【今週はこれを読め! SF編】はかない記憶と傷つく身体のエロティシズム

文=牧眞司

  • 愛は、こぼれるqの音色 (TH Literature Series)
  • 『愛は、こぼれるqの音色 (TH Literature Series)』
    図子 慧
    書苑新社
    2,420円(税込)
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 オリジナルアンソロジー『NOVA 5』に発表した短篇SF「愛は、こぼれるqの音色」と、書き下ろしの長篇ミステリ『密室回路』を対にして収めた一冊。物語はそれぞれ独立しているが、設定は共通しており、テーマ面でも強い結びつきがある。

 両作品とも、合法と非合法の隙間を縫うような商売をしている不動産業者で下働きをしている二十代の青年、黒丸寧(くろまるねい)が主人公だ。そして、作中にはほとんど姿をあらわさないものの、圧倒的な存在感をまとって物語の背後に佇む、定法哲(じょうほうてつ)という医師がいる。彼らが生きるのは、流れる涙さえ冷たいノワールの世界だ。

 定法はかつて、脊髄損傷による四肢麻痺患者の神経移植手術後に、神経回路の修復を促すオートキュー・ニューロン・リカバリー・システム(ANRS)を開発した。もともとは医療用だが、このシステムがもっとも成果を収めたのはセクシャルな商業コンテンツの領域である。

 ANRSの中核をなすのは、脳内の情動野を刺激するトリガーq波群の波形測定だ。しかし、ANRSが基準としているサンプル波形が限られているため、コンテンツ制作業者が新しい性愛q波作品を収録する場合、目的にマッチするモデルを選ぶのが難しい。とくに「年齢」「性別」による選択性が顕著で、女性の場合、未成年のオーガスムはANRSでは採取不可能であり、成人モデルであってもマッチングする保証はない。

 物語の主人公、黒丸寧は、性愛q波作品のプロダクションとつきあいがあった。彼は、一階部分が水没した廃病院を仮住まいにしているのだが、同じ病棟の別なフロアを、プロダクションがスタジオとして使っているのだ。

 黒丸は不動産業者の仕事で、都和(とわ)カレンという中年女性と知りあう。入院しているあいだにマンションのローンを滞らせた未亡人だ。黒丸はカレンを立ち退かせるために送りこまれたのだが、なりゆきで彼女と関係を持ってしまう。ふたりのつながりはいささか倒錯的だ。

 カレンは亡くなった夫をいまだ愛しており、その欠落を埋めるように黒丸を求める。

 黒丸はカレンの優しさにふれ、「この女が自分の母親だったら」と考えるが、孤児である彼に具体的な母の想い出はない。しかし、カレンには、黒丸が幼少期に体験した、ある官能的な体験を思いおこさせるところがあった。

 社会の最底辺で、息をひそめるように感情を殺し、希望と呼べるなにかもなく、ひたすら孤独に生きているだけと思われた黒丸だが、物語の進行のなかで、尋常ならざる少年時代をすごしたことが明らかになる。そこに定法が深く関わっている。定法はANRSの開発をおこなってたのと同時期、幼い黒丸に行動療法を施していた。

 その因果は不思議なかたちで、現在へとめぐってくる。黒丸は、「記録を残したい」というカレンの願いを汲んで、彼女を性愛q波作品のモデルとしてプロダクションに紹介する。夫と黒丸しか知らなかったカレンだが、ANRSと理想的にマッチングするq波の波形を発する。このとき、黒丸は定法がANRSの基準となるデータを誰から採取したかに思い至るのだ。

 カレンをモデルにしたコンテンツは爆発的なDL数を記録するが、データ採取時に用いた薬物のため、彼女の体調が大きく崩れてしまう。黒丸は彼女を労るが、一度味をしめたプロダクション関係者は強引な手段でカレンを再出演させようとする。それが悲劇の引きがねとなり、事態は破局へ突きすすんでいく。そして、黒丸を縛っていたタガが外れる。

「愛は、こぼれるqの音色」で織りなされた、黒丸のカレンに対する奇妙な思慕と、定法との抜きさしならぬ確執は、『密室回路』にも通奏低音のごとく響いている。こちらの物語は、画期的な屋外作業のロボット(のちに屋内用も)を開発し、莫大な財をなした発明家ガブリエル・ファインズが、その晩年に持てる資産をすべて注ぎこんで東京品川区にあるビルのワンフロアに設えた密室をめぐるミステリだ。

 この部屋には、ハイテクのセキュリティが施されており、うかつに侵入した者は閉じこめられてしまう。まるでトラップ屋敷だ。実際、正体不明の二人組の武装強盗が、忍びこんで死んだ。

 大きな謎を構成するために、きわめて人工的な----ほとんど現実離れした----建造物を用意する。本格ミステリでもしばしば見られる設定だが、『密室回路』がつくりものめいた知的ゲームに終始しないのは、登場人物たちの情念(強いトラウマ、もしくは身を焼くような妄執)が、しだいに明らかになっていくからだ。

 たとえば、このトラップ屋敷を建造したファインズは、物語開幕の時点で故人なのだが、誘拐犯に妻を惨殺されたという過去があった。そのとき、ともに幼いひとり娘も誘拐されたのだが、彼女だけは救出される。

 娘の名はダニエル。成長した彼女は、父が残したトラップ屋敷の奥にある金庫の中身を知ろうと、この屋敷を"解く"よう、日本の不動産業者に依頼する。現場の応援のために駆りだされたなかに、黒丸がいた。

 黒丸は、ダニエルの記憶に齟齬があること、また、彼女が自分の感情のスイッチを切りかえられることに気づく。それは黒丸が、定法に施された行動療法と同じものだ。トラップ屋敷の謎を解きあかすのは、とりもなおさずファインズとダニエルが意識の奥底に隠した秘密を引きずりだすことであり、黒丸自身の過去の傷にふれることでもあった。

 密室は物理的な空間だけとは限らない。

(牧眞司)

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