【今週はこれを読め! SF編】アンドロイドは借金完済の夢を見るか?

文=牧眞司

 オリジナル・アンソロジー《NOVA》に断続的に発表されていた宮内悠介の人気シリーズが、書き下ろしを加えて一冊にまとまった。待ちわびていたファンも多いだろう。

『スペース金融道』ってタイトル、もう聞いただけでこりゃヤバいねーと思うが、読むとその予想をはるかに超えてヤバい!

「バクテリアだろうとエイリアンだろうと、返済さえしてくれるなら融資する。そのかわり高い利子をいただきます」が方針の新星金融。光合成ができるのだから返済も可能だろうと植物に貸しつけしたことさえある。どういう理屈だ。

 語り手のぼくとその上司ユーセフは、二番街(太陽系外ではじめて植民された惑星)支店のコンビである。取りたてのためなら宇宙だろうと深海だろうと、核融合炉内だろうと零下一九〇度の惑星だと赴く。たとえ、そのためのコストが利息を大きく上回ろうとひるみはしない。このシノギは舐められたら終わりなのだ。

 新星金融のメイン顧客はアンドロイドだ。アンドロイドに対して社会的な差別が根強くあって、大手業者は彼らになかなか貸しつけをしない。そこを新星金融が拾っていく。もちろん、優良な債務者ばかりではない。ぼくとユーセフは返済がこげついた相手を追い、いかなる手段を講じても利息を入れさせる。ときには自殺を阻止することも、職を斡旋することもあるが、もちろんひと助けなどではなくきっちり回収するためだ。

 ぼくの悩みはあの手この手で逃げ隠れする債務者ではない。粗野で暴力的な上司ユーセフだ。この男ふだんはテキトーなのに、たまに大得点をあげて挽回する。その際かなりムチャをする。そのシワ寄せがことごとくぼくへふりかかってくるのだ。最悪なユーセフだが、じつは前職は量子金融工学の研究者だった。そのころに取り組んでいたのは多宇宙ポートフォリオの分野で、簡単にいえば先物市場で相場が上がる宇宙と下がる宇宙の両方に投資してリスクをヘッジする手法だ。しかし、量子金融工学が原因といわれる惑星規模の金融破綻が起こり、ユーセフは野にくだり、職を転々としたあげく取りたて稼業に身をやつすことになった。

 多宇宙ポートフォリオとはいかにもうさんくさいが、じつはユーセフの理論そのものに問題があったのではなく、誰かが奇想天外な方法でシステムの穴をついたのだ。その背後には歴史的な思惑が働いていたことが、のちのちわかる。そんなふうに過去の因縁が現在のストーリーに絡んでくるのも、この連作の面白さだ。

 そのいっぽう、毎回毎回おもにユーセフの勝手な都合にふりまわされて、ぼくが酷い目に遭うのも(非常にカワイソーだが)と妙にオカシイ。読みながら「またかよ!」とツッコミたくなる。たとえば第三篇「スペース蜃気楼」では、ぼくはのっけから絶体絶命の状況に陥っている。ポーカーのひりつく勝負。チップは金銭ではなく臓器との換算だ。

 腎臓は十枚のうち五枚を使ってしまったし、脾臓や胃に至ってはすでに一枚もない。
 膵臓は九割を切り取っても機能するとユーセフが言うので、十枚のうち九枚を賭けた。いまになって話の信憑性が気になってきたが、確認したところで膵臓が戻るでもない。

 ちなみにこの時代再生医療も臓器移植も進歩しているが、そんな高価なものマチ金のぺいぺいに購えるはずもない。

 しかし、借金の取りたてにいったはずが、めぐりめぐって臓器ポーカーをやるはめになっている。宮内悠介は抜群のストーリーテリングでどんどん物語を転がす。しかも、かならず複数のプロットを組みあわせている。たとえば「スペース蜃気楼」では、学術論文がねずみ算式に書き換えられる改竄テロ事件の真相究明と、軌道上の宇宙船に設けられたカジノ場からの脱出劇(シャトルのチケット代を手に入れなければ帰還できない)とがまったく別々の筋道で進むのだが、クライマックスに至って思わぬかたちで結びつく。

『スペース金融道』の基調はテンポの良いユーモアSFだが、設定の背後にはポストヒューマン(あるいはシンギュラリティ)のヴィジョンが立ちあがることも見逃せない。

 先述したように、新星金融のメイン顧客はアンドロイドだ。彼らは社会的マイノリティでありその存在そのものが批評性を発揮するという文化論的解釈ももちろん可能だが、ここはSFの文脈で明示的なアイデアを見てみよう。連作の五話すべてでかならず言及されているのが、アンドロイドが人間にとって脅威とならないようその行動を規制する「新三原則」である。

第一条 人格はスタンドアロンでなければならない

第二条 経験主義を重視しなければならない

第三条 グローバルな外部ネットワークにアクセスしてはならない

 第一条は人格の複製や転写を禁じるもので、第三条は知識の面で制限するためだ。

 第二条は文面からはちょっとわかりにくいが、論理的厳密で行動を決定するのではなく、過去の経験に基づく判断を加えよということだ。たとえば、黒猫を見たその日に解雇された。黒猫と解雇のあいだには論理的なつながりはないが、経験を重視すれば「黒猫は不吉の予兆」と見なせる。いっけんバカバカしく見えるかもしれないが、人間はこうした経験主義をさまざまなレベルで採っている。世界の物語化といってもよい。アンドロイドを人間っぽくするために、この第二条が必要なのだ。 

「新三原則」はいうまでもなく、アイザック・アシモフが『われはロボット』をはじめとする一連のシリーズで設定したルール「ロボット工学の三原則」を前提としている。SFを読みつけた読者にとってはいまさらだが、おさらいしておこう。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、第一条に反する場合はこのかぎりではない。

第三条 ロボットは第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない。

 ロボット工学三原則は、ロボットを人間にとって便利な道具(きつい言葉でいえば奴隷)として規定するものだった。そして三原則を採用するにせよしないにせよ、人間型ロボットを題材にするSFの多くが意識していたのは「ロボットはどこまで人間に近づけるか」だった。「人間はどこまでロボットに近いか」を問いかける作品もあるが、それは発想を裏返したにすぎない。

 しかし、『スペース金融道』はそうした既存のロボットSFとは別のパラダイムで動いている。新三原則は、ロボットを人間にとって了解可能な存在(ゆるい言葉でいえば隣人)にとどめておくための錨(いかり)なのだ。ロボットの進歩発展のグラフを描くとき、アシモフをはじめとする伝統的なSFは極限値を「人間になること」と考えた。宮内悠介はまったく逆で「人間と同じ」が始点となる。つまり、ほうっておけばロボットは、人間が到達不能な得体の知れないなにものかへと駆けのぼってしまう。

『スペース金融道』の各篇は、新三原則をゲームのルールのように用いて物語に知略的ミステリ的興趣をもたらす。そのいっぽうで、ときおり新三原則の向こうに広がる人間性を超えたヴィジョンを垣間見せる。アシモフが三原則を剛性的に運用したのに対し、宮内悠介は新三原則が出しぬかれることさえ折りこみずみだ。たとえば第三条でアクセス禁止されている「グローバルな外部ネットワーク」のかわりに、アンドロイドは独自にピア・トゥ・ピア型のネットワークを築いて共有している。暗黒網(ダーク・ウェブ)と呼ばれており、人間にはアクセス不能だ。アクセスできたとしても理解できない。いわば異界だ。これもストーリーにさまざまなかたちで絡んでくる。

 人間がつくったグローバルなネットワークとアンドロイドがつくった暗黒網のほか、本書で重要な意味をもつもうひとつのネットワーク「クラウド」がある。こちらはおそらく第二条の基盤と深く関わるもので、アンドロイドの知性の深層に組みこまれている。そのもとになったのは、人間が生成した無数の日記や会話、つぶやきなどの記録である。「クラウド」はアンドロイドの無意識であり、これによって人間らしいふるまいが可能となるのだ。面白いのは人間の無意識が精神分析学が提唱した仮説にすぎないのに、アンドロイドの無意識がシステムとして実装されている点だ。しかも、最終篇「スペース決算期」では、アンドロイド唯一の議員にして現大統領であるハシム・ゲベイェツが、その無意識を置き換えるべきと主張する。

 古いシステムの「クラウド」は現状と不整合で、それがアンドロイドの精神病増加の原因になっている。人間由来の「クラウド」に代わって、アンドロイドが築いている暗黒網を無意識に据えたらいい。しかし、それが実現したとき、アンドロイドはまったく人間が想像もつかない新しい生命体になるだろう。

 しかし、そんな生命体相手に取り立てなんかできるのだろうか? ユーセフはきっとこういうだろう。「おまえ、行け」

(牧眞司)

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