第161回:磯﨑憲一郎さん

作家の読書道 第161回:磯﨑憲一郎さん

2007年に文藝賞を受賞して作家デビュー、2009年には芥川賞を受賞。意欲的な作品を発表し続けている磯﨑憲一郎さん。叙事に徹した日本近代100年の物語『電車道』も話題に。時間の大きな流れの中で生きる人々をとらえたその作品世界は、どんな読書生活から育まれていったのか? 商社に勤めながら40歳を前に小説を書きはじめた理由とは? 

その4「保坂和志さんと出会う」 (4/5)

  • スティル・ライフ (中公文庫)
  • 『スティル・ライフ (中公文庫)』
    池澤 夏樹
    中央公論社
    514円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    LawsonHMV
    honto
  • マシアス・ギリの失脚 (新潮文庫)
  • 『マシアス・ギリの失脚 (新潮文庫)』
    池澤 夏樹
    新潮社
    907円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    LawsonHMV
    honto
  • 百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)
  • 『百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)』
    ガブリエル ガルシア=マルケス
    新潮社
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    LawsonHMV
    honto
  • アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)
  • 『アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)』
    保坂 和志
    河出書房新社
    1,004円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    LawsonHMV
    honto
  • <私>という演算 (中公文庫)
  • 『<私>という演算 (中公文庫)』
    保坂 和志
    中央公論新社
    27,221円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    LawsonHMV
    honto

――一卒業後は商社に就職されるわけですよね。

磯﨑:就職してからの20代は本を読んでないこともなくて、でもときどき芥川受賞作を読んでみたり、村上春樹さんを一通り読んでみたり、という程度。ただ、池澤夏樹さんは好きでした。デビュー作の『夏の朝の成層圏』がすごく好きで。船が難破して一人で無人島に流れつくという話です。他にも芥川賞を受賞した『スティル・ライフ』とか『マシアス・ギリの失脚』とか。それで、池澤さんがラテンアメリカの文学を絶賛していたからだと思うんですが、20代後半にガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読むんです。僕が大学に入学したのが84年で、マルケスがノーベル文学賞を受賞したのが82年。当時、大学生協に行くとガルシア=マルケスの本が平積みになっているんです。それなのにその頃は全然興味を示さなかったのに、20代後半になって池澤さん繋がりで『百年の孤独』を読んだら、これはもう、読みとめることができなくなったんです。今でも憶えているんですが、朝の通勤電車で読んでいて、降りる予定の大手町についても「ここで読み止めちゃいけないんじゃないか」と。社会的責任とは別に、ここで読み止めるということは人生の選択として間違っているように思えて、その日は休んでその本を読み進めることにしたんです。「ちょっと体調が悪いんで」と会社に連絡して。とにかく最後まで、豚のしっぽのアウレリャノが羊皮紙を読むところまで止められなかった。
それでガルシア=マルケスを好きになって、その繋がりでホセ・ドノソとかボルヘスとかカルペンティエールとかコルタサルとか、なんとなく読み始めたんですよね。

――一ラテンアメリカ文学ばかりですか?

磯﨑:いえ。95年、僕が30歳の時に、たまたま会社の帰りに立ち寄った本屋で『この人の閾』を買うんですよね。保坂和志さんの。芥川賞を受賞されて、そんなに時間が経っていない時だったと思います。カルチャーセンターの企画をしているサラリーマンが、講師を依頼しようと思って大学の先生のところに行くとその人は不在で、しょうがないから暇つぶしのために大学の映画サークルで一緒だった女の先輩のところに行って草むしりするというだけの話なんですけれど、こういう小説を書く人は素晴らしいなと思って、それで「この人の書くものはすべて読もう」となるんですね。『この人の閾』から遡って、『猫に時間の流れる』や『草の上の朝食』『プレーンソング』を読むんですが、当時一番好きだったのが『猫に時間の流れる』。何が好きだったかって、理由が分からないですね、今となっては。とにかく「この人だ!」と思わせるだけのものがあった。
で、僕は32歳の時にアメリカに転勤になるんです。7年間いたんですが、最初の4年がミシガン州、後の3年がインディアナ州ですね。アメリカ駐在の期間は僕の30代とほぼ重なるんですが、子育ての期間でもあったんです。上の子が2歳の時に行って、向こうで下の子が産まれて。それで、日本にいた頃よりも本の選択肢は狭まるけれど本を読む時間はあったようで、保坂さんの繋がりから小島信夫さんを読みはじめたり、田中小実昌さんを読んだり。なんとなく文芸誌も読みはじめました。並行して哲学というか、現代思想も多少。保坂さんが『世界を肯定する哲学』とか、ああいうのを書いていたからでしょうね。『アウトブリード』や『私という演算』というエッセイ集も、哲学的なことも書いていましたし。それでベルクソンやハイデガーやニーチェもぱらぱらと読みました。

――一日本の本はどうやって手に入れていたんですか。

磯﨑:幸いなことにインターネットで情報が得られるようになってきていた時期なのでネットで注文したり、あとは実家から送ってもらったりしましたね。1920年代くらいまでの小説をよく読んでいました。ジョイスの『ユリシーズ』とか『ダブリン市民』とか。カフカや、ヴァージニア・ウルフとか。形式としての小説はその時期に完成している感じがあるんです。それ以前のバルザックとかスタンダールとかだと、ちょっと今読むときついと感じる部分もある。それに、小説でしかできないことを始めたのは1920年代のカフカとかジョイス以降だなという気がして。徹底的に読んだのはロベルト・ムージルの『三人の女』。岩波文庫から出ていて、僕は何十回となく読みました。今は古本屋で見つけると必ず買うことにしているんですよ。家に20冊くらいあって、いろんな人にあげています。柴崎友香さんにも初対面であげました。

――一柴崎さんにはデビュー前にお会いしているそうですね。

磯﨑:僕の知り合いの保坂さんファンがイベントで『新潮』の編集者と知り合って合コンをすることにして、そこに柴崎さんが来ると聞いて「柴崎友香が来るなら、俺も行く!」と。僕は合コンだと思っていなかったので、「僕には家族がいます」と言ったら「なんだそれ」みたいなことになっていた(笑)。で、僕はデビュー前の素人なのに柴崎さんに「これは絶対に読んでおいたほうがいいですから」って渡したのが『三人の女』でした。それがアメリカから帰ってきた直後の2006年の冬。翌年、文藝賞を受賞したんですけれど、受賞発表号を見た新潮社の編集者が「合コンで会った人だった」って驚いたとか(笑)。

――一小説を書き始めるきっかけというのは。

磯﨑:それはもうね、保坂さんに勧められたからなんですよ。アメリカに駐在していた頃、ネットの掲示板でやりとりしていたんです。そう、十年前ぐらいまではそういう掲示板があったんですよね。で、2年に1回くらいは会社がお金を出してくれて、家族全員を日本に一時帰国させてくれるんですが、2002年の夏に保坂さんに「一時帰国するので会えませんか」と訊いたら「いいよ、集まろう」と言ってくれて。それで、掲示板に出入りしていた15人くらいが集まったんです。8月10日だったかな、まあ単にオフ会をやったわけです。作家に会うのなんて初めてだったので、さすがに緊張して行ったんですけれど、その日は結局、一緒に徹夜でカラオケをしました。
当時、保坂さんはメールマガジンを出していたんですね。それで「イソケンはアメリカに住んでいて面白い体験もしているだろうから、エッセイを書いてくれ」と言われ、家族でメキシコに旅行に行った話を30枚くらいで書いて送ったら「これはちゃんと小説にしないと駄目だ」と言われて、元が体育会なのでそう言われると「はい」ってなって(笑)、それで「メキシコ」という題名で100枚くらいの小説にしたんです。それを送ったら「面白いけど、デビューするにはまだ何かが足らない」と言われ、もう1回書いて「まだ足らない」と言われて。3回目に「肝心の子供」というのを書いて、それは文藝賞に応募しました。「デビューするには保坂和志に認められなきゃ駄目だ」と自分に課していたから、保坂さんが選考委員をやっている文藝賞に応募して、受賞したのが2007年でした。

――一それまで興味はなかったのに、「書け」と言われて書いてみたら、小説を書く楽しみを知ったというわけですか。

磯﨑:自分の中で変化が起きていたんですよね。子供ができたことが大きかったと思います。それまで音楽をやったりボートにのめりこんだりしたのは、普通の若者と同じようなある種の自己実現、成功欲があったからだと思うんです。それまで子供は全然好きじゃなかったんですけれど、実際に自分に子供ができたら、そんな過去を詫びたくなるくらい、子供が可愛かったんですよね。僕の中では180度世界観が変わるくらいの経験で、そこからは自己実現ではなくて他者というか、外の世界に奉仕することをやらなきゃいけないんじゃないかと感じはじめたんです。その中で保坂和志との出会いがあり、小説を書いてみたら、決して自分を知ってもらうために書いているのではなく、外の世界にポジティブに働きかけるものとして書いているという意識があって。それは今でもそうですね。「どうして小説を書いているのか」と訊かれたら、僕とまったく利害関係はないけれども僕の本を買って、時間を使って読んでくれて、肯定的に受けとめてくれる人がいるという、そのために書いていると答えます。僕も保坂和志の小説を読んだことによって今書いているわけだから、僕の小説を読んだことによって次の誰かが書いてくれればという、小説という長い流れの、自分はたすきリレーの一部分であればいい、という気持ちは強いです。

  • ユリシーズ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
  • 『ユリシーズ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)』
    ジェイムズ・ジョイス
    集英社
    1,242円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    LawsonHMV
    honto
  • 新潮 2015年 07 月号 [雑誌]
  • 『新潮 2015年 07 月号 [雑誌]』
    新潮社
  • 商品を購入する
    Amazon
    LawsonHMV

» その5「デビューしてから」へ