【今週はこれを読め! エンタメ編】新しい一歩を踏み出すファンタジー『過ぎ去りし王国の城』

文=松井ゆかり

  • 過ぎ去りし王国の城
  • 『過ぎ去りし王国の城』
    宮部 みゆき
    KADOKAWA/角川書店
    3,124円(税込)
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 真っ先に目を奪われるのは、表紙だ。最近流行りのチョークアートというのか、黒板に緻密なお城の絵が描かれている。絵心に欠ける身からすれば、これだけうまく描けた絵なら黒板を外して持って帰りたい。それとも、消される運命にあるからよけいに心ひかれるのだろうか。

 本書の主人公である尾垣真が、ふとした出来心によって銀行で拾ってきてしまったのもこんな絵だったに違いない。真は中学3年生。何をやってもそこそこで目立たないタイプ。県立高校への推薦入学を早々に決めたため、卒業までは宙ぶらりんな状態だ。そんな心の隙間に入り込んで真の心を揺さぶった古城のスケッチ。周りが寝静まった夜、それに触れた瞬間信じられないことが起こり...!

 もしジャンル分けをするとしたら、本書はファンタジーに分類されるだろう。しかし読んでいる間胸に迫ってきたのは、異世界に入り込んだ高揚感や自分が描いたものになれるワクワク感ではなく(←ちょっとだけネタバレ。なんとアバターを描き込むことでこのスケッチの世界に入れるのだ。しかも、アバター描写の上手い下手がその世界での行動を左右するという画期的な設定!)、現実のつらさや厳しさだった。真は現状にさほどの不満は感じていない。もっと上の高校を狙おうという高望みもせず、友だちが少なく先輩や後輩のウケがいまひとつなこともあえて気にしないように過ごしているし、両親にも取り立てて不満はない。が、彼の仲間となったふたりは違う。ひとりは隣のクラスの城田珠美。真同様、(ただしずっとレベルの高い)県立高校への推薦入学が決まっている。さらには絵がうまい。その腕を見込んだ真が、スケッチに関する協力を依頼したことから親しくなった。しかし、女子の嫌われ者で入学直後からハブられている。もうひとりの仲間は有名な漫画家のアシスタントをしている佐々野一郎(何でも好き嫌いなしに食べるからあだ名は〈パクさん〉)。もちろん画力は一級品で、別ルートでスケッチの中に入り込んでいたところを真と城田に出くわした。母親を亡くして間もない。

 城田とパクさんは過去につらい経験があり、できることなら自分たちのいる世界を変えたいと思っている。その思いとスケッチがどう関係してくるのかは、ぜひ本を読んで確かめていただきたいが、心を打つのは彼らが決して自分勝手な気持ちで行動を起こすのではないからだ。周りにいるクラスメイトが敵ばかりに思えても、もっと違う自分になれたんじゃないかと後悔していても、誰かのために立ち上がり新しい一歩を踏み出すことができる。宮部作品には時にあり得ないほどクズみたいな登場人物が出てくることがあるが、そんな人間が存在する世の中でも自分の信じるところに従って生きていけばいいと示してくれるのだ。

 小説好きには大作が好きな人と小品が好きな人がいると思う(もちろん両方好きという人もいるが)。私もどちらも好きだが、あえて選ぶとすれば小品派かもしれない(村上春樹の『ノルウェイの森』には、プロトタイプともいえる「蛍」という短編がある。『ノルウェイの森』の大ヒットによって村上氏は押しも押されもせぬ大人気作家となったが、私は彼が「蛍」を改稿したことについて完全には納得していない。余談でした)。本書は著者の小説の中では小粒といっていいだろう(『模倣犯』『ブレイブ・ストーリー』『ソロモンの偽証』あたりとくらべたら)。しかし、短めの作品やスケール的にこぢんまりした作品が優れていないということにはまったくならない。例えば、短編「サボテンの花」などは大傑作だし。小品からの「もっと長めのものが読みたいなあ」も、大作からの「次は短編読んでみよう」も、どちらの希望にも十二分に添えるのが宮部みゆきという作家の素晴らしさ。ぜひさまざまなボリューム、さまざまなジャンルの宮部作品にトライしていただければと願ってやまない。

(松井ゆかり)

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