【今週はこれを読め! エンタメ編】将棋盤を挟んだ少女と元棋士の対話〜尾﨑英子『竜になれ、馬になれ』

文=松井ゆかり

 これを題材にした本(漫画、映画、などなど)はスルーできない、というポイントは人それぞれであろう。私の場合は、「駅伝」と「将棋」。シーズンがだいたい秋〜冬場と決まっている駅伝と違って、将棋は一年中何かしらのタイトル戦やその予選・決勝リーグ的なものが途切れることなく行われている。大一番というときでなくても常にトレーニングや鍛錬を続けているのは同じだろうし、駅伝のように時期が集中していれば楽だなどとは決して思っていないが、成績が上位のプロ棋士ほど年間を通していくつものリーグ戦を同時進行で戦わなければならないとなると将棋ってほんとに過酷な世界だなと圧倒される。

 本書の物語の主要人物は小学6年生のハルと、彼女が放課後に通うようになった将棋カフェ「Hu・café」の店主・夕子。ふたりが知り合ったのは、夏休みが終わった始業式の日にいったんは出かけたものの塾へ行きたくなくて家に引き返そうとしていたハルが、「Hu・café」をのぞき込んでいたところを夕子に店内へ案内されたのがきっかけだった。学校で将棋部に入っているハルは、夕子と平手(ハンディなし)で将棋を指すことになり、食い下がったけれども負けてしまう。そのハルに、夕子は「大丈夫?」と言葉をかけた。こめかみを掻き続けているのを見て、「ずっと、掻いているから」と...。

 ハルには親友のコッシーにも言えない秘密がある。それは小児脱毛症がひどくなったため、この夏休み明けからウィッグをつけていることだ。夏場ということもあって耐えがたいかゆみ、しかしハルがつらそうにするとシングルマザーである母親のミチコが先に泣いてしまい自分は泣けなくなる憂鬱さ、そして友だちに隠しごとをしているという負い目のような気持ち。そういったさまざまなマイナス要素によって気が滅入る日々の中で、ハルにとって「Hu・café」は避難所のような存在になっていく。知り合ってしばらくの間ハルは知らなかったことだが、夕子は引退した女流棋士だった(最初の対局で手加減されたことは、その日家に帰ってから気づいた)。放課後の時間を夕子と過ごし、将棋盤を挟んで対話することで、ハルの心は確実に癒やされていく。

 印象的だったのが、夢を持つことの大切さが語られる部分だ。「夢なんてない。生活するだけで精いっぱいなんだよ」という読者もいるだろう。でもそういう人にこそこの小説を読んでほしい。「○○になりたい」と希望する職業を語るだけが夢ではない。「好きな仕事にはつけなかったけれど、家族で楽しく暮らしたい」「プロにはなれなくても、ずっと趣味として続けていきたい」という夢だってアリだと思う。女流棋士としてひたすらにやってきた夕子が、自分の心が求めるものに向き合い将棋を指す意味を問い直すことは、苦しいけれど必要な作業だったのだろう。

 本書の英語のタイトル(目次の裏ページに書かれている)は"GIRLS, BE AMBITIOUS"となっているようだ。とはいえ、もちろん「大志を抱け」という教えは少年にとっても必要なものだし、夕子が「盤上での戦術は、意外と現実にも役立つ」と語ったように誰が読んでも胸に響く心得が書かれている。「今はその手が将来的に役に立つかわからないけれど、後になって振り返ると、あれが有用な一手だったってことがある」「思い切って相手の懐に入ってみると、一気に状況が変わることってあって」「先を見通すことができるようになると、不思議と不安にならなくなる」といった心に染みるフレーズばかりなのだけれども、「相手が強いから負けるんじゃない。自分が弱いから負ける」という言葉にははっとさせられた。おそらく、一流と呼ばれる人たちはみんなこう考えて生きておられるのではないだろうか。相手によって左右されることのない強い心が自分の中にあれば、たとえ勝負で負けたり思うように行かないことがあったりしてもまた立ち上がれるに違いない。

 「どうして駒の動かし方も知らないのに、人が将棋を指してるとこ見続けられるの?」と聞かれることがあるが、これからは「将棋は人生と同じだから」と答えようかと思う(でもほんとは、自分でも指せたらもっと楽しいですよね)。

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