第十八回 四日市-内部-石薬師

  • 新・東海道五十三次 (中公文庫)
  • 『新・東海道五十三次 (中公文庫)』
    武田 泰淳
    中央公論新社
    1,012円(税込)
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 八月三十一日、出発ぎりぎりまで仕事してからほぼ徹夜で東京駅へ。今おもえば、この無理がよくなかった。
 青春18きっぷは残っているが、新幹線で名古屋まで行く。18きっぷだと三重に着くまでに日没になり、地元の街道が歩けない。
 街道歩きをはじめてから、新幹線に乗るのも楽しくなった。それまで東京-名古屋間の新幹線の景色には、ほとんど興味がなかった。最近は「富士川だ、大井川、掛川城だ、天竜川だ」といったかんじで移動に合わせて見たいものが増えた。「今、宿場町でいえば、どのあたりかな」ともよく考える。その分、電車内であまり本を読まなくなってしまったが......。
 午前十一時すぎ、名古屋駅着。地下街のエスカの寿がきやでラーメンを食い、近鉄四日市駅へ。近鉄の電車は新型の車両だった。
 四日市は東海道の宿場町で、子どものころからなじみのある町だ。
 この日、駅を出てすぐの四日市市立博物館に行ってみた。いつでも行けるとおもっていると、なかなか足を運べない。行きたいとおもったら、すぐ行くことだ。
 この博物館の中には四日市出身の作家、丹羽文雄記念室がある。また常設展では「時空街道」という展示(無料)も。「時空街道」はあまり期待していなかったが、面白かった。かつての宿場町を再現していて、そこに配置された等身大のマネキンがリアルでシュールだ。
 天保年間の記録では、四日市宿には本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠九十八軒あり、東海道の宿場町では五番目くらいの大きさだったらしい。東海道といえば、宮~桑名間の「七里の渡し」が有名だが、宮と四日市湊は「十里の渡し」もあった。
 四日市は陸路、海路ともに人の行き来が多かった。
 常設展を出て、丹羽文雄記念室へ。
 丹羽文雄は郷土の作家だが、ちゃんと読んでいない。しかし文学館というのは、よく知らない作家のほうが勉強になる。丹羽文雄は、ゴルフ好きでホールインワンもしたことがあるらしい。あと「エイジシュート達成」がどうのこうのという説明文を読んだが、わたしはゴルフを知らないので、それが偉業なのかどうかはわからない。
 わたしが街道に目覚めるきっかけになった武田泰淳の『新・東海道五十三次』(中公文庫)にも丹羽文雄の話が出てくる。
 泰淳が四日市を訪れたのは一九六九年。日本四大公害のひとつ「四日市ぜんそく」が問題になっていたころだ。
 四日市を出て、武田泰淳と武田百合子は津の一身田町の真宗高田派本山に寄る。

《「丹羽文雄先生が、うちの宗派でしてね。四日市にお父さんのお寺があって」御影堂への長い廊下や縁側を通って、中年の坊さんが案内してくれた。「田村泰次郎さんも、四日市かその近くのはずです」》

《丹羽氏は昨年の暮れ、四日市の浜田町にある崇顕寺を訪れたさい、自分の生まれた寺の在りかが判らなくて、煙草屋で「崇顕寺はどこでしょうか」と訊いたそうである》

 崇顕寺は四日市市立博物館から駅の東側――旧東海道沿いにある(ただし、昭和二十年の空襲で全焼している)。丹羽文雄も「東海道者」だった。
 それから誕生日が自分と一日ちがいだった(丹羽文雄は十一月二十二日、わたしは二十一日)。
 今のわたしと同じ四十九歳のとき、丹羽文雄は、作家の健康保険を作るのに尽力し、文芸美術国民健康保険組合の第一号の保険証も展示されていた(保険組合の初代理事長に就任している)。日本文芸家協会の「文学者之墓」の建立も丹羽文雄の発案らしい。
 帰りに『文豪 丹羽文雄 その人と文学』と『伊藤桂一ミニアルバム 生誕百年・没後一年記念誌』の文学展パンフを購入する。

 四日市からは、四日市あすなろう鉄道に乗り、内部(うつべ)駅へ。地元では「内部線」と呼ぶ短い距離の鉄道である。
 久住昌之著『線路つまみ食い散歩』(KANZEN)に、「ナローゲージの四日市あすなろう鉄道」という章がある。あすなろう鉄道の軌間は762mm。車両も小さい。
 久住さんの紀行文は、一見、ゆるい旅をしているかんじなのだが、観察がほんとうに細かい。観光地でも何でもない町をよく歩いている。
 久住さんは線路沿いをつたって散歩し、赤堀駅を過ぎたところで次のような感想を述べる。

《道がまた線路と離れて少し歩くと、なんだか街道っぽくなった。
 と思ったら「東海道」の標識。おぉ、やはり何か普通の道路とは違う。
 言葉にしてはっきりどこがどう違うとは言えないレベルなんだが、やはり長い歴史を帯びた、風格のようなものがある。こういう味わいも、歩いて旅してこそ得られるものだ。しかも年をとってこそ、わかるオイシサだ》

 わたしは線路沿いの道を歩かず、電車に乗った。
 あすなろう鉄道に乗るのは二度目だ。前回乗ったのは二〇一七年の五月の連休だ(たまたまだが、開業762日目の記念列車に乗った)。もともとこの鉄道は近鉄の沿線のひとつ(内部線)だったが、二〇一五年に現在のあすなろう鉄道になった。
 あすなろう鉄道は、東海道と伊勢街道(伊勢参宮街道)の分岐点の日永の追分のあたりも通っている(追分駅)。
 二年前に乗ったときは、内部駅から近鉄の平田町駅行きの三交バスに乗った(バスはだいたい一時間に一本)。
 今回は内部駅から東海道の石薬師宿まで歩くことにした。
 内部駅を出て、横断歩道を渡り、内部川を越え、マックスバリュー采女店のあたり南へ向かう道に行くと旧東海道に入る。
 ところどころ「東海道」と書かれた三十センチくらいの板が街道沿いの壁についている。たしかに、「風格のようなもの」を感じる。
 金刀比羅宮(小さな祠)に寄り、うつべ町かど博物館でマップを入手する(博物館は閉まっていた)。
 すぐ近くに杖衝坂(史跡)がある。四日市宿と石薬師宿の中間くらいか。近くに芭蕉の句碑もある。「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」という句だ。
 街道を歩けば、三重で亡くなったヤマトタケルと三重で生まれた芭蕉に当たる。
 わたしが五十路を前に街道に興味を持つようになったのは、ふたりの先人の導きなのではないか――そんな気がしてならない。単なるおもいこみだが。
 坂をのぼったところに日本武尊御血塚社があった。
 東征帰りのヤマトタケルのからだは、杖衝坂あたりでボロボロで「足が三重に折れるほど疲れた」といったことが三重県の三重の由来とされる。ほかにもっといい県名の候補はなかったんかい。
 当初、石薬師までの東海道は、車の通行量の多い国道を延々と歩くのではないかと覚悟していた。旧街道があってよかった......とおもいきや国道と旧街道を行ったり来たり。
 ファミリーマート国一うねめ店でほうじ茶を買う。このあたりで再び旧東海道に入る。しばらく歩いていくと四日市市から鈴鹿市街へ。
 事前にあるていど地図で調べているが、現地に行ったら勘で歩く。鈴鹿市街に入ったら、東海道ではなく、南に向かって、まっすぐな道を歩いた。住宅街の道、畑のあぜ道みたいなところを歩いた。
 光福寺というお寺があり、そこから西に行くと、鈴鹿市考古博物館がある。まわりは畑ばかり。「なぜこんなところに!」とおもったのだが、そのすぐ近くに伊勢国分寺跡があることがわかった。伊勢国分寺跡あたりを歩いたが、その跡を見つけられず......。無駄足。否、散歩に無駄はない。
 地図に載っていない畦道を北に向かって歩き、国分町の信号のあたりに出る。
 再び旧街道っぽい道に入り、南西方面に向かって歩く。浪瀬川を渡る。
 国道の東海道と旧東海道を行ったり来たり。国道歩きは苦痛だが、その分、旧道に入ると嬉しい。
 北町の地蔵堂のあたりから、まもなく石薬師宿だ。
 地蔵堂で「信綱かるた道」というA4サイズのコピーのマップを入手する(ポストに入っている)。
 東海道石薬師宿の石碑があるところに着いたのは十五時四十五分。
 懐かしいとおもうことすらできないほど、石薬師の記憶がない。今回歩いてみて「なんか小学生のころ、自転車で通ったかもしれない」というデジャブ感はあった。
 徒歩と自転車だと町並の記憶の残り方がちがう。歩いた場所のほうが、記憶に残りやすい。
 石薬師宿は同じ鈴鹿市内の庄野宿と並んで、いわゆる「東海道本」では小さな扱いをされることの多い宿場町である。
 お伊勢参りをする人は、日永の追分から伊勢街道にそれるため、石薬師宿や庄野宿は通らない。
 東海道を利用する人も四日市から亀山、関あたりまでは余裕で歩けるので、この二宿はたいてい通過してしまう。
 上方から江戸に向かう人も東海道ではなく、暗越(くらがりごえ)奈良街道、初瀬街道、伊勢本街道を経て、伊勢街道を通るほうが楽なので、わざわざ鈴鹿峠を越え、石薬師宿や庄野宿に寄る人は少なかった。
 鈴鹿市内もJR関西本線沿線よりも近鉄沿線の平田町駅周辺のほうが町が栄えている。宿も平田町駅周辺に行けば、ホテルがあるし、店も多い。
 石薬師宿の北から南までの一・八キロの道の両脇のあちこちに佐佐木信綱の歌が書かれた立札がある。しかしゆっくり読んでいると先に進めない。
 東海道をすこしそれ、大木神社に寄る。「信綱かるた道」のマップには「延喜式神社。信綱が幼い頃に父と毎月参拝」と記されている。信綱の歌碑もある。セミが鳴いている。
 再び、東海道に戻ろうとしたら、道を一本まちがえ、石薬師小学校の前に出てしまう。
「この小学校、なんとなく見覚えがある」とおもったが、いつ何をしに来たのか、おもいだせない。
 佐佐木信綱記念館は石薬師小学校のすぐ裏だ。
 十六時五分。十七時までやっているとおもったら、十六時半閉館だった。ちょっと寄り道していたら、間に合わなかったかも。
 佐佐木信綱は一八七二年三重の石薬師生まれ(一九六三年没)。この資料館が竣工したのは一九八六年――わたしもそのころ鈴鹿にいたのだが、来館するのは今回がはじめてだ。
 佐佐木信綱は「夏は来ぬ」という唱歌の作詞で知られる歌人で、万葉集の研究家でもあった。
「鈴鹿市誕生に寄せた祝歌」も書いている。
 石薬師宿の小澤本陣跡を見て家路へ。
 わたしが生まれ育ったのは庄野宿の近くなのだが、今、母親が住んでいる家から、いちばんちかい東海道の宿場町は石薬師宿なのだ。
 佐佐木信綱記念館を出たあたりから小雨。信綱かるた道の地図が雨がよれよれになる(もう一枚予備をもらってこればよかった)。
 十六時四十分、石薬師寺に着いた途端、雨が激しくなる。土砂降り。ゲリラ豪雨か。
 石薬師寺には信綱、西行、一休の歌碑と芭蕉の句碑がある。
 彼らがわたしが石薬師寺にたどりつくまで、豪雨を止めていてくれたのかもしれない。
 しばらく雨宿りをしていると東の空はうっすら明るくなってきた。二十分くらいでやむか。とりあえず、十七時くらいまで待とうとおもっていたら、十六時五十五分ごろ、雨が弱まる。
 再び歩きはじめる。石薬師一里塚跡の前を通り、関西本線をこえる。
 東海道歩きはこれでおしまい。左折して定五郎橋を渡る。
 橋を渡ると珈琲屋らんぷ鈴鹿店がある。前に母とトシおじさんと三人で東海道の関宿と土山宿に行ったとき、出発前に寄った店だ。このあたりから、わたしの通っていた小学校の学区である。
 珈琲屋らんぷを出ると、母校の牧田小学校が見えた。久しぶりに寄る。卒業して三十八年になるが、あまり変わっていない。
 そこから鈴鹿ハンターに行き、ゑびすやのうどんを食べる。小学生のころから、この店のうどんが好きだった。
 鈴鹿ハンターの隣にはアイリスというショッピングセンターがあった。
 ハンターはステップ、アイリスはオンセンドという格安衣料品店が入っていて、帰省すると、靴下やらパンツやらおっさん向けのシャツを買っていた。アイリスにはドムドムバーガーと寿がきやがあった。中学のころ、部活帰りに友だちとよく行った。
 ハンターとアイリスができる前は、駅前に行商の人が来て、野菜なんかを売っていたと母から聞いたことがある。アイリスはもうない。
 地元で好きだった店にドライバーという父と毎週日曜日に通っていた喫茶店がある。チャーハンと卵焼きのサンドイッチが絶品だった。この店もない。
 最近、帰省するたびに母から小学校の同級生の訃報を知らされる。
 上京後、郷里の知り合いとほとんど会っていない。年賀状のやりとりもしていない。同窓会に呼ばれたこともない。
 わたしが上京した三十年前の同じ時期に親も引っ越してしまったので、気がついたら小学校から高校までの友人と音信不通になった。
 今回聞いた訃報は、小学五、六年のころ、いちばんよく遊んでいた友人である。クラスでいちばん背が高くて、スポーツ万能の強い人気者だった。
 数年前に神奈川県の会社で働いていると教えてもらい、会いたいとおもっていたのだが......。