『夜の写本師』乾石智子

●今回の書評担当者●あおい書店可児店 前川琴美

 写経をしたことがある。一字でも上手くいかないと、がっかりするアレだ。何回も自分の集中力と対決したが、一回も納得出来るものは書けなかった。印刷技術がない時代は毎回こんな思いをしていたのだな、と『夜の写本師」の題名を見て思った。夜か。電気もないだろうに(エロいものを写しているとしても)大変なこって。電子書籍なんて、指でピッ! なのにご苦労様・・・と。

 読み始めてすぐ、自分がとんでもない本を手にしていると分かった。ひとりでに開き、本が飛び上がる魔法がこの本にもかけられているのか? 心臓がバクバクする。それとも本が脈動しているのか? 拡声器で「すごい本が誕生しました、日本人が書きました!」と叫びながら鬼籍に入ったファンタジー作家の墓をこじ開けて「死んでる場合じゃないですよ!」と本を棺の中に放り込み、そのままジブリに突撃して「これ、アニメにしなくてどうしますか、日本人がやってのけたんですよ!」と偉い人に壁ドンしたくなった。頭がパニック。デビュー作で、闇を、闇を上書きしよった!

 写本師は、魔道師アンジストに復讐すべく主人公カリュドゥが就く職業だ。幼馴染みと師を殺されたカリュドゥに、更に3人の魔女の人生がなだれ込む。アンジストを愛し、全てを捧げ、奪われ、犯された少女の呪いが、巡り巡って生まれ変わり、男であるカリュドゥの記憶に息づいてしまう。もう3回も殺されていた前世。何という宿命! 赦すという選択肢はない。呪うという行いの負荷は、カリュドゥ一人が命を捨てる覚悟をもってしても重すぎる。

 そこで魔法ならざる魔法、写本の道を辿るのだ。魔道師には魔道師を、というセオリーから外れるところにこの物語の核がある。数多くの魔道師から魔法をとって食い、世界を統べる魔法を手にしている敵を滅ぼす対抗策が写本! 紙とインクとペンで、人々の絶望や憎悪を受けとめ、飲み下し、身を穢し、自らの闇に加え、写本の技術を磨く道。それは世界の理を透見する眼差しと職人の技術だけで成り立っている。写本師と魔道師のどちらが強いのかではなく、均衡についてただこの本は問うている。闇と対峙するということはどういうことか。ファンタジーとはその問いに切り込む刃だと言わんばかりに。

 完全な円環のように収斂するラストは、とにかく美しい。今度は男であるカリュドゥが、少女として生まれ変わったアンジストを後継者として育て直す。闇となる萌芽を、この一生で完結する為に愛で。これは魂の看取りであると思う。相手を全否定して消滅させる選択肢を捨て、生皮を剥ぐ思いで価値観を捨て、憎しみの連鎖を断ち、自らの命をも生き直す。人生を懸けて、共に隣で。

 その役割を女性と男性を入れ替える運命にすることで一つの道を提示をしているのではないか。ファンタジーにフェミニズムをどう介入させるかについて、「ゲド戦記」からの宿題のようなものが私の心の中にずっとしまわれていたが、これは大変尊い答えであると思う。世界が瞠目すべきストーリーテラーの技である。

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あおい書店可児店 前川琴美
あおい書店可児店 前川琴美
毎日ママチャリで絶唱しながら通勤。たまに虫が口に入り、吐き出す間もなく飲 み下す。テヘ。それはカルシウム、アンチエイジングのサプリ。グロスに付いた虫はワンポイントチャームですが、開店までに一応チェック! 身・だ・し・な・み。 文芸本を返品するのが辛くて児童書担当に変えてもらって5年。