第109回:宮下奈都さん

作家の読書道 第109回:宮下奈都さん

日々の暮らし、小さな心の揺れを丁寧に描き出し、多くの人の共感を読んでいる宮下奈都さん。今年は一人の若い女性の成長を4つの段階に分けて描いた『スコーレNo.4』が書店員さんたちの熱烈な応援を受けて再ブレイク。福井に住む、3人の子供たちを育てる主婦でもある宮下さんが辿ってきた本との出合い、そしてつきあい方とは?

その2「好きな本は繰り返し読む」 (2/4)

細雪 (中公文庫)
『細雪 (中公文庫)』
谷崎 潤一郎
中央公論新社
1,183円(税込)
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柳橋物語・むかしも今も (新潮文庫)
『柳橋物語・むかしも今も (新潮文庫)』
山本 周五郎
新潮社
637円(税込)
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伊豆の踊子 (新潮文庫)
『伊豆の踊子 (新潮文庫)』
川端 康成
新潮社
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ツァラトストラかく語りき 上巻 (新潮文庫 ニ 1-1)
『ツァラトストラかく語りき 上巻 (新潮文庫 ニ 1-1)』
ニーチェ
新潮社
594円(税込)
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人間 (岩波文庫)
『人間 (岩波文庫)』
E. カッシーラー
岩波書店
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万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)
『万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)』
大江 健三郎
講談社
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――中高生の頃はいかがですか。

宮下:中高生の頃に読んだものですごく印象に残っているのは谷崎潤一郎の『細雪』、山本周五郎の『柳橋物語』、川端康成の『伊豆の踊り子』。ものすごくメジャーなものですね。その頃の本の選び方って裏をかこうとかいう気持ちはまったくなくて、いいといわれているもの、面白いといわれているものを素直に選んでいたんだと思います。『細雪』が好きだったのはなんでだろう、『若草物語』の系統、姉妹の物語として読んだからだと思います。『伊豆の踊り子』は言葉のリズムが好きで何度も読みました。『柳橋物語』も何度も読んでいるんですが、読むたびに同じ人物がまったく違う風に見えてくるんです。主人公の女性のそばに2人の男性がいるんですが、最初に読んだときはこっちがよくてあっちはダメという印象だったのが、次に読んだらまったく逆に感じられる。それでもう1回読むと、どっちもダメに思える。実はどちらもダメなことなんて何もなくて、ただのこちらが勝手に抱く印象に過ぎないんですよね。いろんな風に受け止められるようにものすごく上手に書かれている。あれはよくできたミステリなんじゃないかと思います。

――好きな本は何度も繰り返し読むんですね。

宮下:そうなんです。1回読んでもういいや、と思うものほうがが多いんですが、この3冊は繰り返し読みました。子供を見ていても、気に入ったものは何度も何度も繰り返し読んで、そうでないものは1回で終わり。ああ、簡単に書かれたものは簡単にしか読んでもらえないんだなとつくづく感じています。

――大学進学で福井県から東京にやってきて生活も大きく変化したわけですが、読書傾向はどうだったのでしょう。

宮下:高校生の頃にニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を読んですごく面白いと思って、大学は哲学科にいこうと思いこんでしまったんです、何を血迷ったのか。ほかの可能性を一切考えずに哲学科ばかり受験して進学したんですね。それで入ってみたら、全然分からなかったんですよ。授業の課題本だったカッシーラーの『人間』という本なんて、1行も分からなかった。記念にその本は今でもとってあります。それで、みんな分かっているのかな、と不安になって学食で男の子に「なんで分かるの?」って訊いたら「お前本読んでないからだよ、本読めよ」って言われて、そっか、私読めてないんだ、私ってこんなに頭が悪かったんだな、って落ち込んで。ハイデガーなんかは時間をかけて説明してもらいながら読み込んでいくと分かるんです。でも自分ひとりで読んでも分からない。分からないって簡単には人に言えなくて、それで怯えていたというか、辛かったなー......って。

――分からないって言えない空気があるのは辛いですよね。

宮下:私は学問探究に向いていないんだなと分かって、難しい本はもうやめて、読みやすそうな本を読もう、と、本に対する気持ちが変わりました。今まではいいと言われるものをまっとうに読んでいたけれど、その頃から本屋さんで目につくものを適当に選ぶようになりました。学校の行き帰りの途中に本屋さんがあったので、その日に読む文庫を買って読んでいたんですが、でもたいてい1回読んで終わりだったかな。

――1日1冊ペースですか。はやいですね。

宮下:翌日に持ち越すこともありました。でも一人暮らしでしたし、夜に読む時間はいっぱいありました。

――卒業されてからはいかがでしたか。

宮下:ますます読みやすそうな文庫ばかり読んでいたんです。でも26歳のときに、そうだ私、系統立てて本を読んだことがなかったと気づいて。どこから手をつけていいか分からなかったので、『日本文学史』という本を買って、自分の生まれ年に刊行された本から読んでいくことにしました。勤め先が丸の内だったので、昼休みに日比谷図書館まで歩いて通っていました。お昼を食べる時間がなくなるんですけれど。そうしたら、私は昭和42年生まれなんですが、いきなりいいのに当たっちゃって。大江健三郎さんの『万延元年のフットボール』、あれは昭和42年刊行なんです。最初から最後まですごく面白かったですね。大江さんの本はそれまでにも読んでいたかもしれないけれど、記憶に残っていなかったんです。その後いろいろ読んでも、やっぱり『万延元年のフットボール』がいちばん面白く感じますね。それから大岡昇平さんの『レイテ戦記』。戦後何年も経っているのに戦記が出ていることに驚いて、そこから『野火』や『俘虜記』も読みました。それから金井美恵子さんの20歳のデビュー作『愛の生活』。これは刊行されたのは翌年みたいなんですが、受賞したのが42年だったようなんです。これも面白くて、その後読んだ金井さんの『小春日和(インディアン・サマー)』や『柔らかい土をふんで、』もすごく心に残っています。あとは、これも厳密に言うと刊行年は翌年のようなんですが、開高健さんの『輝ける闇』。そこから『夏の闇』も『花終わる闇』も読みました。私と同時代の人だなって、本当にリアルに読めたんです。今読み返すとどうしてそこまで生々しく思えたのか分からないんですが、闇の三部作はものすごく"分かる"ものとして読めました。生意気なことを言うと、『花終わる闇』が未完に終わっていることが当たり前にように思えるというか。ほかにも昭和42年に書かれたものはたくさん読んだんですが、その当時感想を書いていたノートを見返しても、そこから同じ作家のほかの作品をいろいろ読んだというのはこの4人でした。

――すごくいい読書方法だと思います。真似したくなるくらい。

宮下:やってよかったと思います。生まれたときに書かれた本だと思うだけですでに愛情を持って開くことができました。本当は生まれた年からどんどん遡る予定だったんですが、面白いと思う作家のほかの本を手にとるなど広がりができていったので、それはやりませんでした。タクシー代も出せなかったからお昼休みに歩いて図書館に通って目当ての本を借りて、お昼も食べずに仕事に戻っていたんだと思うと、よくやったぞ、と自分に言いたいですね。今の立場からすると借りずに買ってよ、とは思いますが(笑)。

忘れられた日本人 (岩波文庫)
『忘れられた日本人 (岩波文庫)』
宮本 常一
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レイテ戦記 (上巻) (中公文庫)
『レイテ戦記 (上巻) (中公文庫)』
大岡 昇平
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愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)
『愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)』
金井 美恵子
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輝ける闇 (新潮文庫)
『輝ける闇 (新潮文庫)』
開高 健
新潮社
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――ご結婚は東京にいる頃にされたのですか。

宮下:そうです。夫は私とはまったく違う読書傾向の人なんです。宮本常一さんの『忘れられた日本人』なんて読んだことがなくて、夫に「絶対に読むべき」と言われて手に取ったんです。悔しかったですね。こんないい本、私のほうが薦めたかった、って(笑)。夫は三島由紀夫が好きだったんです。私もいくつかは読んでいたけれど、じゃあ好きな作家は、と訊かれたらぱっと名前が挙がるわけではなくて。でも趣味が重なっていなくてよかったです。子供が生まれてから、おっぱいをあげるときに、あ、しまった本を用意してなかった、と思っても夫の本棚に手を伸ばせばいろいろありましたから。授乳しながら本を読んでいたんです。最初は赤ちゃんの顔を見ながらあげなさいといわれて守っていたけれど、2時間おきに20分ずつということになると、本のひとつも読まないとやっていられなくて。

――その後、福井に戻られたんですよね。

宮下:はい。いろいろ不便になるかなって思っていたんですが、戻ってみて、暮らしやすいし食べ物も水もこんなに美味しかったんだって改めて気づきました。今、自分が小さい頃いっつも遊んでいた空き地に家を建てて住んでいるんです。昔ここで遊んだなって思うと楽しい気持ちになれる。だからおうちにいるのがいちばん好きかも(笑)。

――わあ、素敵ですね。小説を書こうと思ったのはきっかけがあったのですか。

宮下:書けるなんて思っていなかったんです。『万延元年のフットボール』なんて、何回生きなおしても書けないだろうし、だから楽しめたところはありますね。でも子供を産んで読書からはなれて、3人目の子供がお腹にいる頃に「今書かなかったら一生書かないんだろうな」と思ったんです。生まれたらてんやわんやになるし、お母さんとして忙殺されていく。それでもよかったんですが、でも何か書きたいな、赤ちゃんが生まれてくるまでに書こう、って思い立って。でも書き終わらなかったんです。『文學界』の締切が6月30日で、子供が生まれたのが7月1日で。それでもうダメだとは思わなくて、授乳しながら手書きで書いて、パソコンで清書して、次の12月31日の締切には間に合いました。それが佳作になったのでラッキーでした。

――それが2004年。「静かな雨」という作品でしたね。それまで一度も小説をきちんと完成させたことはなかったのに、すごいな。

宮下:習作を重ねてきたということはなくて、その前の何年かは本当に育児だけをしていたんです。なのに「今書かないと」という気持ちになったのは、妊娠してホルモンのバランスがちょっとどうかなっていたのかもしれません(笑)。出産してまた小説を書かなくなって、3月くらいになって『文學界』から「最終候補に残りました」と連絡があったときには「ああ、そうだ、出してた出してた!」と思ったくらい。夫にも言わずに書いて応募したので、すごく驚いていましたね(笑)。

――なぜ文學界新人賞に応募したのですか。

宮下:自分が好きな吉田修一さんも絲山秋子さんも、この賞からデビューしているんですよね。それに、そのときは選考委員に辻原登さんがいたんです。最終の候補になったら辻原さんに読んでいただける、というミーハーな気持ちもありました。

――佳作入選してからは生活に変化がありましたか。

宮下:もしあの状態で万が一新人賞を受賞していたら、乳飲み子と3歳と5歳の子供を抱えながら「次の小説を書かなきゃ」という状況になっていたと思うんです。それは辛かったと思う。佳作になったことで編集部とつながりはできたけれど、はやく次を書かなきゃ、という焦りはなかったので、「次は何を書こうかなあ」とのんびりと考えることができたんですね。私にとっては幸運でした。

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