【今週はこれを読め! エンタメ編】他人に共感しない主人公の「しごと」〜寺地はるな『雨夜の星たち』

文=松井ゆかり

 私自身も小さい頃、本書の主人公である三葉雨音のように、他人の気持ちを察して行動するというのが苦手だった。だいぶ克服できたと自分でも意識するし、最近では周囲から気の回る人という印象を持たれるまでになった。しかし、と最近考える。"他人の気持ちを察するのが苦手"という性質は、果たして克服しなければならないような類いのことだったのだろうかと。

 三葉が現在携わっているのは、移動手段のない高齢者の通院の送迎やお見舞いの代行といった「しごと」。親戚に「ええとこ」と言われるような損害保険会社を辞めた後、アパートの家主である霧島に声をかけられて始めた。霧島は『傘』という喫茶店の傍ら、便利屋のような「しごと」も請け負っている。三葉が仕事を辞めたのは、同僚だった星崎くんが退職してすぐのこと。彼は「いじられキャラ」(苦手な言葉だ)と一般的に呼ばれるようなタイプ。三葉もまた後を追うように会社を辞めたのは、星崎くんがいなくなったら「つぎは自分かも」と考えたことが大きな要因だった。

 物語の冒頭は2020年6月、三葉は2週間に1度の頻度で病院への送迎を頼まれているセツ子さんを車に乗せて走っている。「しごと」の初回に必ず断りを入れる内容を、セツ子さんに初めて会ったときにも言った。「基本的には、あなたが『やってくれ』と言ったことだけをやります。『やらないでくれ』と言われたことはしないように細心の注意を払います。でもわたしがあなたがしてほしいことを察して行動することはありません。『普通はそうするでしょ』、というあいまいなルールに従って行動することもありません。だからそちらも『こうしてほしいけど、図々しいかしら』というような遠慮は一切不要です。こちらは料金をもらって動いてますので、無理なことは断りますが、断るのはあなたが嫌いだとかいうような感情的な理由ではありません。要望を聞いて、それは無理だと判断する根拠がある場合です」と。長くなったが、三葉の基本的なスタンスといえると思い、引用した。

 セツ子さんは三葉の事前通告(?)を聞いて、「あなた、おもしろいねえ」と笑い出したそうだ。しかしもちろん彼女のは好意的な部類の反応であって、「しごと」の依頼者の中には怒り出す人もいるという。三葉が継続的に担当している主な業務は、まずセツ子さんの通院の付き添い。それから、権藤さんという因縁の相手(三葉に対し、初対面のときに「ふん、女か」と一瞥し、車を降りるのに肩を貸した際にも胸を触ったりしてきた70代男性)が入院することになったので、その保証人的な役割や入院中のもろもろの雑事を引き受けること。その他、単発の依頼にも応えている。

 ある登場人物に「心がないの?」と聞かれて、「心はあります」と答える三葉。そう、いっそ心がないならもっと話は簡単なのだろう。誰にだって心はあって、でも心の動き方がそれぞれに違うだけ。傷つくことだってあるのだ。最も印象に残ったのは、三葉と家族たちとのエピソードだ。三葉は母との関係がうまくいっていない。母がつけた「雨音」という命名の由来を聞いて、翌日友人たちに「今日から名字で呼んでほしい」と伝えたのは、「母の思いがこもった名など足枷でしかない」と感じたから。私がいちばん気になったのは父の存在だが、描写はごく少ない。彼が妻と次女の不和をどう考えているのかを知りたかったけれど、答えは読み取れなかった。姉は...そういう気持ちだったのかと思った。人間は立場が違えば、受け止め方も違うということをまざまざと思い知らされる。

 人当たりがよく、気配りができて、気の利いた会話ができる。人間関係においては、そういうタイプの方がやっぱり好まれることは、これからも変わりないだろう。それでも、みんなが思い込みや偏見を捨てることができれば、生きづらさというものの大部分は解消されるのではないか。三葉のように他人に共感しなくてもいい。星崎くんのように消防訓練に真剣に取り組んでもいい。周囲が「個性は人それぞれ」と肯定的に受け止めることによって、冷やかしや揶揄といったものと無縁に生きることが可能になるなら、誰の心もずいぶん穏やかでいられるはずだ。一般的な成長小説とは少々趣が異なるし、他者からの十分な理解を得られたとはまだまだいえない部分もあるけれど、さまざまな人々との出会いを通じて三葉も確かに前に進むことができたに違いない。

 人間って難しい。それでも、"そんな自分でもいい"と共感し合える相手はどこかには存在していると信じている。残念ながらその相手と出会えなかったとしても、その人がそのままで存在していることそのものに意味がある。『雨夜の星たち』は、いや、寺地はるなさんの本はいつも私たちにそのことを知らせてくれていると思う。

(松井ゆかり)

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