【今週はこれを読め! ミステリー編】小説の暴力性を描く『念入りに殺された男』

文=杉江松恋

 暴力の小説であり、小説の暴力性についての物語でもある。

 エルザ・マルポ『念入りに殺された男』は、フランス・アンスニ生まれの作者が、第七作として発表した長篇だ。表紙裏に書かれた内容紹介を読むだけで、ああ、そうだ、こういう状況設定に凝った小説はフランス・ミステリーのお家芸だったな、と懐かしさがこみ上げてくる。

 主人公のアレックス・マルサンは、フランスのナントで夫アントワーヌと共にペンションを経営している女性だ。ある日、セリム・ラクダールという客から予約が入る。その名にアレックスは聞き覚えがあった。それもそのはずで『粉砕』という小説の、登場人物の名前だったのである。倉庫運搬車両の運転手だったが、理不尽にも解雇されたため闇取引に手を染めるようになる。アレックスは若い頃から小説家志望で、良き読み手でもあった。

 やがて到着した泊り客を見てアレックスは仰天する。目の前に現れたのは『粉砕』の作者である、シャルル・ベリエその人だったのだ。繊細な作風とは裏腹に、ベリエは豪放磊落を絵に描いたような人物だった。妻と愛人の間で板挟みになるのが面倒くさくなり、しばらく身を隠して小説を書きに来たのだという。アントワーヌによって小説家志望者だと明かされてしまったためアレックスは動転するが、ベリエの人柄に惹かれていく。

 だが、彼女が四十歳の誕生日を迎えた晩、事件が起きる。突如としてベリエが卑しい顔を剥き出しにし、アレックスを強姦しようとしたのだ。なすすべもなく押し倒された彼女は、手に触れた石でベリエを撲殺してしまう。

 人を殺した事実を悔恨しつつ、警察に連絡しようとしたアレックスだったが、すんでのところで思いとどまる。もし通報すれば、自分の人生はそこで終わる。アントワーヌや娘たちにも殺人者の家族という恥辱を味わわせてしまう。だが、事が露見しなければ。ベリエがペンションにやってきたのは完全なお忍びだったという。だとすれば、彼がここで殺された事実そのものを隠し通せるのではないか。作家の遺体を堆肥の山に隠したアレックスは、ある意志を決めて動き始める。

 ここまでが第一部「大きな赤い狼」の内容だ。このあと第二部「カメレオン」からアレックスの始めたとんでもない隠蔽工作の模様が綴られていくのだが、以上の紹介を読んで関心を抱かれた方はすぐに読み始めたほうがいいと思う。表紙裏の内容紹介や、訳者あとがきにもなるべく目を通さずに。ネタばらしにはなっていないが、アレックスが飛び込む世界がどんなものかを知らないで読むとさらに驚きがあっていいはずだ。

 一つだけ書いておくと、ナントからアレックスはパリに出る。それ以外の場所にも行く。ナントは作者が育った土地らしく愛着を込めて描かれているが、パリはアレックスにとって敵地に等しく、すべてが不安の種でしかない。その揺れる心情を読むうちに、次第にこの女性と気持ちが同化していくのである。

 アレックス・マルサンという主人公を見事に造形したことが、作者のいちばんの功績だ。アレックスは小説家を目指していた若いころ、創作に入れ込むあまりに精神の均衡を欠くようになり〈社会不安障害〉の診断を受けた。アントワーヌとめぐり逢い、その庇護を受けたことでなんとか心の平穏を取り戻していたのである。ペンションは彼女にとって文字通り自分自身を守ってくれる防壁でもあった。そこに強奪者のようなベリエが飛び込んできたのである。

 ベリエが巧みなキャラクター創造者であることが作中に何度も示される。たとえば初期の作品に登場する建築家ポール・アルデュソン。彼は自宅を改築することを思い立ち、最初は庭に豪華なプールを掘り始めるが、中途で全体を禅庭にしてはどうかという考えが浮かんでしまい、まったく違った方向の作業を始めてしまう。夫婦して永遠に終わらない造園と建築を延々と続けるという人物なのだ。アレックスが特に愛したのは〈幽霊市民〉と呼ばれる都市周縁部に住む庶民たちであった。だがベリエと接するうちに、そうした庶民にはモデルが存在することを理解するようになる。自分たち、アレックスやアントワーヌのような市井の人々を観察し、大袈裟に言えばその人生を奪って自分の登場人物のものとすることによってベリエは小説を書いていたのだ。いつまで経っても家を完成させられないアルデュソンは、未完の作品ばかりを乱発していた習作時代のベリエ自身である。

 あることからベリエが執筆に使っているパソコンを覗けるようになったアレックスは、彼の新作に登場する主人公が女性版〈ジキルとハイド〉であり、そのモデルは自分自身であることを知る。彼女もまたベリエの小説中にと取り込まれていた。

 ベリエによってまさに強姦されようとした瞬間、アレックスの「はらわたの奥深くをさまよっていた自分自身が戻って」くる。「狂気に駆られた、恐れ知らずの双子の片割れ」は、怒りをもってベリエを打ち倒し、ついには命を奪ってしまうのである。それは〈社会不安障害〉の診断を受けたために内奥に押し込めていたもう一人の自分自身なのかもしれない。また、理不尽な性暴力の犠牲になることを拒否し、正当な抗議の声を上げる女性を代表する声だとも、ベリエにモデルとして使われることで人生を奪われそうになっていたアレックスの、防衛本能のなせる業とも読める。このように複数の読み方が可能な場面が何か所もある。訳者あとがきによればマルポが本作の着想を得たのは〈#Me Too〉運動が高まる前だというが、男性性による女性性の不当な収奪が行われていることを、随所で指摘する小説でもある。

 重要なのは、このように許されざる敵であるベリエに対して、アレックスが愛着ともいえる感情を抱くことである。それはベリエの人格に対するものというよりも、優れた作品を生み出した小説家の頭脳、才能を愛する感情なのだ。ここでアレックス自身がかつて長篇小説を書こうとして挫折した過去があるという設定が効いてくる。ベリエ自身の命は彼の愚かな暴力によって中断してしまうのだが、アレックスはそれをなんとかやり直そうとするのである。自身の再出発が同時にベリエという小説家の再構築、再生にもなるわけである。このへんの多義的な構造も非常におもしろい。

 小説は暴力的なものである。他人の人生を写し取り、時には傷つけることさえあるからだ。エルザ・マルポはその事実を認めた上で、小説がこの世にある意味をアレックスによって問い直そうとする。その暴力性と芸術性をどちらも安易に否定していないのが本書の優れた点なのだ。小説という表現形式が好きな読者ほど、アレックスという主人公に、『念入りに殺された男』という作品に魅了されるはずである。まずはそういう作品だという情報だけ頭に入れて、ページをめくってみることをお勧めしたい。

(杉江松恋)

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