第8回 京都の雪の歌

 先日蔵王の北原尾へ取材へ行った。北原尾の原尾とは、カロリン諸島にあるパラオを指す。戦前南洋群島と呼ばれ、日本が大正4年から委任統治した島々の一つだ。ここに、多くの農業移民が渡った。東北や北海道からの移民も多かった。彼らはさとうきびやパイナップルを作り、パラオ産のそれらは日本へと送られた。しかし、日米の戦争に巻き込まれジャングルで飢餓に苦しみながら終戦を迎えた彼らは、再び日本へ帰った。しかし自分たちの土地はない。未開の土地の開拓、パラオのジャングルで苦しんだのと同じくらいの苦労が戦後の日本で待っていた。それでもパラオ帰りの人々は力を合わせて土地を開き、「細っ原」と呼ばれていた土地を「北のパラオだ」と「北原尾」と命名した。話を聞かせてくれた工藤静雄さんとは、たまたま1月にパラオを訪れた際、現地でお会いした。両親が移住した工藤さんはパラオ生まれ、北原尾農事組合の組合長を務め、パラオの訪問も一度や二度ではない。今年1月常夏のパラオから北原尾へ帰ってみたら、雪がたっぷり降っていて家のすぐ前で車が動かなくなってしまったという。
「車庫にいれようと思ったら入り口でとぽんて止まっちゃって。今の雪は湿ってるから、しまるんだな。昔は箒ではいたら掃けたと。今は重くて掃けない」
 何気ないその話で思い出したのは、数年前ライブで仙台を訪れたとき積もっていた雪のことだった。そのさらさらふわふわとした触感に、これが粉雪というものか、と感動した。東京で育った私は、積もればずっしり重く、手袋でにぎればざりざりとした触感を伝える雪しか知らなかった。仙台の街を歩きながら、北国の粉雪はしみじみといいものだなと思った。

「『降れ降れ粉雪、たんばの粉雪』といふ事、米搗き篩ひたるに似たれば、粉雪といふ。『たンまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。『垣や木の股に』と謡ふべし」と、或物知り申しき。
昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられける由、讃岐典侍が日記に書きたり(『徒然草』第181段)

 温暖化で湿った今の雪と違って、昔は江戸でも京都でも粉雪の降ったものか、兼好法師が「或物知り」の言葉を上のように伝えている。粉雪の粉は、米を挽いてふるった時の粉のような様子を指しているらしい。讃岐典侍日記が書かれたのは、平安末期。兼好法師にとっては250年くらい前の話だ。

「降れ、降れ、こ雪」と、いはけなき御けはひにておほせらるる、聞こゆる。こはたそ、たが子にかと思ふほどに、まことにさぞかしと思ふにあさましく(『讃岐典侍日記』下巻)

 讃岐典侍は堀河天皇のそばに仕えた女官だった。天皇の死後、幼い鳥羽天皇の下に仕えることになるが、その対面の日、無邪気に粉雪の歌をうたう子供を誰かとおもったら鳥羽天皇であった、という場面だ。
 その当時からあるとしたら、900年近くの歴史を持つフレーズである。『京都のわらべうた』の楽譜集を眺めていてこの歌を見つけたとき、そのメロディの美しさに衝撃を受けた。

 雪やこんこ あられやこんこ お寺の柿の木に いっぱいつもれこんこ(旧京都市城)

 短調か長調か問われれば、短調だろう。しかし、そうした分類さえ陳腐に思えるほどメロディそのものが哀感を残すと思った。雪の解けるような余韻だ。その印象は、童謡になった「雪やこんこ」のイメージとかけ離れているために強く感じるものだろうか。「柿の木」は地方の類歌でそれぞれ異なり、越後の「梨の木」、薩摩の「山椒の木」などがある。
「こんこ」というのは、「こんこん」の「ん」が抜けたものだが、私自身「こんこん」が何かあまり深く考えないまま、歌ってきた。雨はしとしと、雪はこんこん。降る様を表しているのだろうか。北原白秋は「こんこんと雪が湧いて降ってくる」(「雪こんこん」『お話・日本の童謡』)という使い方をしており、「泉の水がこんこんと湧く」と同じ、次々とあふれてくるようなイメージを抱いたようだが、若井勲夫は「雪が」でなく「雪や」となっているのは呼びかけであり、「雪や来む来む」であると指摘した(『京都産業大学論集 人文科学系列』第38号)。雪よ来い、これぞわらべうたという感じがする。雪を喜んで、もっと降れというのはいつの時代も子供たちだ。
 松永伍一はもう少し、違う解釈をしている。「春は花なつほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」(道元法師)「雲を出でて我にともなふ冬の付き風や身にしむ雪や冷めたき」(明恵上人)のように、自然を愛で、自然に吸収されていくような鑑賞者の視点ではなく、

上見れば 虫コ 中見れば 綿コ 下見れば 雪コ(秋田のわらべうた)

のように、地面に立ち降ってくる雪の様子をしかと観察する主体、生活者としての視点だ。「お寺の柿の木に一ぱいつもれ」という歌詞にも雪と対等な姿勢があり、それは自然を向かいにおいて「いどむ」態度であるとしている(「わらべうた考」『定本 うたの思想』)。
 その上で私が親しんできた「雪」を改めて眺めてみよう。明治44年『尋常小学唱歌』第二学年用に掲載された歌は次のものだ。文部省唱歌ゆえ、作詞者不明である。

一 雪やこんこ霰やこんこ。
  降っては降ってはずんずん積る。
  山も野原も綿帽子かぶり、
  枯れ木残らず花が咲く。
二 雪やこんこ霰やこんこ。
  降っても降ってもまだ降りやまぬ。
  犬は喜び庭駆けまわり、
  猫は火燵で丸くなる。

 綿帽子という言葉は「白い帽子」という以上に深く考えたことがなかったが、和装の結婚式で花嫁が頭にかぶる大きな白いあの被り物を指すのだという。「昔は家で婚礼をしていたので、子供たちは花嫁姿を見る機会が多く、どの子もその白い綿帽子の美しさを知ってい」た(池田小百合『童謡・唱歌 風だより』)。阿毛久芳はこうした雪の擬人法や、犬と猫の対句は「日本の雪景色の統一的イメージ」を生み出したのではないかと指摘する(『國文學』平成16年2月臨時増刊号)。確かに、ここには外に出て子供のように雪を見つめる人間はいない。もっと降れ、と浮き立つ心もない。ただ、そのような光景として「認識する私」がいる。この「私」がどこにいるかもわからないが、「火燵」から庭を眺めているような気もする。子供のための歌ではありながら、大人の視点から書かれた歌のようにも感じる。そもそも「こんこ(来む来む)」と歌いながら、「まだ降りやまぬ」というところで捩じれている。「こんこ」はこのとき、すでに意味あいまいな「音」として使われているのだろう。
 そんな文部省唱歌も、作られた30年後の1941年には学校教科書から外され、戦後二年たって復活している。これについて池田は「父や兄が戦場で、お国のために戦っている非常時に、この平和な歌は、省かれて当然だった」としている。今の感覚からすれば、ここまで「害のない」歌が、排除されたということが不可解でもあるが、そのようなささやかな幸せさえ否定されたのが戦争の時代、ということか。戦後すぐに掲載が復活しているところを見ると、学校で教えられていた30年で冬の歌として広く定着したのだろう。
 自転車に三番目の娘を載せて保育園まで行く途中、私は大体歌を歌っている。京都の「雪やこんこ」を歌っていた時期もある。三女はその時は聞いているだけで、あとからちゃんと歌を再現し、驚くことがある。ちゃんと聞いているんだねえ、と言うと、ちゃんと聞いているんだよ、と得意そうに言う。お姉ちゃんたちは保育園で「土方さん」とか「生活保護の」とか私の歌を歌って、先生に驚かれたことがあるけれど、この古くてうつくしい「雪やこんこ」をお前が歌ったら、それもまた、先生はびっくりだろうねえ。