【今週はこれを読め! エンタメ編】文学への敬愛に満ちた『太宰治の辞書』

文=松井ゆかり

「松井ゆかりが選ぶ"性別を知って驚いた作家"」は、乾くるみ氏が1位で相沢沙呼氏が僅差の2位だ(いずれも男性作家)。しかしながら、もし本好きの人々に大々的に投票を募ったとしたら、ダントツ1位は本書の著者である北村薫氏ではないだろうか。一方で、以前恩田陸氏がインタビューか何かで述べておられたように、「『北村薫は女性』というのが大方の予想だったけれど、こんなにピュアな女の子を描くのは男に違いないと思っていた(実際の記事が手元にないため、正確な引用でなくて申し訳ありません)」という興味深い意見もあるが(ちなみに私自身は、北村作品を初めて読んだときにはすでに男性だということを知っていたので驚きはなし。そういえば恩田さんも性別不詳なお名前ですね)。

 さて、本書は「円紫さんと《私》」シリーズの最新作、1998年に『朝霧』(現在創元推理文庫)が刊行されて以来の新刊だ。第1作『空飛ぶ馬』(同)の初登場時には大学生だった《私》が、いまや中学生の子を持つおかあさんに! ...と、しみじみしてしまうが、このシリーズについてまったくご存じない方もおられるだろう。ミステリー小説における「日常の謎」というジャンルの創始者とも言われているのが北村氏。『空飛ぶ馬』はまさにパイオニア的作品だ。文学好きの可憐なヒロインである《私》(いまだ姓も名も秘されたまま)と、博覧強記で温かい人柄の落語家・円紫さんは、同じ大学の後輩と先輩。同じ教授の教え子同士という縁で出会ったふたりは、ささやかながら気にかかってしかたないさまざまな謎を解いていく(主に、《私》の提示する疑問に対して円紫さんが的確なヒントを示すことによって解決へ、という形で)。

 私などは《私》や円紫さんが出てきてくれるだけでありがたいと思ってしまうが、ネットの反応を見ると(その多くは好意的であるものの)「文芸評論のようで、《私》や円紫さんが主人公である必要性を感じない」というような内容への批判めいたものから「学生でなくなった《私》の話には興味がわかない」といったキャラクターについての不満らしきものまで、否定的な意見がけっこうあって驚いた。正直私も『空飛ぶ馬』などの日常の謎系ミステリーをまた読みたいなという気持ちは大いにあるけれども(本書のような文学寄りの話と紛う方なきミステリーを交互に書いていただけたらこんなにありがたいことはありません)。

 本書には3つの作品が収められており、そのうち最初の「花火」では芥川作品が取り上げられているが、続く2作品「女生徒」「太宰治の辞書」は太宰作品が題材に。今年は没後60年・生誕100年に当たるせいか、このところ太宰治がクローズアップされている気がする。年末に出た『ビブリア古書堂の事件手帖6 〜栞子さんと巡るさだめ〜』(メディアワークス文庫)もそうだったし。表題作は文字通り太宰治の辞書に関する謎の話。最終話でやっと現れた円紫さん(まさに真打ち登場!)、「花火」「女生徒」での《私》の体験談に耳を傾けた後、彼女にひとつの問題を出す。それが"太宰の短編「女生徒」に出てくる辞書はどういうものなのか"というものだ。私も何度も太宰の「女生徒」を読んでいるが、一度たりとも心に浮かんだことのない疑問である(自分が鈍いのは重々承知しているが、円紫さんの頭も回りすぎでは...)。優秀な後輩かつ有能な編集者である《私》が円紫さんからの宿題に取り組む様子は、ネットの意見にもあったように確かに近現代文学に関心のない読者にとってはやや退屈かもしれない。が、自分の知らなかったことを知りたいという好奇心にあふれている《私》の姿には変わらぬひたむきさが感じられて、私自身は改めて好感を持った。

 北村薫という作家はほんとうに愛されているんだなあと感じたのは、著者紹介の文章を見て。確かに著作の多い作家だが、この情報の詰め込みぶりときたら。また巻末の広告ページには芥川龍之介や太宰治らの著書が列挙してあり、この本まるごと一冊文学への敬愛に満ちている。個人的には、太宰治の短編で特に好きな3編である「きりぎりす」「女生徒」「待つ」についての言及がたくさんあってうれしかった!

(松井ゆかり)

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