『女神のタクト』塩田武士

●今回の書評担当者●丸善書店津田沼店 沢田史郎

唐突に聞こえるかも知れないが、ディズニーランドでは、誰もがミッキーマウスなど作り物であることは承知の上で、敢えてファンタジーの世界に酔うでしょう? 反りの合わない上司とか嫁姑とか受験とか、そんな現実をしばし忘れて、この世には厭なことなど一つも無いのだと、ほんの一時、錯覚したくなるでしょう? 私にとっての小説ってのも、まさしくそれ。頭では作り話だと解っていても、その作品世界に酔い痴れたい。

だけども残念なことに、その「酔い」を醒ますような描写に、しばしば出くわすことがある。「そんな奴、いねーだろ(笑)」「こんなに上手くいく訳ねぇー(笑)」等々と。こうなるともうダメだね。それまでどんなに手に汗握って読んでいようと、「所詮は作り話なんだよな」と一気に酔いが醒めてしまう。オモムロに着ぐるみを脱いだミッキーが、「ミッキーマウスなんかフィクションなんだよ」などと、要らんタネ明かしをした感じ。被り物を脱いだミッキーになど、誰が好き好んで会うものか。

ところが、だ。「こんなん、ある訳ゃねぇー」という非現実的な設定ながら、醒めるどころか逆に「あったら楽しいだろうな」「あって欲しいな」と思わせる作品が稀にある。その一つが『女神のタクト』だ。

主人公は三十路女の矢吹明菜。失業と同時に失恋して傷心旅行に出たところ、たまたま出会った老人に、或る人物を連れて来るように頼まれる。その人物ってのに会ってみたら、実は隠遁している世界的な指揮者で、嫌がるところを脅すようにしてしょっぴいて行った先は経営難の地方楽団、その名も「オルケストラ神戸」。どうやら件の老人はこの"元"世界的指揮者に、オルケストラ神戸の再建を託す心算らしい。

もうこの出だしだけでもツッコミどころ満載(笑)。だって、幾らヒマだからって、見も知らぬ老人に頼まれて兵庫の舞子から京都まで、人を探しに行くかフツー? しかも尋ね人の正体は世界的な指揮者だし、嫌がる彼を時にはハイヒールでひっぱたきながら連行するし、彼を迎え入れた楽団は契約料など払えないからひたすら人情に訴えるし、それでなし崩し的に契約しちゃうって、気が弱くて流されやすいにもほどがあるって話だし、だしだしだし。

と、やおら「恐怖のだしだし男」になりつつも、本書をけなしたい訳では、断じてござらん。

と言うのも、キャラクターがやたら立ってるんだ、この作品。主人公の明菜は言うに及ばず、内気でビビリな性格が災いして指揮台に上がれない拓斗とか、明菜との初対面でパンチパーマを【漆黒のブロッコリー】呼ばわりされた事務局長とか、柴田恭兵似で職人気質のステージマネージャーとか、頼れる兄貴分的存在のコンマスとか、とかとかとか。

とまぁ、「謎のとかとかおじさん」に言わせて貰えば、頭の隅では「在り得ねぇー」って解ってるのに、出て来るキャラがどいつもこいつも魅力的で、「こんな奴がいたら楽しいだろうな」「こんな楽団があったら聴いてみたいな」などと、想像せずにはいられない。その上ストーリーは、逆境におかれた凡才たちが汗と涙で一発逆転! 一寸の虫にも五分の魂! ってな展開だから、泣いたり笑ったり時間を忘れて"酔わせて"貰った。『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子、講談社)とか『船に乗れ!』(藤谷治、ポプラ文庫ピュアフル)なんかが好きな人には是非薦めたい。

そして最後に、著者の塩田さんにちょいとお願い。我らがオルケストラ神戸の数年後は、一体どんな楽団に成長しているんでしょう? 気になって仕様が無いんで、続編、書いたりして頂けません?

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丸善書店津田沼店 沢田史郎
丸善書店津田沼店 沢田史郎
1969年生まれ。いつの間にか「おじさん書店員」であることを素直に受け入れられるまでに達観致しました。流川楓君と身長・体重が一緒なことが自慢ですが、それが仕事で活かされた試しは今のところ皆無。言うまでも無く、あんなに高くは跳べません。悩みは、読書のスピードが遅いこと。本屋大賞直前は毎年本気で泣きそうです。読書傾向は極めてオーソドックスで、所謂エンターテインメント系をのほほ~んと読んでいます。本屋の新刊台を覗いてもいまいちピンとくるものが無い、そんな時に思い出して参考にして頂けたら嬉しいです。