第2話 黒猫ノアールのおかげで猫依存症に!?

 猫を触ってももう痒くない、というのは、知人の家の猫を触らせてもらって、おっかなびっくり膝の上で寝かせたりしているうちに何となく勘づいていた。しかしだからといって積極的に猫を飼おうと思ったわけではない。

 まず飼うとしたら犬だろう。けれどもうちにはヤギたちが当時は五頭いたし、いつの間にやら猪も一頭飼っていた。これは飼いたくて飼ったわけではなく、ヤギ舎の大家さんが畑で捕まえて「置かせてくれ」と言われてそのまま様子を見るうちに大きく育っていった。そういえば猪ゴン子の糞尿の微細な分子も私は相当量吸い込んでいて、私の腸内フローラを豊かにしているのかもしれない。

 話を戻すと犬を飼ったら散歩に連れて行ってやらねばならない。留守の時にはヤギと猪の世話に加えて犬の散歩も、誰かに頼まなければならない。そもそも普段島にいるときもヤギの餌の確保のために草刈りや剪定に追われていたし、彼らの冬の餌のために草を干したり麦を植えたいし、やらねばならないことが無限にあったので、なかなか犬を飼う踏ん切りがつかなかった。そしてくどいようだが猫を飼うことは全く考えていなかった。

 そうこうしているうちに、猫の方からやってきた。黒猫は、最初にヤギ舎の大家さんの納屋に来て、にゃあにゃあにゃあと懸命に「ここに置いてください」と説明するように鳴いたんだそうだ。ノアールと名付けられて近隣一帯をのし歩くようになり、ヤギ舎の大家さんの葡萄畑を経由して、少し離れた私の家にも来るようになった。

 確か最初は大家さんが抱いて連れてきて自慢されたのだが、すぐに走って逃げられた。大家さんと二人きりの時には可愛く懐いているのを動画で見せつけられ、ちょっと羨ましくなり、その後道端で見かけるたびに煮干しなどをあげてなんとなく距離を縮めていき、うちにも遊びに来てくれるようになった。その頃にはキャットフードも買って与えるようになった。家にあげるかどうかはちょっと迷ったのだが、大家さんによると全く悪さをしないとのことだったので、恐る恐る出入りしてもらうことにした。大家さんは平日の昼間は島にいないので、昼ごはんと昼寝は私の家を利用してやろうと思ってくれたようだ。

 確かにノアールは家の中で爪研ぎすらしなかった。雄で去勢もしていなかったのに、室内でおしっこを振りかけることもしなかった。静かに上品にするりと入ってきて、フードを食べて、昼寝をして、出ていく。走り回ることもないし、カーテンに戯れてビリビリに破いたりもしない。家の中がとっ散らかっているので、この行儀の良さは実にありがたかった。触ると崩れてしまう書類の山など、触らないでほしい場所がわかっているかのように、決して近づかないでくれた。

 間近で寝そべっているのを眺めたり、撫でたり、フードを食べさせたりしてみると、とてつもなく愛しい。なんだろう、犬とも違うしもちろんヤギとも全然違う。ヤギと一番違うのは、なんといっても家の中でくつろいでくれたり、一緒に布団に入って寝たりできることだ。美味しそう、気持ちよさそうな表情を見るたびに嬉しさが込み上げる。友達の家で触らせてもらうのでは味わえなかった可愛さに、夢中になった。彼が自分の意思で来てくれて、ソファや押し入れの中で寛いでくれるのが、猛烈に嬉しかった。

 とはいえ、ノアールはあくまでも大家さんが一番なのであった。私の家には大家さんと会えない時間帯に暇つぶしにきているだけ。しかも複雑なのだが大家さんはノアールを自分の猫としながらも、「野良猫」として扱っていて獣医に連れて行かない。ノアールが一番寝泊まりしているのも納屋なのだ。納屋に置かれたフレコンバッグの中に入り、使い古しの果実袋に埋もれて寝るのがお気に入りなのだった。冷暖房が必要な季節だけ、うちで寝泊まりすることを選ぶ。

 家の中では何も悪さをしないノアールだが、なぜか近隣の家の中で一番ピカピカに手入れされた黒い車に寝そべり爪を立てているらしい。大家さんのところに苦情が入ったが、「納屋に出るネズミを取ってもらうのに餌をやっているけど、野良猫だから」と言って取り合わなかった。そ、そうか。そういう躱し方もありなのか......?

 ノアールについてもう一点、どうにもモヤモヤすることがあった。それは、私に対しては徹底的に高額な餌を要求し続けたことだ。安いフードを喜んで食べていたのは最初だけで、じわりじわりと食べなくなっていき、心配してお高いフードにすると食べる。刺身なども喜んで食べる。高いフードを買い続けられるほどお金持ちでもないので、魚のアラを買ってきて炊いてあげたり、色々苦心して食べさせていた。しかし程なくして大家さんのところでは安いドッグフードを喜んで食べ続けていることが発覚し、愕然とした。ひ、酷すぎないか?? 誰に対しても一貫して高い餌を要求するのならまだ納得もできよう。まるで太客と本命彼女を使い分けるホストのようではないか。

 モヤモヤしながらも、ノアールの可愛さに屈服して中途半端な付き合いが一年半ほど続いただろうか。ノアールは少しずつフードを食べられなくなっていった。口内炎ができているようだ。これはなんらかの病気にかかっているみたいですよと大家さんに何度も言ったのだけど、彼は病院に連れて行こうとはしない。

 散々迷って取り寄せられる市販薬などを与えたりして一時的に回復してくれたものの、まもなくほとんど食べなくなってしまい、ガリガリに痩せてしまった。

 季節は冬で寒かったこともあり、私の家で寝るようにはなってくれたのだが、朝起きるとヨロヨロしながらも外に出たいと玄関の三和土に降りていく。ドアを開けると猪ゴン子のご飯が入った蓋付きケースの上にのぼり、日向ぼっこ。元気だった時からお気に入りの場所だ。

 太陽が当たらなくなるとケースから降りて向かいの家に移動して柚子の木の下でまた日向ぼっこ。ハラハラしながら部屋の窓を開けて見守る。そのあとは必ず葡萄のハウスに向かって歩いて行く。

 夏にはハウスの中で葡萄の木に登り、大家さんが剪定したり収穫するのを見守ってきた場所だ。彼のもっとも好きな場所なのだろう。お気に入りの落ち葉の吹き溜まりの上で丸くなって眠り、しばらくすると向かいの納屋に入って行く。もう体力的にはギリギリなのはわかっていたけれど、せめてノアールがしたいようにさせてやるしかなかった。日が傾く頃には迎えにいって抱いて連れ帰り、暖かい家の中で寝かせる。それには抵抗しなかった。一メートルほどの段差をいくつか登らねばならないので自力では帰ってくることはおそらく難しくなってきていたし、途中でカラスやたぬきに襲われたらもう戦うこともできない。多分食べられてしまう。それは避けたい。

 無理矢理獣医に連れて行くべきだったのだろうか。何度も何度も本当に禿げるほど考えたけれど、結局そのまま見守ることにした。おそらくは予防接種をしていなかったために、猫エイズなどの免疫性の疾患にかかっていたのではないかと思う。どこまで医療のお世話になるべきなのか、人間も含めてだが、ここが境界という一線は、あるようでない。誰かが決めてくれたら楽なのだけど、そうも行かない。人間の場合は本人の希望が一応優先されるようになっているけれど、動物の場合は希望を聞くこともできない。

 大金を払って少しでも長く生かそうとすることが、本当に良いことなのだろうか。自分自身が死にいたる病気になったところで延命どころか先端医療すら望んでいないのに。それでも一日でも長く一緒にいたいと思う気持ちは、ものすごくわかるし、私にもある。一体どこでどの時点でその気持ちを手放すべきなのか。

 小豆島でヤギを飼っていると、近隣にヤギを診てくださる獣医がいない。なにかあったときには諦めなくてはならない可能性を常に頭に置きながら、十年が経った。やってあげられる唯一の医療行為は駆虫薬イベルメクチンを投与してやることだけなのだ。なるべく身体に良いものをと、餌も漢方効果のあるヨモギや枇杷の葉をあげるなど気遣ってきたけれど、それでも十年元気に生きてくれているのは、奇跡のようだとも思っている。

 一方で猫は、犬と共に家族として飼う、いやもう飼うと言う動詞もそぐわない、一緒に暮らす人が多いために医療が高度に発達している。さまざまな病気を治すことができるようになった。とはいえ国民ではないので保険制度もないので高額な治療費が必要となる。

 ノアールは柔らかいチュールもミルクもほとんど受け付けなくなり、水だけ飲む状態となってからも一ヶ月以上生きた。年を越すことは無理だろうと思っていたけれど、新年も迎えることができた。ノアールはヨレヨレになっても相変わらず家から出たがり、玄関前で日向ぼっこをした後には向かいの家の柚子の木の下で佇み、葡萄畑に行き、段差も登れないのに納屋に行きたがったので連れていっては迎えに行った。ノアールがやろうとすることはできるだけ叶えてやりたかった。

 三が日が開ける頃に吐血、失禁していよいよ寝たきりになって、私が買い物に行っている間に部屋の中で亡くなっていたのだが、その時も外に出ようとドアに向かって這い進んでいた。

 家の中で死なせたことは、私のエゴなのかもしれない。けれども外に出たまま死んでしまって、何かに喰われて死体すら回収できなかったらと思うと、とてもじゃないけど耐えられそうになかった。

 猫は、その愛らしさで私を脆くしてしまう。あまりにも簡単に。恐ろしくなるほど。それがわかっていながら、やっぱりまた猫の可愛さを満喫したい。撫でたり吸ったりしたい。ああ、気がついたらまんまと猫依存症になってしまった。

猫1.jpeg