【今週はこれを読め! エンタメ編】逆境に立ち向かう75歳正子の奮闘記〜柚木麻子『マジカルグランマ』
文=松井ゆかり
私の目に映る祖母は完璧な人だった。97歳で亡くなった母方の祖母とは、私が結婚して実家を出るまでほぼずっと同居していた。とにかく優しい。よくないことをしたら注意はされたけれども怒鳴られたり叩かれたりしたことは一度もない。10代初めの頃に両親が相次いで亡くなった後は3人の弟妹たちの親代わりを務め、親戚からも聖母のような人と思われていた。学費が払えないので女学校には行かれなかったが、学校に通っていた頃は成績優秀なうえスポーツも得意でいつも級長だったそう。しかも美人で、上皇后陛下の御母堂の正田富美子さんと似ていると言われていた。...と、身内自慢も大概にしなければと思うが、おばあちゃん子の言うことなのでご勘弁いただけたらありがたい。しかし本書を読んでにわかに不安になってきた、私を含む周囲の人間は祖母に「マジカルグランマ」的な役割を押し付けていたのではないかと。
本書の主人公・浜田正子はそろそろ75歳になる元女優。親友だった陽子ちゃんにすすめられて受けに行ったオーディションをきっかけに、映画界入り。花形女優である北条紀子の妹分的なポジションに収まり、「尾上まり」の芸名で10年ほど脇役として活動した。しかし、「六〇年代の映画業界に蔓延していた女優や女性の裏方への性的なからかいやいたずらを、紀子ねえちゃんのようにさらりと笑ってかわすことも、仕方のないこと、と慣れることもできなかった」ため、映画監督・浜田壮太郎の求婚を受け入れてあっさりと引退。しかしながら、家庭を顧みず女遊びの噂も絶えない夫との夫婦仲は芳しくなかった。離婚しても自活していけるようにと脇役専門のシニア俳優派遣事務所に入って旧姓の「柏葉正子」を名乗り活動している...というのが現状。
紀子ねえちゃんのアドバイスを受け入れて、思い切って白髪を強調するようにしたところ、これが大当たり。徐々に仕事が増えて事務所の出世頭に。さらには日本一有名な携帯電話会社のCMにも抜擢され、「ちえこおばあちゃん」として絶大な人気を獲得した。しかし、好事魔多し。この4年間まったく口もきいていなかった(どうしても連絡が必要なときはLINEで)壮太郎が、離れで死後5日の状態で発見されたことから、正子の行く手に暗雲が立ちこめる。マスコミの攻勢をなんとか振り切ることができたのは、壮太郎に心酔し「なにか困ったことがあったら、東京の僕の家に来なさい」と声をかけられていた20歳の家出少女・田村杏奈が現れたおかげで...。
一見すると軽妙なコメディ。実際読んでみても、随所で笑えて元気づけられる小説。世間のイメージとはかなり異なる正子のガツガツぶりには、もっと早いうちに本性をあらわにしてコメディエンヌとして大成する道を進んでみたらよかったのにと思う。しかし、ただ愉快痛快な小説、というだけでこの作品を片づけてしまうわけにはいかない。本書には若き日の、いや、高齢者と言われる年齢になってからも正子が受けたセクハラやパワハラ、さらにはLGBTQに人種差別など、決して見過ごしてはならない問題の数々が提示されている。強者から弱者へ、というベクトルだけでなく、弱い者が自分よりさらに弱い者を攻撃することも珍しくないのだ。「マジカルグランマ」という言葉は、「ハリウッドで、白人を救済する為だけに存在する、魔法使いのようになんでもできる献身的な黒人キャラクター」を指す「マジカルニグロ」に由来している。正子が愛してやまない映画「風と共に去りぬ」に登場する黒人の乳母・マミーなどが、マジカルニグロの典型とされているようだ。マジカルグランマ、要するに「世間の求めるこうあるべきおばあちゃんに自分をはめこみ」「いつも優しくて、会えばお小遣いをたっぷりくれて、それでいて老いの醜さや賢しさを持たないキュートなおばあちゃん」を正子自身が演じていたわけで、それによって傷ついた人もいるのではないかと思い悩むようになる。
が、そこは我らが正子。迷いながらも力強く現状に立ち向かっていく。すべてのハラスメントや差別や偏見を1日にして排除することは難しい。まずは、そういったものが存在する現状を認めて、意識的になることから始めなければいけないと思う。誰かの押しつけのために他の誰かが忍耐を強いられるような世の中であってはならない。マジカルグランマならぬ「マジカル正子」、文字通りの意味で魔法のように魅力的な彼女に、そう教えられた気がする。
もちろんそれは、著者の柚木麻子さんが常に問題意識を持ち、エンターテインメント作品においてもしっかりとご自分の考えや思いを発信されていることの表れだろう。みんなが生きづらさをできるだけ感じずにすむ世の中にしていくためには、柚木作品でも丁寧に描かれてきた人と人との心の結びつき(特に女子同士の友情の描写には定評のあるところ)や相手の立場を思いやって考えられる姿勢が必要になってくると思う。私ももっと早く気づいて、祖母に「おばあちゃん、無理しなくていいんだよ」と声をかけられたらよかったと思う。せめて、祖母が孫たちに向けてくれた笑顔が心からのものであったことを願っている。
(松井ゆかり)