【今週はこれを読め! エンタメ編】屋根裏部屋の「ぼく」が伝える大切なこと〜吉田篤弘『雲と鉛筆』

文=松井ゆかり

  • 雲と鉛筆 (ちくまプリマー新書)
  • 『雲と鉛筆 (ちくまプリマー新書)』
    篤弘, 吉田
    筑摩書房
    748円(税込)
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 思えば、子どもの頃は鉛筆をよく使ったものだった。小学校に入学してしばらくは、2BかBの書き方鉛筆。筆圧が強かったため、よく右手の小指から手のひらの側面の部分を真っ黒にしていたことを思い出す。その後は図工や美術で4Bや6Bなどを使うこともあったけれども、一般的には鉛筆よりもシャープペンシルを使用する人の方が圧倒的多数ではないだろうか(ペーパーレスの時代、筆記具そのものを使わないという人も多いのかもしれないが)。

 なぜ「雲」と「鉛筆」なのか。「雲」や「鉛筆」については本文やあとがきで語られているので、ここでは触れずにおこうと思う。100ページちょっとの厚いとはいえない本である。吉田篤弘さんの心に染み入る言葉でお読みいただきたい。

 〈ちくまプリマ--新書〉という叢書から出ている本書は、創刊300冊目なのだそうだ(実は200冊目も、篤弘氏の著書『つむじ風食堂と僕』とのこと)。あとがきによれば、プリマ--新書の基本は、"子供たちにひとつだけ伝えたいと思うことを、原稿用紙100枚で書いたもの"ということらしい(ちなみに、すべてのプリマ--新書の装丁を手がけておられるのが、著者と夫人である吉田浩美氏のユニットであるクラフト・エヴィング商會)。確かに、「ああ、子どもの頃はこんな風に考えて暮らしていたよなあ」と思わせる内容である。自分が幼かったからということもあるけれど物事はもっとシンプルに見えたし、不自由があればできる範囲で工夫して、手や体を使って行動していた。現代においては、さまざまな電化製品などの性能の向上やコンピューターの普及によって、世の中はどんどん便利になった。そのことに対して否定的な気持ちはないし、実際に科学の恩恵を受けて生きている身であることは重々承知している。それでも、どんなにデジタル化が進んだとしても、鉛筆で絵を描くとき(あるいは字を書くときも)のちょっとした加減(本文ではまさに「手加減」と描写されている)や次々に移り変わる雲の様子に敏感でいることもまた、人間にとっては大切な感覚なのだと思う。

 本書の主人公は、小さな本棚がひとつあるだけの屋根裏部屋に住む「ぼく」。その部屋にあるのは他に、古びた寝台と、遠い街で買った子供用の机と椅子がひと組。もうひとつ、「ぼく」の父が遺した大きな旅行鞄があるが、ほとんど旅に出ないため自分が書いたものをその中にしまい込んでいる。お茶を飲むためには、「薬缶をぶらさげて部屋を出て、外の石階段を百八十段もおりて、薄暗い炊事場まで水を汲みにいかなくてはならない。さらには、その汲んだ水で湯をわかさなくてはならないし、当然ながら、重くて熱くなった危険な薬缶を謝って落とさないよう、そして自分自身もまた階段をのぼりそこねて転ばないよう、ところどころ崩れ落ちた百八十段の石階段を慎重にのぼって、屋根裏部屋に戻って来なくてはならない」ような生活をしている。仕事は、鉛筆工場で働いている(「ぼく」の姉は、「ぼく」が絵描きになればいいと思っていたらしく、弟の"工場で働きたい"という希望を聞いて「やんわりと反対した」頃もあったようだ。しかし、「ぼく」は生活に困らないほど自分の絵が売れるとは思っていなかったし、どんな仕事をしていても絵は描けると考えていた)。そして、絵を描く以上に、「雲と鉛筆」の関係について考えをめぐらすことの方が楽しいと感じている。

 「ぼく」という人物は、どうみても器用には生きられないタイプであろう。絵を描く以外には本を読むのも好きで(ますます素晴らしい!)、「すべての本は、子供たちのために書かれるべきだ」と思っている。いわゆる子ども向けの本の中には、子どもだましとしか言いようのないものもある一方で、大人も、いや、大人こそが読むべきものもたくさんある。大人と子どもは常に地続きのような関係であるわけで、子どもの頃どのように感じたか、どのように考えたかが大人になった自分を支えるものだ。子どもの頃の気持ちを思い出すことには、ノスタルジーにひたることを超えた意味があるのではないかと思う。

 人生において大切なことが押しつけがましくなく語られる本書、珠玉のフレーズを拾っていくだけでも心に響く読書体験になりそうだが、やはり全編を通して丁寧に読み進められることをおすすめする。まあ、それはどの篤弘作品(そしてクラフト・エヴィング商會の本)もそうなんだけど。

(松井ゆかり)

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