第5回 茨城の七草のわらべ歌

 2015年の秋、鳥取の大山の丘の上でライブがあった。そのとき、鳥取のわらべうたを調べてみると、ちょうど大山町国信というところに伝わる「唐土の鳥が」という歳時歌を見つけたので、持って行って歌った。

  唐土の鳥が 日本の土地に
  渡らぬさきに
  せりやなずなや 七草そろえて
  繁盛 ホーイホイ

という短いものだ。このとき、田畑の害鳥や害虫を追い払うための鳥追いという行事と、正月7日に食べる七草とが密接につながっていることを知った。七草はそもそも、無病息災や五穀豊穣の願いから生まれた風習だ。田の豊作を願うという意味で、鳥追いと七草がつながることは何となく合点がいくが、正月の七草の話は知っていても、東京で育った私には鳥追いという風習はほとんど聞いたことがない。だから歌の中で七草と鳥追いの二つが合わさっていることが不思議だった。「唐土」という言葉が出てくることも、気になった。日本海に面し、大陸の存在を意識することの多かっただろう山陰地方に広がっている歌なのだろうか。
 鳥取ライブから一か月後に、茨城のつくばでライブがあった。すると茨城のわらべうたを調べていてもやはり、七草の歌が出てきたのだ。そこにもやはり「唐土」が登場していた。

七草なつな唐土の鳥が 渡らぬ先に ストトン ストトン(鹿島郡鉾田町)
七草なつな唐土の鳥の 渡らぬうちに すととん すととん と作れ(那珂郡美和村)
七草なつな 名のない鳥が鳴かないうちに ばんか ばんか ばんか(つくば市筑波)
七草なつな 唐土の鳥と日本の鳥が渡らぬ先に
とんとん ばさばさ とんとん ばさばさ(鹿島郡鹿島町)

 茨城の歌にはいずれも、大山の歌にはなかった不思議な「音」が登場している。これは、6日に摘んだ七草を歳神に供えたものを、7日にまな板に載せ、まな板をすりこぎでたたきながら歌っていたことに由来するのだという。そもそもは唐の説話で、老齢の両親を若返らせたいと思う男に帝釈天のお告げがあり、齢8000年のガチョウの秘術を授けられるという話がある。ちなみに茨城では「唐土の鳥」というと姑獲鳥という人間を害する鳥の妖怪のことを指すともいわれるが、このガチョウとかかわりのあるものか詳細は不明である。ともかくこのガチョウの秘術が、酉の刻からセリ、戌の刻からナズナ、という風に6日の夕方から夜通し七草を順に叩いていくというもので、朝たたき終えた七草で粥を作って両親に食べさせると若返ったという話に由来するらしい。ようするに七草は、健康や長寿、若返りを期待する儀式として伝えられてきた。 一方で、鳥追いはどんな歴史を持っているのか。本城屋勝によれば、農村行事としての鳥追いは、長者の荘園内で農民たちが鳥追いをしたことにさかのぼるという。それが次第に新年の芸能化し、平安中期にはすでに鳥追い芸能が存在していた。田遊びから発達した田楽にも、鳥追い歌に連なるものがある。愛知県鳳来寺の田楽は正月に現在も行われているが、その中で、次のように歌われる。

 苗代にとりては追うべきものあり、すくひ喰ふ小鳥、拾ひ喰ふ小雀...彼奴こそ憎い奴...東へさして追はんば、津軽や合浦、外の浜へ追ふべし...北へさして追はんば、越後や越中、外が浜へ追ふべし...天にさして追はんば天竺天の雲の上に追ふべし
下へさして追はんば、泥犂の底へとんと追ふべし(高野辰之編『日本歌謡集成 巻五』) 

 こうした新年の芸能をおこなった職能者たちは当初は神仏の権威と結びついていたが、室町時代以降徐々に賤視されていき、長者の鳥追いは、物貰いの鳥追いになっていった。

 北陸や新潟秋田などでは、「苗代田のおんばさ、鳥追うてくんさいせ」「能代のおじゃじゃ鳥コ追ってたもれ」というような歌も残っており、遊女や身分の低い女をも意味する「おんばさ」や「おじゃじゃ」たちが、芸能の担い手になっていったこともうかがい知れる。(本城屋勝「鳥追い歌の発生と伝播」『北方風土』66号)

 阿波踊りの衣装に名残がみられる鳥追い女も、非人の女大夫であり、平時は菅笠に三味線で歌い金銭を乞うたが、正月は着物も新調し、編笠になり、普段とは節を変えて家々や商店を回った。これを鳥追い女という(喜田川守貞『近世風俗志(一)』岩波文庫)。それでは彼女たちはどんな歌を歌ったのか。三田村玄竜は、そうした歌の内容が後世に伝わるようにと書き残している。

やんらめでたや。やんらたのしや。せぢやうやまんぢやうの鳥追がまゐりて福の神をいはひこめ。(中略)お長者のみうちおとずるのは誰やらふ。右大臣に左大臣。関白でんの鳥追。さらば追へ聞かふやふ。聞召さば追ひまんしょう。(中略)
七くさがござりて。摘む菜はないなに・ごぎゃうたの草。すすぐさはこべ。春田のなづな・かような若菜を・摘みあつべさふらうて。福いけにすすいて。徳いたにのせて・かうらい庖丁。日本ンの鳥とうのとりと。わたらぬ先にてしりてうと祝ふた。(三田村玄竜『江戸の珍物』)

 かつては、鳥追いが「お長者」とつながっていたことから語りはじめ、七草の風習にも触れている。江戸で鳥追いといえば、鳥追い女を意味し、人々はこの正月の鳥追い女の歌を、金銭を求められることを時に面倒に思いながらも、年始の風物として毎年受け取っていた。
 やがて農村行事としても大人たちが実際に鳥を追っ払う光景は少なくなり、鳥追いは子供たちの祭りになっていった。鳥追棒や祝い棒と言われる棒を手に、音を出しながら、鳥追い歌を歌うという形が多い。これらの棒は、かつては女性の尻をたたいて子宝を願った名残とも言われ、ここも緩やかに人間の繁栄から五穀豊穣へと祈りが繋がっているようだ。鳥追いは今でも子供たちが村をめぐる小さな祭りとして残存している地域や、群馬の中之条のように後に鳥追い太鼓なる太鼓がいくつも作られていき、それらが重要有形文化財となって、太鼓が町内を引き回される大規模な「鳥追い祭り」として保存会までできているところもある。棒で音を出しながら歌う点は七草に通ずる。鳥追い歌から七草歌が生まれたともいわれるが、鳥追いは鳥を追っぱらうための音であり、七草は健康祈願の儀式の中に組み込まれている音だ。七草の歌が面白いのは、「たたく」音の意味するもの、つまり鳥を追い払う音と、七草の儀式で草を打つ音とが歌の中でまざり、せめぎあうところだろう。
 鹿島郡鉾田町のように、シンプルなものは、鳥追いの風景をイメージすることもできるし、七草を切っているイメージをすることもできるが、那珂郡美和村のように「唐土の鳥が渡」る前に「すととん すととん と作れ」と、「作れ」が入ってくると「すととん」が七草の音としてのみ、表現されている。鹿島郡鹿島町のように、「とんとん」と「ばさばさ」が繰り返されると、単に「とんとん」に驚いて飛び去る鳥の様子のようにもとれるし、七草の「とんとん」によっても悪いものが逃げていくような、呪術性がたちあがる感覚がする。「ばんかばんか」も何の音なのか、大した意味はないのかもしれないが、不気味なまじないのような感じを受ける。

 子供たちの祭りになった鳥追いは、どんとやきの風習ともつながっている。祝い棒で横木をたたいては歌い、鳥追いをするだけでなく、子供たちだけですごす小屋を作ってそこで煮炊きや寝泊りをしてすごすのだ。この小屋が「ワアホイ小屋」とか「ホンヤラ堂」とか呼ばれ、数日間子供たちが主役の楽しい祝祭となった。この仮小屋を最後にどんと(どんどん)焼きとして燃やすところも多いそうで、今でいえば冬の子供キャンプのような感じだろう。祝い棒が子宝をさずかる願いを込められたものであったことは触れたが、このどんと焼きも道祖神を祝う儀式と言われ、二重にも三重にも五穀豊穣や多産の願いがかけられている。子供たちがどこまでその意味を知っていたかはわからないが、柳田国男は「その日の面白さは、白髪になるまで忘れずにいる者が多い」としている(柳田国男「鳥小屋の生活」『こども風土記』)。
 この小屋も、雪国では雪の櫓となり、茣蓙を敷いてそこで同じようなキャンプ様の活動が行われた。

 小童等ここにありて物を喰ひなどして遊び、鳥追歌をうたふ。その一ツに「あのとりや、どこからおつてきた、しなぬのくにからおつてきた、なにをもつておつてきた、しばをぬくべておつてきた、いばのとりもかばのとりも、たちやがれほいほい おらがうらのさなへだのとりは、おつてもおつてもすずめすはどりたちやがれほいほい」(鈴木牧之「北越雪譜」)

「しばをぬくべておつてきた」というのは柴を束ねたもので鳥を追ったということらしい。「おってもおっても」鳥を追いきれないと描写するのは、それだけ豊作の秋を迎えるぞという予祝の側面もあるという。面白いのは、「しなぬのくに(信濃)」から追ってきた、とあることだ。つまり、茨城や鳥取で歌われた「唐土」は、歌われる土地によって様々な場所に変わり、日本と外国、という意識よりもその土地とそれ以外の遠い場所という感覚であり、歌う人々の地理認識や世界認識を表しているともいえそうだ。例えば山形と石川の鳥追い歌を見てみよう。
 
  かしら切ってしっぽ切って
  さだらにふっこんで、
  さんどの島まで追い流せえ(山形)

  追うてもたたず、追わいでもたたず、
  たたずの鳥を、頭切って塩つけて、
  沖ノ島へながして(石川)

「さだら」は桟俵、「さんどの島」は佐渡島、「沖ノ島」は能登半島と歴史的にも関係の深かった隠岐の島のことだろう。
 青山宏夫は、どこへ追うか、どのように追うかという視点で鳥追い歌を分析し、塩によって害虫祈願をする例などをあげて、害鳥という災厄を塩で祓い清める意味があり、桟俵などの藁製品もこの世のものを異界に送る呪力を持つと信じられてきたと指摘する。また日本海側は国土の北限である佐渡やその先にあるとされた鬼ヶ島、太平洋側では蝦夷や遠島、その先の鬼ヶ島に追うと歌うものが多いとしている(青山宏夫「鳥追い歌に関する地理学的覚書」)。
 鬼ヶ島はもちろん、想像上のとてつもなく遠い島、異界というニュアンスが濃厚だが、鳥取や茨城の鳥追い歌に歌われた「唐土」もまた同じような異界としてとらえられていたのではないだろうか。果てしなく遠い異界からやってくる鳥、その鳥が害鳥であるために清めて、再び異界へ送り返す。そのために棒で追い払うだけでなく、七草の呪力が必要とされたのかもしれない。鳥追い歌を探していると、こんな田植え歌もみつけた。

  一二の枝に
  たうどの鷹が巣をかけた
  其巣の中をのぞいてみれば
  黄金の卵九つあった
  一つとっておかみにあげた
  八つのちゃうじゃなるわいな
  (中野城水編『越佐民謡十三七ツ』) 

「たうどの鷹」が9つの卵を産んで一つおかみにあげて残り8つだけども、それだけで8人長者が生まれる、というわけだ。鳥追い歌の「唐土の鳥」は害鳥だったけれど、こちらは明らかに益鳥である。「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に」というフレーズだけ聞けば、古今中国からは迷惑なものが流れてきたんだな、などと毒づく人がいそうだが、昔の人の「唐土」観はそう単純ではなさそうだ。また、青山は鳥を「鬼ヶ島」に追いやるというフレーズについて、狂言の「節分」や「宝の槌」を例に「鬼は理想郷たる蓬莱に住むと考えられていた」とも述べており、鳥追い歌には、単なる遠方というよりも、自分たちの世界とは異なる世界、もしかしたら素晴らしい場所かもしれない未知の異界が想像されているのではないだろうか。
 茨城の「七草なずな」は、1フレーズが短いのでいろいろな地方の少しずつ異なる歌詞をつなげて歌っている。鳥追いの祝い棒でたたく音のように、七草を叩き切る音が連想できるように、跳ねた感じで弾くが、一人で演奏するよりは、複数で打楽器もたくさんいれてやったら楽しい曲であり、そのバージョンは夏に発売予定のアルバム「私の好きなわらべうた」の中で聞いていただければと思う。

2016年5月7日 大阪ワンドロップ(アップライトピアノ)