【今週はこれを読め! エンタメ編】心を揺さぶる至言の宝庫〜ジュンパ・ラヒリ『わたしのいるところ』
文=松井ゆかり
複数の人間が万事においてまったく同じ考え方や感じ方をすることはあり得ない。他者に対して大多数の人間は、「だいたい同じような考え方をするけど、こういう点については違う」か「ほとんど似たところはないけど、こういう面は共感できる」か「似通った部分もあれば、そうでない部分もある」かのいずれかの気持ちを持つものではないだろうか(「全否定」に当てはまる他者というのはそう多くない、はず)。
例えば先週当コーナーで取り上げた『掃除婦のための手引き書』(ルシア・ベルリン/講談社)には著者の人となりが色濃く反映された主人公が登場する。「ほとんど似たところはないけど〜」のカテゴリーに分類される主人公だったが、不思議と「共感できる」度合いがとても高く感じられたのが印象深かった。それはもちろん人間の中に内在する多様な性質を鮮やかに描き出すルシア・ベルリンという作家の力によるものなのだが、『わたしのいるところ』のジュンパ・ラヒリに対しても強く「共感」させられたのである。個人的にいえば、主人公に対してよりいっそう自分に近いものを感じた(地味女子なので)。
著者が本書において生み出した主人公が、どの程度ご本人に似ているのかは正直なところわからない。主人公の「わたし」は生まれ育った町でずっと暮らしている女性。固有名詞を極端に排した文章(主人公を含め、登場人物たちの名前は明らかにされない)から読み取れる情報は少ない。にもかかわらず、「わたし」の気持ちはダイレクトに読者に響いてくる。
この小説はイタリア語で書かれている(翻訳された文章を読んでいるわけだけど)。「わたし」はトラットリアやバールにいる。特に引っかかりなく読むなら、主人公はイタリア人女性だと想定するところだろう。とはいえ実際のところ、ジュンパ・ラヒリはカルカッタ出身の両親を持つベンガル系。ロンドンで生まれ、2歳で渡米して以来、彼女にとって英語は第二の母語であった(訳者によるあとがきには、ラヒリが英語を「継母」と表現している旨が紹介されている)。彼女が英語で創作活動をしている間はアメリカのインド系移民のことを書き続けていたが、2012年から約3年間ローマで暮らし(2018年秋からまた1年間ローマに滞在)、その経験をもとに綴ったエッセイ集『べつの言葉で』(新潮社)や本書などのイタリア語の著書を発表。以前の作品の主人公たちのように出自を意識する(あるいは読者に意識させる)様子は、「わたし」にはない。それがいいことか否か、そもそもいい悪いで語られるべきことかもわからないが(私はアメリカ時代のラヒリのことも好ましく思う)、ひとりの人間が"自分が自分であること"に向き合う姿がこれまでの作品以上に透徹した視点で描かれているように感じられた。
私が「わたし」に共感する点。倹約家なところ(「いつもいちばん安い洋服、メッセージカード、メニューの料理を選んでしまう」「商品を見るより先に値札をチェックしてしまったり、美術館で絵を眺めるより前にキャプションを読んでしまったり」)。貴重な本を貸してくれという無遠慮な友だちの夫に対して、「こいつには私の本を貸したくない」と思うところ。一方、私が「わたし」に賛同できない点。男性の趣味がよくない(なぜ友だちの夫であり、ランジェリーの店についてくるような男がいいのか)。その他、私の好き嫌いとは別に、琴線に触れる至言の宝庫のような小説だった。
最も心を揺さぶられた箇所を挙げる。「わたし」には別々に暮らす母親がいるが、彼女にはなぜ娘が同居したがらないかを理解できない。母親のことを、「わたし」はこう語っている。「わたしに愛着を感じているが、わたしの考え方には関心がない。その隔たりがわたしに本当の孤独を教えてくれる」。このくだりを読んで、頬を張られたような衝撃を感じた。家族関係の悩みの大部分は、このことが原因なのではないか。いっそ愛情がなかったら、話は簡単なのかもしれない。相手を思いやる気持ちは、たいていの家族間で共有されているものであるはずだ。それが自分の望むやり方とは限らないところに苦しみがあり、相手を切り捨てられない理由でもある。お互いにとってつらいことではあるが、それこそが家族という気もしている。"愛情がなかったら、話は簡単"とはいっても家族の間に確かに愛情が存在していたからこそ、幼い日の私たちは慈しんで育てられ、親たちもまた我が子の愛らしさや成長ぶりに支えられたに違いないのだから。
それにしても、大人になってから学んだ外国語で小説を書くなんてことをやってのける人もいるんだなあ。前述の『べつの言葉で』が刊行された際には多くの書評でラヒリのイタリア語に関して不完全さやぎこちなさを指摘されていたようだけれども、本書はほぼ完璧な文章で書かれているそう。実は私も『べつの言葉で』を2015年12月9日の当コーナーでご紹介しました。もちろんイタリア語の完成度については微塵も理解できていませんので、批判的な内容とは無縁の安心してお読みいただける内容になっています。よろしかったらバックナンバーをチェックなさってみてください。
(松井ゆかり)