第3回 熊本葦北の子守唄

 ライブで訪れた隠岐島海士町で偶然知った「兎の耳の子守唄」との出会いを経て、私は各地に残る兎の耳の子守唄を調べるべく、区の中央図書館に向かった。そこには、柳原書店が刊行している「日本わらべ歌全集」が全巻そろっていた。都道府県別に「○○のわらべ歌」という形で、その土地の手まり歌、羽根つき歌、お手玉歌、手遊び歌といったわらべ歌から、自然や動植物、季節の歌、それから子守唄の楽譜が収録されていたのだ。私は、全国に分布する兎の耳の子守唄を片っ端から調べてコピーする一方で、近々ライブで訪れる熊本の歌を、本棚の脇に置かれた正方形のソファに座って、楽譜を見ながら気になるものを見つけていった。一曲ずつ心の中で歌い、必要があれば小さな鼻歌で口ずさんでいく中で、特に心の琴線に触れたのは、7番まである葦北郡の子守唄だった。

ねんねしなされ
おやすみなされ
親のすみよにゃまだはやか

ねんねした子のかわいらっさもぞさ
おきて泣く子の面にくさ

つらのにっかったろ
うちこれておくれ
親にゃこき死んだと言うておくれ

「ねんねしなされ」で始まる子守唄はいくつもある。「寝させ歌」の典型的な形でもある。「親のすみよ」の「すみ」は「済み」だろうか。親が休むにはまだ早い、休めないまま子どもの寝かしつけは続く。寝た子はかわいい、寝ない子は憎い、という対比はよく見かけるもので子守唄としての目新しさはない。いきなり平手打ち食らうような衝撃を受けるのは、3番だ。泣き止まぬ赤ん坊に対して、私の面が憎いんだろう、殺しとくれと歌うのだ。実際赤ん坊を脅したり憎しみをぶつける歌というのは少なくない。

ねんねん、ころころ、ねんころや、
寝ないと鼠に引かれんべ
おきると夜鷹にさらわれる (山形)

ねんね、ねんねよ
ねる子はかわいい、
面のにくい子はまないたにのせて
四万十川へちょいと流す   (高知)

泣くな泣くなよ、泣く子はいらぬ
泣けば地獄の釜の中   (鹿児島)

 鼠や夜鷹など怖いもので脅すというのはまだかわいいほうで、川や地獄に送るという物騒なものも多い。しかし、葦北の子守唄は、守子である自分を殺せと歌う。泣く子の「不機嫌」を「憎しみ」として受け止める少女の姿がそこにはある。いくら泣きわめいても殺意を抱くことなど知らぬ赤ん坊に、「憎いだろう、殺しとくれ」というとき、それは、そのまま少女の赤ん坊への憎しみが反射して生まれた言葉といえる。自らを滅せと迫るほどの深い悲しみは、川へ流し、地獄へ送る子守唄の幾倍も強く聴く者に響いてくる。たとえ死んでも、実の親に届くのは死んだという便りだけだ。それさえ届かぬこともあったのではないだろうか。

俺(おど)まが死んだてちゃ誰が来て泣くど、裏の松山や蝉が鳴く
俺んが死んだ時ゃ道端や埋けろ、通る人ごち花あげろ
               (北原白秋編「日本伝承童謡集成 第一巻子守唄」より) 


 生のはかなさをすでに知る少女たちの、諦念覚えつつ抑えきれぬ感情の高ぶりが、熊本に伝わる二首の子守唄のフレーズにも表れている。
 しかし、4番からは子守の様相を離れ、詩の主題は恋になる。

わしとあなたは接ぎ穂のミカン
今はならねど
末はなる

 今は恋愛の実る時期ではない、と自らを慰める気分が伝わるよくできた比喩になっており、大人たちの恋の歌のフレーズが混じっているのかもしれない。
 江戸期に集められた民謡集「山家鳥虫歌」を参照すると、この「わしとあなた」型の恋の歌には

「わしとお前は子藪の小梅 なるも落つるも人知らぬ(丹後)」
「わしとお前さんはいろはにほへと やがてちりぬるお別れじゃ(三重)」

などが伝わるが、ここに出てくる接ぎ穂のミカンの比喩表現は、より洗練されている感がある。もう少し類歌を探してみると

「様とわしとは山吹育ち 花は咲けども実はならぬ」(愛知・田峰盆踊) 
「様とわしとは焼野の葛 蔓は切れても根は切れぬ」(土佐)機織唄?

のように、実と縁について歌う二首を見つけた。現世で結ばれなくても「根は切れぬ」、という縁を歌うフレーズが「末はなる」という言葉で、接ぎ穂のミカンに詠み込まれたものが葦北バージョンであるように思う。田峰盆踊のバージョンは新潟甚句にも類歌があり、土佐バージョンは機織歌とも言われる。子守唄や守子歌もジャンルを超えて盆踊り、甚句、労働歌などさまざまな類歌の影響が及んでいることが分かり面白い。続いて恋は掛井の水にたとえられる。

わしとあなたは掛井の水よ 
すまずにごらず
出ず入らず

 掛井とは、筧、懸樋とも書き、水を引き、地面の上を水平に運ぶものだ。竹やくりぬいた木で作られ、歴史的には田んぼに水を運ぶ灌漑用水に用いられてきた他、人家の屋根の雨水を下に落として地上で運ぶためのものでもあった。吉田兼好が徒然草の第十一段に

 木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、露おとなふものなし

と描写して以来、和歌の世界では世捨て人の心細さと共に詠まれてきた。冬になり山里の庵に流れる掛井の水が凍ったり枯葉に埋もれて「音」が途絶える様と「訪なふ」者がない寂しさとがかけられたからだ。その一方で、「にごりなきもとの心にまかせてぞかけひの水のきよきをもしる(続千載集・釈教・覚懐法師・九五九)」のように掛井の水の音に清浄を感じ、澄みわたる心を詠むものも存在する。(稲田利徳「懸樋の水音」『國語國文』2008・8)。
 しかし、葦北の歌で詠まれるのは、とどまることなく流れ、澄むこともにごることもない。思い寄せる人との間を温める時間もない、今世での縁の薄さへの歎きである。その意味では

「わしは谷水出ごとは出たが 岩に堰かれて落ち合はぬ(河内)」(伊豆碓挽歌、広島御島廻歌、愛媛雨乞踊歌などに類歌)
「何を歎くぞ川端柳 水の出ばなを歎くかや(河内)」(愛媛籾摺歌、田峰盆踊、鹿児島労作歌などに類歌)
「出ごと」「出ばな」はそれぞれ色恋の暗喩になるらしく、勢いのある水の流れとうまく実らない恋の行方を重ねる歌の系譜に連なるのだろう。
 つらい子守の合間に、今は結ばれなくても来世は一緒になるという期待をこめて恋人の面影を思い浮かべ「わしとあなた」と発声することがどれほど、彼女たちの心の慰めになったことだろう。それが悲恋の歌としても、子守の途中で恋の歌を歌うことは、今で言えば思春期前後の守子たちにとってほとんど必然だったように思う。

 6番からは自分の家のことや自分の幼いころの回想、昔を思う歌になっている。

おどんげ来てみゃ
天満づくし
さおじゃ届かぬ
見たばかり

おどんがこまんかときゃ
よしのに通た
よしのすすきばなびかせた 

「おどまかんじん」というフレーズが有名なように、「おど」というのは「俺」「私」である。柿がたわわに実る様を「天満づくし」と言った。さおを使っても届かなかった、小さい頃の実家での思い出、野原ですすきを靡かせた思い出を回想する少女。歌う今もまだ、大人になりきらぬ年端だろう。現代の感覚で言えば、回想などする年齢ではないが、労働力として他家へ奉公に出ている身には、とりわけ実家の親元にいられた幼児期が美しく懐かしく思い出されたことだろう。
 守子歌というのは、世界的に見ても珍しいのだという。世界の子守唄は母親の愛情を歌うものが圧倒的に多い。厳密に言えば日本の守子歌は労働歌であり、しかし、労働歌といってしまうにはあまりにはかない美しさをたたえているように思う。
 右田伊佐雄は「子守と子守歌」の中で、守子を「兄弟守子」「互助守子」「奉公守子」の三種に分類し、「兄弟守子」は世界にも見られるものとしている。また「互助守子」も農閑期などに共同体内での助け合いとして子どもたちを子守に利用しており、それほど悲惨な雰囲気はない。いわゆる「守子歌」らしい恨み節を生みだしていったのは、江戸中期ごろから広まった「奉公守子」たちだった。親元を離れ、奉公先で冷遇されながら、ひたすら子を背負い、背を赤ん坊の尿でぬらし、恋しい人を思い、親を思い、故郷を思いながら奉公明けを待ちわびた少女たち。彼女たちの嘆き歌は日本全国に分布するという。楽譜を通して遠い日の彼女たちの記憶が現在に残っていることは、本当に奇跡のようだ。
 
 この曲をライブで歌うと「寺尾さんあんな歌い方もできるんですね、民謡調というか」と言われる。意識してはいないのだが、メロディに引っ張られて出てくる声色というものがあるのだろう。今この歌を歌いながら、当の母親でさえ、一人目の子育ては泣きたくなる事もあったなあと思いかえす。私と彼女たちの思いが、時代を超えて、声帯でかすかに共鳴する瞬間が、もしかしたらあるのかもしれない。

2014年12月14日 東京ソノリウム(グランドピアノ)