
作家の読書道 第187回:似鳥鶏さん
『理由(わけ)あって冬に出る』から始まる「市立高校」シリーズ、ドラマ化された「戦力外捜査官」シリーズなどで人気を博す似鳥鶏さん。今年作家生活10周年を迎え、ますます波に乗る著者は、どんな本を読み、どんな影響を受けてきたのか? 楽しくたっぷり語ってくださいました。
その5「ミステリーの作法を学ぶ」 (5/7)
――ところで似鳥さんはミステリー作家なわけですが、ミステリーというものを意識して読んだのはどれになるのですか。さきほど赤川次郎さんたちのお名前も挙がりましたが。
似鳥:『金田一少年の事件簿』になりますね、コミックスの。高校時代に兄と一緒に1冊ずつ買っては、解決篇の前に立ち止まって一緒に推理していました。結構解けましたよ。私一人じゃ無理なんですけれど、兄の知恵や発想と合わせると解けたんです。本格ミステリーの入り口はそこだったので、『金田一少年の事件簿』の功績が大きいです。今の若いミステリー作家は全員読んだことがあるでしょうし、それがきっかけで書き始めたという人も多いと思います。
――若いうちにそういう読書をしておくと、自分が書く時に後だしじゃんけんはしないとか、ちゃんとミステリーの作法が身についているからいいですよね。
似鳥:そうなりますよね、やっぱり。探偵が知っていることは読者にもすべて開示するようにして、ちゃんと読者に挑戦できる形で書くというフェアネスは、漫画は示しやすいんですよね。『金田一少年の事件簿』だったら、ヒントとして、明らかにちょっとおかしいコマが挿入されていたりするんです、さりげなく。読み返すと必ず「ここに描いてあった」と分かる。
そこから入ったのがいいことか悪いことか分からないですけれど、ミステリーというのはトリックがなきゃいけないだろうと思うようになりました。そうすると読者としては、トリックのあるものを求めていくようになるんですが、実はハウダニットのトリックをやってくださる方はそんなにいらっしゃらないんですね。ミステリーとしては分かりやすいけれど、書くのは難しいんでしょうね。
――ハウダニット、つまりどうやってやったのか、という謎ですね。
似鳥:誰がやったのかというフーダニットは手がかりを隠せちゃうので、レベルの設定が自由なんですよ。なぜやったのかというホワイダニットは実は本格ミステリーとしてはかなり難しい。何か事情があったんだろうなというのはいくらでも言えるので、読者がちゃんと謎だと思ってくれて、しかも解決編を読んだ時に驚いてくれる、というところまで作るのが難しいんです。やはりハウダニットが一番分かりやすい。「不可能なはずのことをどうすれば実現できますか」ということなので、誰でも同じ条件で謎に挑めるんです。当時『サム・ホーソーンの事件簿』とかジョン・ディクスン・カーとか知っていたら大喜びで読んだんでしょうけれど、知らなかったので。なので新本格の存在を知るまでは迷走します。
――新本格を知ったのは。
似鳥:大学のサークルが音楽系だったにも関わらず、部室に新本格の本が置いてあったんですよ。綾辻行人さんの「館」シリーズがありました。それで読んで「おおう」となって。そこから綾辻行人さんを読み、我孫子武丸さんを読み、法月綸太郎さんを読み、島田荘司さんを読み...。何冊かずつ「とにかくこの作家はこれを読んでおけ」というのを読んでいった時期がありました。でも、読むよりも書いたのが先なんですけれど。
――本格ミステリーを自分でもお書きになった、ということですか。
似鳥:音楽系サークルだったにも関わらず、「かまいたちの夜」が大流行したことがあって、あれのパクリで、サークルの人たちが吹雪の山荘で次々殺されていくという、今思うとすごく失礼な小説を何人かで競作したことがあったんです。他の人はみんな30枚くらいだったんですけれど、私だけ150枚書きました。それがわりと評判がよかったのか、「面白い」と言ってもらえたので、シリーズにして3部作になって、2作目の冒頭で1作目のことは似鳥が書いた小説であるとはっきりさせて一から話を始めるっていう。当然、3作目の冒頭は2作目までのことはすべて似鳥が書いた小説ということにして(笑)。で、他の奴を殺すのは悪いので自分を殺していたら、「なんでお前ばかりおいしいところを持っていくんだ」と言われ、私以外にも毎回必ず殺される奴がいたりしましたね。1作目で犯人を架空の人間にしたら「別に俺が犯人でよかったのに」と言われたりもしました。それがミステリーを書き始めるきっかけでした。1作目が150枚なのに、2作目が250枚、3作目が300枚くらいになったので、自然と長篇の長さが書けるようになったんです。やっぱり連続殺人事件を起こしてトリックを用いてサスペンスを出して解決篇をやって、最後には必ず犯人が身の上話を語るとなると、それくらいの長さでないと収まらないわけで。その時に本読みの友人に「どんどんうまくなっている」と言われたので、「もっと勉強しよう」と思って、そこからクリスティを読み、カーを読み、クイーンを読むようになりました。シャーロック・ホームズ先生ともようやく初対面を果たしました。チェスタトンのブラウン神父にも。島田荘司先生の御手洗潔さんもその時にはじめて会った気がします。そうやって女性作家を読まなかったのが読むようになり、翻訳ものを読まなかったのが読むようになり、ようやくなんでも読むようになりました。
――あ、翻訳ものは「三銃士」以降ほとんど読んでなかったんですね。
似鳥:「三銃士」を読んでいたくせに、翻訳ものは難しいという思い込みがあって。大学の頃、国語科だったというのもあるかもしれません。学科が国語科教員養成課程だったので、日本の古典を一通り読んでおかなきゃというのもあり、太宰治、志賀直哉、芥川龍之介や谷崎潤一郎といったものを乱読していきました。勉強のつもりでも、読めば面白かったです。谷崎潤一郎は『痴人の愛』より『春琴抄』のほうが面白かった。あれはすごかった。芥川龍之介はどれを読んでも面白かったですね。
その頃に子どもの頃にただ「面白いな」と思って読んでいた北杜夫の真面目なほうの作品を読んで「この人は本当はこんな人なのかよ」ってびっくりしました。『夜と霧の隅で』が衝撃でした。あと「渓間にて」という短篇がすごくよかった。ボロボロになりながら珍しい蝶を捕らえに行く話。今思うと『老人と海』みたいな話です。
そうしてしばらく読んでいくうちに、「このへんも読んでおかなきゃいけないだろう」と背伸びをする経験も大事だと思って、作者名で選んだのが横溝正史の『仮面舞踏会』や『江戸川乱歩傑作選』など。お金がなくて古本屋で選んでいたので、結構自分より年上の人の本を読むことが多かったですね。西木正明先生の『ケープタウンから来た手紙』とか。あれは学生運動時代が分からないけど大丈夫でした。
しばらくして大沢在昌さんの『B.D.T』を読んだらすごく面白くて、そこから「そういえば友人江澤が『新宿鮫』が面白いと言っていた」と思い出して読みました。やっぱりテーマが古びてなくて面白かった。