【今週はこれを読め! エンタメ編】驚きに満ちた人生の物語〜藤谷治『ニコデモ』

文=松井ゆかり

 人に歴史あり。物語の大きな柱となるのは、聖書に登場する人物にちなんで名づけられた瀬名ニコデモ。「日本が戦争に勝っていたころ」、裕福な家庭に生まれた彼は、音楽を愛する青年に育ち、その美しさは「揉めごとの種になるほど」のものだった。父親はゆくゆくは事業を継がせようと、一人息子に仕事で関係のあるフランスへ留学をさせるつもりだった。いよいよ出国が間近となり、日本を離れる前に旅歩きをしようと、ニコデモは会津に降り立つ。そこで泊まった宿の主人から、ある相談を持ちかけられた。それは、"隣の筆屋はうちの遠縁。分家は小樽に行っていて、そこの12歳の息子だけを隣の本家で預かっている。しかし、このところ分家からの頼りが途絶えてしまった。分家の息子は自分も小樽に行きたいと言うのだが、こんな子どもをひとりで行かせるわけにもいかない。小樽行きの船に乗せられればその後はなんとかなるので、船が出航する新潟まで連れて行ってもらえないだろうか"というもの。

 新潟への道中で、分家の息子はある歌を歌った。それは「花よ、花咲けよ、花は花咲くもんだなし」という歌詞の、ニコデモが聴いたことのない種類の歌だった。その「目覚ましく美しい旋律」は、分家の息子が自分で作ったものだという。ようやく新潟に着いたものの、ニコデモは分家の息子とはぐれてしまった。探し疲れて、ニコデモは船着き場の積み荷の上で「花よ~」の歌を歌い始める。すると海上の雲の切れ目から光が射しこみ、「色とりどりの薄い衣を纏った十六人の女がゆっくりと近づいて来て、地上に降りて」きた。女のひとりはニコデモに、彼の音楽は天上に愛されたので願いは聞き届けられると告げる。そのかわりに、「みずからのために音楽をもちいてはなりません。自らの栄誉、利益、盛名のために音楽を奏でることはなりません」「誓えばあなたは、天上にあなたの座を得ることになりましょう」とも。ニコデモは誓い、分家の息子も戻ってきた。そこで知り合った西洋の女性に分家の息子を託し、彼女と一夜を過ごす。翌朝、離れがたいと取り乱す彼女・リリスと、互いの名前だけを名乗り合って別れる。そして彼も、フランスへと旅だった。

 その後語り手はかわって、分家の息子・鈴木正太郎は小樽に降り立っている。新潟にひけをとらないほどの大きな町で右往左往しつつも、父と弟が小樽から幌内に移ったことを突き止めた。同じ会津出身の人々の助けを得て幌内に到着し、なんとか探し出した父と弟の住まいに向かうと、小屋のような家から赤ん坊をおんぶした見知らぬ女性が現れる。人が変わったように暗い表情の父に当惑しつつも、大喜びの弟・亀次郎に救われる思いの正太郎。女性は「今度のかかさま」だという。その後、歳の離れた異母きょうだいが命の危機に瀕したとき、正太郎はあの歌を歌った。すると不思議なことに...。

 一方フランスに渡ったニコデモは、大学には通わず、名うての音楽家であるマダム・アンティヌッティに師事するように。彼女の策略により、ニコデモは誓いを破って五線紙に音符を書き並べる。だが、そこに書かれていたのはあの歌の楽譜だった。

 語り手がかわりながら、ニコデモと彼に関わりのある人々の人生が描かれる。どんな人間も、他者との関係を完全に排除することはできない。人嫌いでも、他人と関わりたくないと願っていても、みな誰かしらに助けられている。ニコデモは、「私は自分が、父にも母にも愛情を持っていないことに気がついたのです」と語った。そんな彼も、決してひとりでは生きられなかった。ニコデモや正太郎とその後の世代の登場人物たちがどんな運命をたどったのか、果たして彼らは再びめぐり会えるのか、ぜひお読みになって確かめていただきたいと思う。さまざまな人々が出会って別れて、こうやって時は流れていくのだなと思いを馳せるに違いない。

 藤谷治という作家の作品を読んでいるといつも、人生は驚きに満ちているものだと気づかされる。何の不思議もないような日々にみえても、さまざまな奇跡が重なり合って我々はここで生きているのだと。

(松井ゆかり)

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