第8回 新しい庶民酒をつくる東京の地域力 〈前編〉

3.酎ハイ原液を生みだした、焼酎の質の問題

 しかし先述したように、同社は業務用コンクジュースに加えて、江東区、墨田区、足立区、荒川区、そして台東区などの下町向け「ハイボール原液」の老舗でもあります。「売れるところに持っていった結果、販路が自然に分かれていきました」。販路を異にする複数の主力商品をもつのは、長年続いているメーカー特有の強みなのかもしれません。秦さんに、ハイボール原液について詳しく聞きました。
 「この商品も、創業後間もない昭和30年代の後半に開発されまして、今でも現役です。去年おととしのハイボールブームに乗り、生産量も伸びている、超ロングライフ製品なんです」
 開発経緯をうかがうと、「弊社の初代の工場長、西が開発したものです。当時の焼酎は、とても質の悪いものが広まっていたようで、臭いが鼻について飲めたものじゃない。そこで皆さん工夫して、お店ごとに、レモンや梅、ブドウの液を入れてみたり、お茶と割ってみたり、いろいろな試みがなされました」

 故・赤塚不二夫は、焼酎の臭い消しにはほうじ茶で割るといい、と語っていましたが、品質に問題のある焼酎を割って飲みやすくする工夫は、禁酒法時代のアメリカで密造酒を飲むためにカクテルが発達したことと、基本的には同じです。東京の地場のメーカー各社が開発したハイボール原液も、焼酎カクテルでした。

 昭和20年代の日本の密造酒・カストリに品質の問題があったのはもちろんですが、その後機械生産されるようになってからも、焼酎には雑味がありました。酒税法でいう甲類焼酎とは、連続式の蒸留器で工業的に生産されたアルコールを原料とし、36度未満のアルコール度数になるよう加水したものです。昭和35(1950)年、工業技術院(現・産業技術総合研究所)の開発したスーパーアロスパス式の連続蒸留機が導入され、不純物を完全に除去した純度の高いアルコールが生産されるようになりましたが、エタノールを水で割っただけでは味が足りませんので、単式蒸留器で蒸留した乙類焼酎を、全容量の5%未満に限って添加することが(ラベルにその旨記載しなくてもよい)、酒税法で認められています。

 この、乙類の醸造に不可欠のコウジカビが蒸留の際に熱分解して異臭を放つのが、大きな問題でしたが、昭和50(1975)年ごろ、蒸留器内部の圧力を真空ポンプで0.1気圧に減圧し、もろみの沸点を45度に下げて雑味成分を少なくする減圧蒸留法の導入で、ようやく解決しました(長澤一廣・著『この酒が飲みたい』参照)。さらに、炭素やイオン交換樹脂で濾過する精製過程を取り入れたことで、焼酎独特の酸臭を自在に除去できるようになります。これ以後、無臭に近い甲類・乙類焼酎の新商品が、続々と発売されていき、いまに至るまで、幅広い人気を集めるようになったのです。

 当然ながら、カンダハイボールの原液が開発された昭和30年代後半は、焼酎の異臭問題が解決されておらず、「どのメーカーの焼酎にも使えて、臭いが強くてもおいしく飲めることを開発目標にしました」。さらに、「当時、ビールは高級品で、サラリーマンにとって、ビールは経済的な負担がたいへん大きかったようです。ニアビール、ビールの代用品として飲んでもらえるように、色や香りを工夫しました」。今なお、ビールの酒税が大びん一本の値段の4割と高いのは、明治時代に舶来の高級酒として高税率を課した名残だといわれています(長澤・前掲書参照)。

 カンダハイボールの原料として、麦芽糖が使用されているのは、こういう理由があったのです。「いまの舌の肥えた人からすれば、ビールとは別物に感じられるでしょうが、当時としては、ビール風の色、泡立ちだけでも十分な満足が得られたのだろうと思います」
このエピソードは、「最初は商品説明でビール風飲料と言っていた」という天羽飲料の証言とあわせて、焼酎の炭酸割りに独自の素を加える酎ハイが、ウイスキーハイボールだけでなく、ビールの代替品として編み出されたことを示しています。

秦さんの話で驚いたのは、原液の味の組み立てが、開発当時、昭和30年代後半のレシピのままだということです。「それだけ時間が経っているものですから、怖くていじることはできません」
 しかし、今年、半世紀ぶりにハイボールの新製品が発売されました。「飲料業界にハイボールブームのリバイバルが起きたので、弊社もこの流れを前向きにとらえ、新たに『カンダ梅ハイボール』を開発しました」

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