11月6日(火)

 オール讀物11月号が「昭和がよみがえる」という特集を組んでいて、そこに村松友視「五十鈴」という短編が載っている。これを読んでいたら、昔のことをどっと思い出してしまった。とりあえずは、そこから引く。

「新宿駅の中央口の構内から右へ出て、線路に沿うような感じで歩き、突き当たりを上がれば甲州街道だが、その手前右にけっこう大袈裟な公衆便所がある。公衆便所にしては立派すぎる造りで、遠目にはそれとは見えぬたたずまいだ。その公衆便所の斜め向かいあたりに、「おにぎり・お茶漬け 五十鈴」という看板がある」

 村松友視の短編で描かれるのは、一九六〇年代末の「五十鈴」だが、私がよく通っていたのはそれから十年後だ。本の雑誌の創刊が一九七六年で、明治大学に通っていた千脇隆夫、天野正之と知り合ったのが一九七八年。それから配本部隊が出来るまで、よく五十鈴に行った。

 五十鈴は、奥に向かって馬蹄形に伸びるカウンターの外側に客が座り、その内側におばちゃんたちが入っている店なので、大人数で入ると隣の人としか会話できないことになる。だから配本部隊が三人以上になると、違う店に行くようになってしまった。千脇隆夫と天野正之、あるいは千脇隆夫と米藤俊明、という組み合わせのときに、五十鈴のカウンター席に座って配本の疲れを癒したのである。大集団を引き連れて池林房に顔を出すようになる前のことだ。

『本の雑誌風雲録』に千脇隆夫が寄せた文を引いておく。

「レンタカー時代になると、新宿南口にある三越の駐車場に車を置いた後、五十鈴に立ち寄るようになったのです。五十鈴で飲んだ酒は、いつもうまかったように思います。目黒さんの弁舌は冴え、小説の話、業界の話、女の話、学生時代の話etc−−いろいろ話してくれました」

 いまとなっては何を話していたのやら、まったく覚えていない。信濃町に事務所が移って人が増えてくると、もう五十鈴には入れないので、大人数でも入れる居酒屋を探してうろうろしたが、少人数のときによく行った店がもう一軒ある。五十鈴の斜め向かいにあった立ち飲み屋「日本晴れ」だ。この「日本晴れ」にはトイレがなかったので、村松友視の短編に出てくる「大袈裟な公衆便所」に行ったものだ。吉田伸子がまだ学生だったころで、彼女とも何度か「日本晴れ」に行ったことがある。五十鈴と違って、こちらは立ち飲みであるから一人客が多く、ということは会話というものがなく、みんなでテレビを見上げていた。そこに女子学生が入っていくものだから、しかも大声で話しだすから、いやはや目立ったものである。

 本の雑誌の学生諸君とは行かなくなっても、その後も友人とはよく五十鈴に行った。当時の女友達と、夕方6時から朝5時まで飲んでいたこともある。そのとき飲んだ日本酒は二人で二十八杯。あれほど飲んだことはその後もない。そのころカウンターの中で働いていたMさんと顔なじみになり、息子が結婚して家を出たのだが、なかなか帰ってこないという話を聞かされたことがある。Mさんは、上品な顔だちのご婦人だった。

 五十鈴は年配のご婦人だけが働く店だったが、ずいぶんあとになっていくと、その慣習は破られたようで、青年が数人まじってカウンターの中を動き回っていた。そのときMさんはもういなかった。まだ私が三十歳そこそこだったころだから、三十年前の話である。五十鈴も日本晴れもずいぶん昔になくなり、跡地には今やビルが建ち並んでいる。そこを歩くたびに、ふっと昔のことを思い出すのである。