第6回 新潟の風のわらべ歌

 去年の秋、新潟上越市でのライブがあった。打ち上げに集まった人々の雰囲気も含めて不思議に密度の濃い時間だったのだが、その日やった「風の三郎」「風の神様」という一続きで演奏した二曲の新潟のわらべうたについて、終演後お客さんの一人から
「ごーってやってくるあの風。確かにあの風を表現したもの、と感じました」
と感想をいただいた。残念ながら私にはその雪国に吹く風を想像できないのだが、その風を知る人が、このように土地に伝わって来たわらべうたにぴーんと反応してくれることが何よりうれしかった。

風の三郎 ごーんごんと吹くな
あしたの晩に餅ついて あげろあげろ
(長岡市宮内町)

風の神様 ごっと吹いて
くらっしぇ くらっしぇ
あしたの晩に 餅ついて
酒買って あげる あげる  
(小千谷市首沢)

 二つの歌は、おなじ風を歌ったわらべうただが、一つは「吹くな」といい、一つは「吹いてくらっしぇ」と歌う。正反対の願いが主題になっているのだ。共に餅をあげることになっているから、三郎も神様もおそらく同じものとして歌われているだろう。風が吹いてくれ、と頼んでいる「風の神様」は凧遊びなどに興じる子供たちの中からのちに発生したもののようだ。しかし、全国に分布する風のわらべうたは圧倒的に「吹くな」と歌うものが多く、農作物を荒らす大風を免れるように人々が歌ってきた。山火事を起こしたり、厳しい冷気を送り込む存在でもある風に対して、人々はその勢いが弱まるように願ってきたのだ。

 風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱をだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。
「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。
みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。
「やっぱりあいつあ風の又三郎だったな」
「二百十日で来たのだな」(宮沢賢治「風の又三郎」)

 二百十日とは、現在の暦では八月末や九月一日ごろにあたり、現在全国に残っている風祭もこの辺りに行われているものが多い。長野の佐久では「二百十日は荒れる日」という言い伝えがあり、他の地域にしてもこの頃の風の具合で作柄が大きく変わったため、風の神に対する儀式が行われるようになった。その祭祀には大別して、由緒ある神社に伝えられる国家レベルでの儀式と、その末社などから広まった農民信仰とに分けられるという。神社では奈良の龍田神宮、伊勢神宮の風宮、諏訪大社も風の神を祀り西日本にも及ぶ一方、農民信仰は主に関東、甲信越、東海と東日本に見られ、二百十日ごろに屋根や庭先に風を切るとされる草刈り鎌をたてる風習は、諏訪大社の御柱祭でも木に打ちこむ薙鎌に連なるものとされる。鳥越皓之はこうした風の信仰について、次のように指摘する。

 大なり小なり、諏訪神社や諏訪湖にベクトルが向けられていることに注目すべきだろう。風の三郎の分布空間の中心的な位置に風の神を祭神とする諏訪大社(諏訪神社)があることは無視できない。(鳥越皓之「風の神と風の三郎」『生活文化史 No.58』日本生活文化史学会、2010)

 宮沢賢治の作品のおかげで全国的には「又三郎」の方が有名になったが、風の神の名としては「風の三郎」が最も多い。Wikipediaでは「又三郎」は賢治の造語であろうという説を載せているが、新潟県東蒲原郡の上川村(現阿賀町)のように、風の神を「またさぶろう」と呼んでいた地域も少数あったようで、賢治の故郷岩手でも同様に呼ぶ村もあったかもしれない。
 何故風の神を三郎というのかについては諸説あり、新羅三郎とよばれた平安の武将源義であるという説、陰陽五行説で風の死や風の追放を意味する配置の数字が擬人化されたという説、諏訪明神の化身とされる甲賀三郎であるという説など様々だ。鳥越は、昔話や浄瑠璃にもなった甲賀三郎の伝説の中で、「三郎が二人の兄弟に穴から落とされ、再びそこから出てきて龍となり諏訪湖へ飛んで行った」という筋書きがあることに触れ、風が山中の穴から出てくるためと考えて風穴を祀ってきたこととの関連も指摘している。
 現時点の風の信仰について最もまとまった研究を進めている田上善夫は、諏訪の主神とされるシャクジ信仰の分布と風の三郎信仰の分布が重なることを指摘し「風の祭祀と深いつながりをもつ地は、縄文にも遡る根源的な信仰の地とみることができる」としている。シャクジとはミシャクジとも、塞ノ神とも言われ、石や樹木として祀られるという。これらは大和文化ではない、縄文の信仰に派生するもののようだ。漢字では石神、石神井、社宮司、尺神、赤口神など地方により幾通りもの表記のバリエーションがあり、信仰の古さとその広がりを感じる。東京の人にはなじみのある石神井公園の石神井も一般に「石神」からの説明がなされるようだが、それは後の当て字であり、音としてシャクジと発音される信仰がその地域にもあったということらしく、興味深い。
 静岡県では「風の三郎」ではなく「風の三九郎」と呼ぶところもあり、これについて木村博は次のように述べている。

「風の三郎」と、信州方面でよくいわれる道祖神祭りの「三九郎」とが混り合った結果であろう。道祖神信仰と風神信仰がこのような所でこのような形で習合していることは面白いし、注意すべきことであろう。(木村博「風神信仰論」『日本民俗学86』日本民俗学会、1973)

 これも風の三郎が諏訪を媒介にしてシャクジ(塞ノ神)に連なる神であるならば、道祖神は塞ノ神とも呼ばれるため、風の三九郎は自然な呼び名ということになるだろう。

 私はふと、ここ半年ほどの個人的な、しかし重要ないくつもの出会いについて考えていた。不思議なことにこの期間に3人ほど続けて、目に見えないものを感じる人々に出会ったのだ。巷でいえばスピリチュアルな、ということになってしまうのだろうか。しかし、3人ともそれを商売にしている人ではない。それぞれに本業があり、そのかたわら、見えないものを見、神様の気配を感じながら祈りを秘めて生きているひとたちだった。そのうちの二人は面白いことに古墳巡りが趣味だった。こんな変わった趣味の人と立て続けに出会うとはやはりただ事でない。私はすぐさまこの二人を新宿の喫茶店で引き合わせ、案の定彼らにしかわからないマニアックな話題で盛り上がっているのを、ニコニコ満足して聞いていたのだが、この古代史にも精通する二人が注目している土地が諏訪だった。そして彼らが諏訪の先に見ているものは縄文であり、縄文の信仰であった。
 二月のある日、私は明治神宮の原っぱにいた。明治神宮には一度しか行ったことがないが、そのまわりの広大な敷地の原っぱには、子供たちを連れたり、連れて行きたいと思う人を連れてよく出かけるようになっていた。そして、その日、枯れた色の冬の芝生の原っぱで、私は視界の片隅に、ぴょんと飛んだ何かを見た。こんな時期にバッタが?と思い、そのあたりを凝視すると、飛んだものは小さな枯葉だった。しかし驚いたことにその小さな風で飛んだと思われる葉っぱは動きを止めることなく、その場所でふわりふわりとゆっくりと回転していた。いくつもの小さな枯葉たちがそれにお供していた。つむじ風というにはゆっくりで不規則な動きだった。風ってあんなに長時間自由に、ゆっくりと続くものかしら。私には何か見えないものがダンスしているような、そんな気がしてならなかった。一緒にいた人も不思議がっていた。帰って早速、3人のうちの一人にメールしてみると返事が返って来た。
「それはいいものをご覧になりましたね」

 そんな経験もあって、今の私には風の三郎も又三郎も、風の神様という言葉も大変すんなりと入って来る。たぶん賢治もそんな自然の中に神や精霊を見、目に見えぬもの、動かぬものや語らぬものたちの存在を感じながら物語を紡いでいった人だと思う。いや、賢治だけではない。その時代の人々は同じように自然やさまざまな神への信仰を持っていた。
 冒頭のわらべうたの残る新潟でも、地域によってさまざまな信仰の形態があったようだ。男子が山へゆき、竹で鳥居を作り、手作りの旗を立て、団子を配る行事となっている新発田市赤谷の例、二百十日に赤飯や餅を携え「風の三郎山」に登った二王子山麓の例、夕顔を輪切りにして部落の入口の細木にさして祈る南蒲原郡下タ村大谷の例など、枚挙にいとまがない。中でもユニークなのは、早朝村の入口に小屋をつくり、通行人に打ち壊してもらい風に吹き飛ばされたことにして、風の神が避けて通ることを祈るという風習のあった東蒲原郡太田村の例だ。もしこの風習が残っているならぜひ見に行きたいと思い、この地区の図書館に問い合わせてみたが、司書の人は「風の三郎」という単語も聞いたことがないようで戸惑っていた。後から下さった電話では、今70代くらいの知り合いのおじいさんが、自分のおばあちゃんから風の三郎について聞いたとのことです、という返答だった。60年前におじいさんがその話をおばあさんから聞いたとしても、その時、1950年代にはすでに失われていた風習だろう。
 一つの風習が失われていくとはどういうことだろうか。私はどこか、生活形態や家族形態が変わり、自然にそのようなものが廃れて忘れられていくイメージばかりがあった。しかし、前回鳥追いについて調べたときに読んだ論文に次のような一節を見つけた。

 現在、富山県内で鳥追いを実施している地域は数少ない。昭和三十年から四十年頃、生活改善運動の影響を受け、古い習慣は弊風とされ、鳥追いも同様でありしだいに衰退した。(後藤麻衣子「富山県における鳥追いの地域性」『とやま民俗No.80』平成二十五年)

 近代化や合理化という名のもと、複雑な習俗や効用のはっきりしない習慣は迷信や弊風とされて意図的に消滅させられてきた歴史があった。ショックだった。生活改善運動の歴史というのは大正まで遡り、主に「勤倹」な生活を推奨してきた歴史があるが、地域によってそれが入り込んだ時期は異なるようで、人口が増えてきた地域から順に、そうした運動が持ち込まれていったようだ。小田嶋政子は北海道伊達市の冠婚葬祭の簡素化の運動が1960年に持ち込まれ、様々な風習がこの時期失われたことを報告している(小田嶋政子「生活改善運動と婚姻・葬送儀礼の変化 北海道伊達市の事例から」『日本民俗学』210 1997)。上の富山の鳥追いが消えた運動も、昭和30年から40年にかけての運動であり、戦後10年20年と日本が敗戦から立ち上がっていく過程で、全国的にそのような「弊風」が失われていったことが想像できる。
 何かを得るとは何かを失うことかもしれない。けれど、その失うものの価値に同時代のどれだけの者が気づけていただろう。気づけていた人がいても、偏屈だとか頑固ものだとか、そんな風に笑われたりして相手にされなかっただろうか。失って取り返しのつかないほど時間がたって、人はその意味をようやく理解するのだろうか。もはや見ることのできない新潟太田村の小屋壊しの風の祭祀に未練を覚えつつ、司書の人への問い合わせの電話を切った。

 風の三郎信仰は実は八丈島にまで及んでいるという。伊豆半島全体ではこの信仰は小正月の団子とかかわりがあり、風の三郎のための大きな団子を作る風習が存在した。三郎は神であるが、同時に子供のようでもある。風の又三郎もそうだし、北風小僧の貫太郎という子供向けの歌が昔あったが、あの小僧のイメージも近いかもしれない。「大サム小サム山から小僧がやってきた」というわらべうたは全国的に有名だが、伊豆の場合は「大サム小サム山から小僧が泣いてきた 団子の一つもくれてやれ」となる地域が多いことを前述の木村は「風神信仰論」の中で報告している。腹が減って泣き騒ぐ子供に団子をやろうか。そう思うことで、時にはひどい災禍をも引き起こす寒風や大風の厳しさを受け止める。「団子の一つもくれてやれ」という優しいフレーズに触れると、やりきれない思いを次なる祈りに変えてきたきた人々の姿が浮かび上がるかのようだ。冒頭の新潟のわらべうたもまたその系譜であろう。子供のような気まぐれな風の神と人々との応酬は、日本のあちこちに、たくさんの風の歌と、興味深い風習を生んできた。残念ながら風習の多くは消え、歌もほとんどが途絶え、30年前にかろうじて残された楽譜のおかげで私は今、貴重な風の歌を歌うことができるのだ。

*今回の文章に付すライブ音源は現在準備中、後日アップする予定です。

2016年11月12日 センダイコーヒー(アップライトピアノ)