だったんじゃないだろうか。そして共用の台所で作り置きした鍋いっぱいのかぼちゃの煮付けなどが一晩で消えるといった怪事件が多発して、女の子が摂食障害を患っていることが判明し、すったもんだあって一年もしないうちにその子は猫氏と一緒に実家に帰って行ったのであった。猫氏がいなくなる頃にはもう私はすっかり猫が苦手になり、触るのすらノミに刺されそうで躊躇するようになってしまった。
それから数年後にはアトピー性皮膚炎になり、アレルギー体質がどんどんひどくなり、三十代になる頃には古本のカビと共に動物の毛も受け付けられなくなっていた。猫を触れば鼻の中や目の周りが痒くなり、くしゃみが止まらなくなりそうで、近づくことも難しくなった。アトピー性皮膚炎が落ち着いてからもアレルギー体質は改善せず、古本をさわれば手のひらや鼻の穴が痒くなり、くしゃみが止まらなくなるし、耳の穴も痒いし、何も触らなくても何らかの花粉の季節には唇の皮はバリバリ剥けるし、いつの間にか夜に咳が止まらなくなり、アレルギー性喘息と診断された。
エチオピア旅行に出かけたのは、首都のアディスアベバのカフェで売りつけられそうになったニューズウィークの表紙がオウム真理教の麻原彰晃だったから、95年春だ。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件で日本がぐにゃんぐにゃんになっていた年だった。同居人の猫のノミにやられたのが多分同年夏から秋にかけてで、あれから数えると二十年以上猫嫌いを貫いてきたことになる。
動物と一緒に暮らしたいという願望は、実家を出てからずっと持ち続けていた。具体的には犬だ。犬以外の動物を想像することはほぼなかった。けれども犬を飼うなら自然の多い一軒家に住んでからにするべきだという気持ちがとても強かった。実家で飼っていた黒柴犬を毎日のように山やゴルフ場に連れて行き、リードを放して遊ばせていたからだ。
犬は自由に野山を走らせるもの、というのは父親の方針だった。その代わりどんなに頼んでも家の中に自由に出入りさせることは許してもらえず、寒い冬の夜に限り消灯時間まで台所の板の間で寝ることだけは何とか許してもらえた。
犬がリードを放した瞬間にダッシュで山道を飛ぶように走って消え、笹をかき分けて戻ってきたと思ったらまたどこかに消えてを繰り返す姿は、本当に本当に心から嬉しそうで、見ている私も心から嬉しくなった。一歳から十歳くらいまでは、綱を放せば弾丸のように飛び出し山の中を駆け回っていた。住んでいたところが鎌倉で、ハイキングコースのような気軽に入れる安全な(猪やクマや猿に襲われる心配のない)山に囲まれていたのはとても恵まれていた。
今思えばあの体験が、私の動物との付き合い方を考える上での礎になっているように思う。動物たちの喜ぶ姿、嬉しそうな顔、気持ちよさそうな顔が見たい。それができないのならば、飼われる動物たちも可哀想ではないかと思ってしまうのだった。
小型犬ならば山で走らせるほどの運動量は必要ないだろうけれど、やっぱり犬を飼うなら野山を駆け巡らせたいので、都会のマンションに住みながら小型犬を飼うという発想にはどうしても至らなかった。それと室内で飼ってアレルギーが出ることも怖かった。
今では都心のマンションで中型犬や大型犬を飼う人も珍しくないし、ドッグランも各地にできて気軽に連れて行くこともできる。犬を屋外で年中寝かせることは動物虐待にあたると考える人も増えた。
その後様々なことが重なって千葉で豚を三頭飼って食べるルポを書くことになった。豚を飼うまでの経緯はこれまでの本に書いたので省略するが、この体験を後押しすることになったのは、なんと言っても基礎体力の向上が大きい。三十代の末期に乳がんになり、手術を繰り返していた頃には、長い距離を歩くことができないほど体力が底をついていた。ホルモン療法の副作用で聴覚過敏となって騒音も苦手で散歩もままならない。昼間からゴロゴロしているので睡眠も浅い。
何とかしなければ昼夜寝たきりになってしまうと思って始めたヨガが体質に合っていたのだろう。電池が切れたかのように眠れたことで夢中になって打ち込むようになった。最初は近所の公民館のヨガ教室でスウェットの上下にバスタオルを敷いてやっていたのが、半年経たないうちにヨガウェアを揃えてマットも買って専門のヨガスタジオに通うようになった。ちょうどアメリカ経由のヨガが多くの女性に支持され、スタジオが各地にできはじめた頃だっと記憶している。
それまで運動とは全く無縁だったこともあり、最初のうちは体のどこにも筋肉がついていなかったので、ポーズ一つ取るにも生まれたての子鹿のようにガクガク震えていた。もちろんスタジオの一番後ろの隅っこが定席だった。恐ろしいことに繰り返して行っていることでだんだんとついていけるようになり、気がついたら道を走れるようになっていた。生まれてからその歳になるまで運動習慣がなかったので、自分でも驚くほど身体が快適になった。あ、これもそういえば以前の本に書いたのでこの辺にしておこう。
ともあれ、ヨガで基礎体力に自信がついたおかげで、千葉の旭市に半年間住んで豚を一人で飼うという試みに挑戦することができた。自分の体重の倍以上になる豚を三頭も毎日食わせて排泄の処理をして、自動車も運転して、様々な人の協力を得て肉にして食べることができたのは、何といっても体が元気になっていたからだ。
そうしてプロジェクトを終えて東京に戻ってきてみると、豚と田舎暮らしが恋しくて、東京の暮らしが窮屈で仕方がなくなってしまった。
豚たちは自分で食べちゃったので、食べるために飼ったのでどうしようもないのだけれど、本当に可愛かった。想像していたよりも何倍も面白かった。そして賢かった。犬猫よりも大きな動物、家畜を飼うこと一緒に暮らすことの面白さ、素晴らしさをどう書いたら伝わるのか、いまだにうまい言葉が見つからない。
ただ、私たちが普段実際に接する動物の九割くらいは犬か猫なんじゃないかと思う中で、全く異なる性質や行動特性を持っていて、しかも自分より大きな動物と生活を共にすることは、脳内に設けた「動物とはこういうもの」という枠をグッと広げてくれたように思う。
東京に戻ってからは窮屈さを紛らわすようにヨガに加えてバレエも習い始めた。うまく踊れるかどうかよりも、とにかく身体を使って汗をかいてクタクタにしたかった。取り憑かれたように筋肉を使い続けた。この時期になるとこれまでほとんど飲めなくなっていたアルコールが飲めるようになり、最後の砦のように一口飲めば頭痛に襲われていたワインすらも少しずつ大丈夫になってきた。ただし喘息はまだ続いていたのでアレルギーの投薬は続いていた。
猫との付き合いは友人知人の家で、彼らが溺愛する猫を恐る恐る触るくらいだったろうか。ただしこの頃からインターネット上で知人の犬猫を見守るようになる。その後SNSの発達そしてInstagramの登場と繁栄と共に、犬猫の写真や動画が桁違いに大量に出てくるようになる。気がつくと会ったこともない人の愛犬や愛猫の投稿写真を毎日眺めてほっこり心和むようになる。なにしろ画面の中の猫はどれだけ眺めても鼻の穴が痒くもならないし、枕を毛だらけにしたりすることもない。
そうして全地球民が知る通り、いいねを押せばどんどんおすすめに上がってくる。気がつくと年がら年中かわいい動物写真を眺めるようになり、小豆島に移住する頃にはこれまで苦手でどうでも良かった小型犬や猫全般も、かなりかわいいと思えるようになっていた。これはもはや洗脳と呼んでも差し支えないのではないか。
とはいえ、小豆島に住んだ当初にまず飼ったのはヤギだった。これも二冊も本を書いてしまったので詳細は省くが、豚を食べたロスから家畜を飼いたいという気持ちが強かったからだ。ヤギもまた豚に劣らず興味深い動物だった。
うちに来たカヨは自分の欲望を実にストレートに私にぶつけてきたため、私は交配相手を探すことになり、結局一番多い時で七頭まで増えていった。ここまでの増員を許したのは広い場所に放し飼いができる環境に巡り会えたからなのだ。しかし場所だけあっても彼らは生きていけない。抜け出して近隣の畑を荒らさないように柵を回し、大量の餌の確保に追われることになる。気がついたら刈り払い機どころかチェーンソーを振り回すようになっていた。言わずもがなであるが、体力に自信がなければできることではない。
そうこうするうちにアレルギー体質が改善して喘息が治まり、皮膚の痒みが出ることもなくなってきた。『寄生虫なき病』モイセズ・ベラスケス=マノフ著/文藝春秋)によると小規模畜産農家にはアレルギーが出ないのだという。粉塵となった家畜の糞や排泄物由来の細菌を口や鼻から吸い込むことで、腸内環境に影響を与えアレルギーリスクを減らするらしいのだ。実際にアレルギーを治すために健康な人の大腸菌(つまりウンコ)を移植する治療法もある。てことは、ヤギのおかげなのか??
ヤギの糞はコーヒー豆のような粒々で、かなり硬いのだが蹄で踏みつけると粉々になる。これを毎日掃き集めて寝床をきれいに保つ必要があるのだが、マスクをしても粉塵となった糞の細粒を口や鼻から吸い込んでしまう。服や靴も粉塵となった糞や細菌まみれである。毎日年単位で浴びていれば大腸にまで生きて届く奴らも出てくるのかもしれない。アレルギー改善を意図してヤギたちを飼ったわけではないのだが、どうやらヤギたちのおかげで、猫を飼うための最終ハードルであるアレルギーが、消失したようなのだ。