第9回 生野の子守唄
ここ数年、風の神様のことが気になっているので、夏の終わりは各地の風鎮祭や風祭に出かける。全国の風の祭祀の中でも珍しく夜に火を灯す油万灯という風習を残すのが、兵庫宍粟の伊和神社だった。祭祀は8月26日。春に加古川で紅茶喫茶を営むKさんからライブの打診をいただいたとき、そのことを思い出して、前日の25日に加古川で歌わせてもらい、翌日風鎮祭を見に行くことにした。「わたしの好きなわらべうた」というアルバムの中で「生野の子守唄」を歌っていたこともあって、「紗穂さんを生野にお連れしたかったんですよ」と言ってくれたKさんが、夜に伊和神社を訪れる前の時間、生野行きをナビゲートしてくださることになった。
兵庫県は思っていたより大きい県だ。この大きさには、初代兵庫県知事を務めた伊藤博文の影響力が関係しているらしい。加古川から北へ向かう。江戸時代の地図でいえば、加古川を含む播磨地方の北部は但馬藩で、生野は播磨と但馬の境に位置する。
「生野峠を越えると文化が違うんですよ」
とKさん。生野に近づくと道路も山あいの谷を走るようになる。
但の南境に一邑あり。生野という。地勢幽岨なり。山をけずり、谷をうずめ、以って新道を通ずること三百余歩。これを下箒という。これ道なり。しばしば水のやぶる所となる。随修随壊。民常に以つて憂いとなる。
(石宮佳朗「生野の石碑」『一里塚』第11~14号合本、生野銀山史談会、平成25年9月)
明治23年に地元新町に建てられた「下箒修道碑」にはこのように刻まれている。新町は生野町から東に川を遡る上生野に至る途中にあった集落だ。谷に新道を作るも、度重なる水害の被害に人びとが苦労してきたことが分かる。
生野は銀山が有名で、開坑は1542年と言われるが、『延喜式』にも記述がある。すでに9世紀には銀が発見されていたらしい。銀以外にも大正時代からは銅や亜鉛も採り始め、今も三菱マテリアルが入って採掘が続いている。銀を産出したことで、生野にはさまざまな文化が流入したといわれるが、この地に伝わる民謡「見石木遣唄」は次のようなものだ。
栄えや栄え この御山 朝日とともに 輝きて
松は 常盤の 色変えず 黄金白金花咲かす
見石というのは、採掘した鉱石で特に立派なものを言い、これを山車に乗せて引く「見石曳き」は18世紀に始まったとされる。明治10年ごろまで続けられていたこの「見石曳き」の際に歌われた歌だという。「黄金白金」が花を咲かせるとは華やかさの極みだ。少し前に訪れた遠野の歌にも金山の存在を示す「花は何花 黄金花」という明るいフレーズが出てきたことを思い出す。その歌は花折り歌がベースになっていたが、石川・七尾の花折り歌のような物悲しさはなかった。炭鉱もそうだが、鉱山もまた、有毒のガスや地圧による崩落など危険と隣り合わせだ。石を砕いたときの粉塵を吸いこむことによる健康被害もあり、17世紀ごろの坑夫たちの平均寿命は20歳代だったとも言われる(衣畑怜子「朝来郡生野町の生活実態調査-行くの鉱山閉山後15年、生活構造と家庭経営の諸問題」『姫路短期大学研究報告』1991年)。50歳を昔の寿命としても半分ほどだ。それでも価値あるものを掘り出すプライドが歌を明るくするものか。
銀の枯渇や、昭和45年の「山はね」といわれる崩落事故、近くの円山川のカドミウム汚染などが問題となるなどで、昭和48年に閉山となったが、現在は生野銀山一帯の鉱山町が重要文化的景観とされたり、近代化産業遺産として認定されている。2012年にはユネスコの「プロジェクト未来遺産」に登録されたことも影響してか、観光客も多かった。
「ここですね」。車が止まった。生野ダムが眼下に広がる。このダムの底に上生野集落があった。「生野の子守唄」はこの上生野で歌われていた。
ねんねころいち 寝た子はかわいよ
起きて泣く子は 面憎いよ ホイヨ
守りはつらいもの 子に責められてよ
人に楽そに 思われてよ ホイヨ
ここはこないでも 生野は寒いよ
袷やりたや 足袋ょそえてよ ヨイヨ
この「生野の子守唄」を歌いながらも、わたしが不思議に思っていたのは、これが生野の歌なのだとしたら、「ここはこないでも 生野は寒いよ」の「ここ」とはどこなのだろう、ということだった。上生野も地名だけみれば生野の一部のようだが、判然としなかった。しかし、現地に立ってみると、生野と上生野は全く違う場所だった。ダム底になった上生野と違い、生野町は標高が高く「関西の軽井沢」とも呼ばれていた。一月の平均気温は0.8度だったという(「上生野 生野ダム水没地区民俗資料緊急調査報告書」『日本民俗調査報告書集成 近畿の民俗』昭和49年)。しかも上生野は「かみいくの」ではなく「こうじくの」と読むらしい。谷底の上生野から銀山で栄える生野の家々へ奉公に出た守子たちの歌だ。「袷やりたや 足袋ょそえてよ ヨイヨ」は守子たちが寒い生野で育つ背中の赤ん坊に歌ったものだろうか。上生野の守子たちが、生野までいかなければならず、離れ離れになってしまった守子、たとえば幼馴染の少女や妹などを思って「あの子は今頃寒い思いをしていないか」と歌った歌かもしれない。
近くに石碑があって読み始めると、心を揺さぶられてしばらく動けなかった。「懐郷碑」と彫られた碑には漢文調で次のように書いてあった。
四囲に青山を負い清流に臨むこの盆地に集落あり 本邑菅町魚ガ瀧を繁絡する上生野
即ち是なり 祖先墳塋の地を傳承して其歴史一千年を超ゆ 八幡の神徳法道禅林の佛果を享けて和合す 諸作亦豊饒邑民而うして安住せり 適然西播地帯に係る要水源を此地に選定す 邑民この公共の大義に順應して克く協力以て一大堰堤築造に先ち全戸挙げて此地を離る 而して郷土は遂に碧潭と化して再び還らず 冀くは其使命を発揮し更に山紫水明の勝景に依り以て町発展の先駆たらん事を さもあらばあれ眼下に此変容を眺望する時洵に懐郷の感禁じ難きものあり 邑民相圖って此處に一碑を建立して思望の不滅を後代に遺さんとす
墳塋とは墓のことだ。先祖が眠る土地を捨て、村人は「公共の大儀」に村をあげて協力した。しかしふるさとは青い水の底だ。願わくばダムとしてその使命を果たし、美しい風景とともに町の発展の先駆となってほしい―――。本来ならばここで碑文が終わってもおかしくはない。けれど文章は続くのだ。公共への協力、それはそれで仕方がないことだが、眼下の変容をみるとき、懐郷の念を禁じえない。村民はここに碑を建て、不滅の思いを遺す。碑の最後には「昭和45年4月11日 生野ダム対策協議会」とある。「公共の大義に順應して克く協力」するという結果に至るまでが、平坦な道のりでなかったことは「生野ダム対策協議会」という名称からも、「思望の不滅」という強い言葉からも想像がつく。
地元には、当然ながら住みなれた土地を離れたくないという強い感情もあり、当初はこのダム計画に対し「他に建設地を探して欲しい」という意見が多くありました。しかし航空測量の結果、計画貯水量を満たすためには上生野地区の集水面積がどうしても必要とされて、昭和39年(1964)に県から将来ダムサイトとなる鷹巣橋から馬淵貯水池(鉱業所ダム)付近の地質ボーリング調査について申し入れがありました。
地元はこれに対しても拒否の意向を示したのですが、翌40年(1965)にはすべてのボーリング調査が完了し、ダム建設に問題がないことが判明、県から建設工事の正式申し入れがあり、これに対し地元では「ダム建設反対期成同盟」を結成。役員たちは全国のダム建設地を訪れて勉強を重ねました。
(『生野町116年のあゆみ 1889-2005』2005年)
それでも最後は県知事までが説得に出向き、ダム計画は遂行された。町の歴史を振り返る正式な記念誌の中にこれだけ逐一、反対の意思があった経過を書き込んだところに、時が経ってもなおすっきりと割り切れない、上生野の人びとの気持ちが伝わる。碑文の「さもあらばあれ」から続く一文「眼下に此変容を眺望する時洵に懐郷の感禁じ難きものあり」に、あきらめども消えることのない悲しみが、切実に伝わってくる気がした。
「そういえば昔来たんだ、それであそこの島まで渡って」
ダムの真ん中には小島があってその上に水神さまが祀られているそうだ。小島に渡るためのボート乗り場も眼下に見えた。Kさんは奥さんと若いころにこの場所にあそびに来たことを思い出したようだった。そういう、忘れていたことをふと思い出す瞬間に立ち会えることはなんだかうれしい。大事な記憶というほどではないけれど、さりげなく平和な思い出。Kさんご夫妻は、私の知るご夫婦の中でも特に素晴らしく映るお二人なので余計にうれしかった。人の中にふと蘇る記憶、普段は忘れている思い出。その思い出が引き出される瞬間をいつも尊く思う。
『播磨国風土記』は、奈良時代初期に編纂され、記紀以前のことも書かれていると言われる風土記だが、この中の神前郡の項に次のような記述がある。
生野と号くる所以は、昔、此処に荒ぶる神ありて、往来の人を半ば殺しき。此に由りて、死野と号けき。以後、品太の天皇、勅りたまひしく、「此は悪しき名なり」とのりたまひて、改めて生野と為せり。
品太天皇とは4世紀から5世紀にかけて存在したとされる応神天皇のことで、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)とも表記される。生野は「荒ぶる神」が通行人の半分を殺した土地だったがこの天皇が、死野というのはあんまりだから、生野にしようと地名を変えたという内容だ。人を半分殺してしまう神の記述については、風土記の揖保郡の項に似たようなものがあり、こちらは神尾山にいる神が往来の人を遮り「半ば死に、半ば生き」たとなっている。
生野が「死野」とされた原因について、稲葉幹雄はこの地に鍛冶技術を持った渡来系の民がいた存在を示す。そして、刀剣が破壊をもたらすものであると同時に、生産をもたらすこと、鍛冶技術自体もまた豊穣や生産向上を約束しつつ、大量の木材を必要としたり金属精錬が川や土地を汚染するという鍛冶の両義性が、人の半分を殺すという記述に現れているのではないかと指摘している(「『播磨國風土記』と鉄・女神・出雲」『上越教育大学国語研究』2017)。
新町に建てられた「下箒修道碑」の話を先に書いたが、このそばには下箒の危険な川沿いの道で遭難した先人を弔う供養塔もある。たびたび農作物も水害にあう土地だった。本来遊水地にすべき場所だが、谷の狭さでそこに作物を作るから、水をもろに受ける。田畑としては何度も「死野」のようになったろうとも思われるし、昔はもっと水量が多く、道も十分でなければ人命もたびたび失われたのではないか。ダムとなった後も浮かぶ小島に水神を祀っているのはそんな神への恐れが現れているようにも思う。いずれにせよ、生野は死野、過酷な地であった。
ねんねころいち 子が泣きゃ去ぬるよ
去ぬりゃなお泣く 親責めるよ ホイヨ
わしは行きたい あの山越えてよ
杉や檜が 親のよで ホイヨ
向こうの山見りゃ 去にとてならぬよ
松や檜が 親のよでよ ホイヨ
上生野がダムの底に沈む前に、雪の日も酷暑の日も学者たちは一軒一軒回って調査を続けたという。その集大成が『日本民俗調査報告書集成 近畿の民俗 兵庫県編』に収録されている。これによれば、上生野は耕地に乏しく山林で生計を立てていたこと、特に生野銀山に欠かせない木炭の供給地として早くから貨幣経済が入り、交通不便な場所ではあれ、外からの文化も流入していたことなどを調査団長の柴田実が書き残している。普通山村は棚田や段々畑など斜面を利用するが、上生野の場合は、集落は全て川そばの低地に集中していたため、山には松、檜、杉が植えられているに過ぎなかった。
「五木の子守唄」でしられる五木村もまた、そこで歌が生まれたのではなく、彼女たちが奉公に出た、谷を降りた球磨郡の相良や人吉方面で生まれたとされる(松永伍一『日本子守唄 民俗学的アプローチ』)。生野の子守唄の中でもとりわけ哀愁を感じるフレーズは、山の木々が親に見えるほど故郷が恋しい、という山上の生野を見上げた守子たちのやまぬ思いから生まれたのだ。
アルバムでは、あだち麗三郎が叫びのような熱いサックスをいれてくれている。