『非現実の王国で』ヘンリー・ダーガー

●今回の書評担当者●銀座・教文館 吉江美香

  • ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で
  • 『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で』
    ジョン・M. マグレガー
    作品社
    7,020円(税込)
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 ポップアートの巨星、アンディ・ウォーホル。決して誰にも見せなかった寝室が彼の死後写真で公開された。奇才の寝床やいかに、と世間は色めき立ったが極めてシンプルなベッドのほかには十字架と聖母子像の絵画が飾られていただけだった。

 熱心なキリスト教信者として知られてはいたが、芸術はマネーだと言いきり、アトリエをファクトリーと呼び、取り巻きに囲まれながらもどこか覚めた皮肉屋がひとりになれたその部屋がウォーホルの真の姿を表現した最高の芸術のように感じた。

 ヘンリー・ダーガーを孤独のアウトサイダー・アーティストと簡単に表現することに抵抗を覚える。

 現存する彼自身の写真は3枚だけ、ダーガーだかダージャーだかも不明。物心ついてからずっと施設で育ち、親類、友人もなく病院の掃除人として働く以外には教会しか通う場所がなかった人生。死後アパートの大家が偶然発見した15000枚にもおよぶ小説と80数枚の挿絵がダーガーの名を広めた。

 技法に優れている、芸術性が高いということではなく、写真やイラストを切り抜いて写したコラージュは、ヴィヴィアン・ガールズと称する奴隷少女たちと奴隷主の戦いを描いた作品で、ぎこちない線、淡色の植物や昆虫(彼が独自に創造したものもある)、戦闘姿の、またある時は両性具有のガールズがぎっしりと埋め込まれている。ダーガーの愛情の需要と供給は、実在しないガールズとのやり取りだけだった。その飢えた感情が残酷なメルヘンタッチであまりにもストレートに伝わってくるのが恐ろしい。

 キース・へリングやバスキアは短い生涯ながらも自分の生を駆け抜けたが、(存命中に名が売れたということは別にして)ダーガーはいつまでも不完全に浮遊し、うす気味悪く漂っている。絶筆でもなく未完でもなく行き場のないヴィヴィアン・ガールズがダーガー自身を映し出す。孤高、異端の画家といわれた田中一村でさえ奄美の村民とは関わりを持っていた。

 人は目的や披露する意思がなくても、例えば日記を書くとき「他人に見られること」をどこかで意識しているのだろうか。「愛と死をみつめて」の大島みち子は別の1冊に本音を書いていた。誰に見せるでもなく57年という年月のあいだ、ひとつのストーリーをずっと描き続けた事実は、ダーガーにとって自己表現というより感情を注ぎ込むところが紙上にしかなかったことを物語る。
ダーガーが好き、と公言するのを躊躇してしまうのはなぜだろう。見てはいけないものを見てしまった後ろめたさと、理にかなっていない美しさを認める自分が嫌なのだ。

 極東の島国で自分の作品集が出版され展覧会に多くの人が訪れた事実をダーガーが知ったら、喜ぶどころかきっと彼は自分の全てをさらけ出してしまったことを恥じるのではないかと思う。彼が8人目のヴィヴィアン・ガールズであり、その人生が「非現実の王国」そのものだった。

 私も孤独死必至だけどね。お友達たち、よろしくね。

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銀座・教文館 吉江美香
銀座・教文館 吉江美香
創業127年を迎える小社の歴史のなかでその4分の1余に在職してるなんて恥ずかしくて言えやしないので5歳から働いていることにしてください。好きな人(もの)はカズオ・イシグロ、木内昇、吉田健一、ルーカス・クラナハ、市川左團次、UKロック、クリミナル・マインド、文房具、生け花。でもやっぱり本がいちばん好きかな。