WEB本の雑誌

ホームグラウンド
『ホームグラウンド』
はらだみずき(著)
本の雑誌社
2012年2月20日搬入
価格 1,575円(税込)
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大切にしまっておいた夢はあるか?

『サッカーボーイズ』の著者が描く、ひとつのグラウンドと三代にわたる家族の物語。

サッカーをする場所を探し求める親子。校庭の扉は閉め切られ、公園からも追い立てられたふたりが、偶然たどり着いたのは、緑の芝生がどこまでも続く広場だった。芝生の向こうには、手をふる老人が立っている......。

いったいだれが、なんのために、このグラウンドをつくったのか?

立ち読み 「第一章 グラウンド探し」より

 黒いペンキを塗り重ねられた鉄扉には、太い鎖が巻きついていた。まだ新しく、やわらかな春の日差しに鈍く光っている。森山和彦は、息子の颯太と一緒に、その小学校の校門越しに土のグラウンドを眺めていた。
 子供たちの掛け声が風に運ばれてくる。砂ぼこりの舞うグラウンドでは、地元の少年野球チームが練習をしていた。コーチがノックをする守備練習。ときおり、外野の選手がボールを後逸して遠くまで転がっていくものの、グラウンドの片隅であれば、ふたりでボールを蹴るスペースくらいありそうな気がした。
 父親の背中に隠れるようにして立った颯太は、少年用4号球のサッカーボールをしっかりと小脇に抱えていた。兄から譲り受けたボールは、縫い目がほつれ、黒い五角形のパネルと白い六角形のパネルの一部が、今にも剥がれそうだ。
 颯太の瞳に、背の高い新緑のプラタナスが映る。手のひらに似た大きな葉が「おいでおいで」と手招くように、門の向こうで揺れていた。
 和彦は、鉄扉に針金で括りつけられた看板を見つめた。
 
 許可なく校庭の利用を禁止する。 学校長
 
 去年までは、休日でもこの門は開かれていた。だからグラウンドへ気兼ねなく出入りすることができた。校長が変わったせいだろうか。おそらく不審者の侵入対策の一環なのだろう。ときどき、このあたりにも変質者が出没すると聞く。住宅街だというのに、最近はホームレスのうろつく姿もめずらしくない。こうして門に施錠するのが、一番手っ取り早いやり方なのだ。鎖と南京錠を買ってくれば、それで済む。
 いずれにしても、自分たちは歓迎されていない。そんな印象は拭えなかった。練習中の野球チームにも、やはり気が引ける。
「いこうか……」
「うん」
 颯太は抗わなかった。たぶん同じように感じたのだろう。
「どっか、いい場所ないかなぁ……」
 颯太は名残惜しそうにグラウンドをふり返ると、つぶやいた。歩道の脇に溜まった桜の花びらを、蹴散らして歩く。桜は先週まで見事に咲き誇っていた。
「小学校の校庭は、土曜日はサッカークラブ、日曜日は野球のチームが使ってるから、やっぱりだめそうだな。──クジラ公園でやっちゃおうか?」
「でも、あそこ、サッカーしちゃいけないって、タケちゃんが言ってたよ」
「タケちゃんって?」
「同じクラスの子、サッカースクールに通ってる」
「そうなんだ……」
 小学校から森山一家が暮らすマンションに帰る途中に、児童公園がある。正式名称は不明だが、地元の人は「クジラ公園」と呼んでいる。公園はツツジの生垣を挟んで、遊具などのあるエリアと、なにもない土の広場に分かれている。遊具のあるエリアには、すべり台とシーソーと砂場と三段階の高さの鉄棒があり、そしてなぜだか背中の塗装の剥げたクジラが一頭だけ泳いでいる。クジラ公園という名前の由来らしい。
 広場は、親子でボールを蹴るにはもってこいだったが、やはり看板が立っている。
 
 〈注意〉
 ゴミは持ち帰りましょう。火気の利用はできません。
 野球、サッカーなどの危険なスポーツはできません。
                  公園管理事務所
 
 和彦は立ち止まった。
 颯太は不安そうに眉根を寄せた。
 ふたりは、週末になると、ボールを自由に蹴れる場所を探していた。
 小学校に入学した颯太は、サッカーに目覚めた。中学校のサッカー部で活躍している兄の影響にちがいない。年の離れた兄弟だが、颯太はお兄ちゃんが大好きで憧れているのだ。最近では小学校に入る前からサッカーを始める子が増えているらしいが、颯太はまだどこのサッカークラブにも所属していない。スクールにも通っていない。そのくせドリブルがうまかった。
「どうしようか?」
 颯太は首をかしげて、父親の顔を見上げた。
「そうだなぁ、なかなかいい場所、見つからないな」
「無理かなぁ……」
「簡単にあきらめんなよ」
 和彦は自分を鼓舞するように言った。「そうだ、青空運動公園はどうだろう。あそこはこのあたりで一番でかい公園だって、ママが言ってたよな。ちょっと遠いけど、車で行ってみるか?」
「うん、そうだね」
 ふたりは気をとり直して歩き出した。
 
 先月のことだ。和彦と颯太は、いつものように自宅マンションの中庭でボールを蹴っていた。すると、ツバのある帽子を目深にかぶったクリーム色の作業服を着た男が、管理人室前のホールからこちらを見ていた。痩せた老人だった。しばらくして男がコソコソと近づいてきた。
「あのう、ここでサッカーするのは、やめてもらえませんか」
 男は言うと、最近変わったばかりのマンションの管理人だと名乗った。度の強いメガネの奥の小さい目が泳いだ。
「えっ?」
 和彦はなにを言っているのか一瞬理解できなかった。というのも、和彦は週末になると、その場所で子供たちとボールを蹴り合ってきた。颯太だけでなく、長男とも長年そうしてきた。これまでだれからも文句など言われたことはなかったし、前の管理人は子供と一緒に遊んでくれさえした。新しく変わった人なので、事情がわからないのだろうと思った。
「苦情がきてるんです」
 老いたその男は言った。
 森山一家はマンションで暮らして、すでに十五年ほどになる。子供が生まれてからは、いつも中庭で一緒に遊んできた。和彦たちの家族に限ったことではない。キャッチボールやバドミントンをする親子、自転車の補助輪を初めて外して練習する子、縄跳びを競い合う子、居住者が憩いの場として使ってきたはずだ。それをなぜこの初対面の老人から、咎められなければならないのか、理解に苦しんだ。
 和彦がこれまでの経緯を説明し、突然そんなことを言い出すのはおかしい、と抗議したものの無駄だった。
「マンションの敷地内では、子供は遊んではいけないんです。当マンションの規約にありますので」
 最後には、そう締めくくられた。
 管理人は目配せするように、五階建てのマンションをちらりと見上げた。
 なるほどこのマンションのどこかに、だれであれ中庭で遊ぶのを許しがたいと、目を光らせている大人がいるということか。そいつは自分の姿は現さずに、新しい管理人を使って注意を喚起させることにしたらしい。
 どこからか、パン、パン、パンと布団を叩く乾いた音が、コンクリートの谷間に木霊した。叩いている人の姿は見当たらなかった。
 ──いったい、どんな人間なんだろう?
 なんとなく気味が悪かった。
 所詮、管理人は雇われの身なのだ。和彦はそれ以上抵抗するのをあきらめた。
 後日、マンションの管理組合の広報誌に、こう書かれていた。
「マンションの敷地内で子供が遊ぶのは禁止されています」
 たぶんこう書いたこの人には、今現在小さな子供はいないのだろう、と想像がついた。
 マンションの中庭で遊ぶ親子の姿は、それ以降見かけなくなった。子供たちの姿も少なくなった気がする。もしかすると、子供が遊んでいたら、あの管理人に追い払われるのかもしれない。この国では、子供の声が聞こえないことを平穏な暮らしと呼ぶのだろうか。子供が凶悪な事件に巻き込まれるご時世に、親が子供をなるべく自分の目の届く場所に置いておきたいと望むのは、至極まっとうな考えだと和彦は思う。なぜ、子供を遠ざけようとするのか、わからなかった。
 マンションの敷地内に違法駐車されている暴走族仕様の車やバイクの問題は、いっこうに解決していない。犬や猫を飼うことは規約では禁止されているが、平然とペットを飼っている居住者は少なくない。弱い立場の者、言える相手に対してしか、ものを言わないのだろうか。釈然としない物悲しさだけが残った。
「子供を中庭で遊ばせるな」と管理人に通報したのは、どうやらマンションに住む年寄りらしいと妻から聞いた。子供の遊ぶ声や、ボールを地面につく音がうるさいので、二十年以上も前にできた規約を持ち出してきたようだ。要するに、子供はよそで遊べという話らしい。首都圏のベッドタウンとして急速に発展したこの街には、今や空き地や野原はほとんどなく、遊ぶ場所とすれば、公園や校庭などの公共の施設くらいしかない。しかし、それらの場所も子供が自由に遊べるわけではない。
 ──だから、年寄りは嫌いなんだ。
 和彦はため息をついた。
 マンションを購入したのは十五年以上前のことだが、こんなことなら、購入する前に知っておきたかった。高いのぼりに、「当マンションの敷地内では、子供は断固遊ばせません!」と書いておいてほしかった。おそらくそんなマンションなら、子育てを考えている夫婦は、望んで買おうとはしないはずだ。中古で買ったマンションは居住者の高齢化が進んでいる。その大半は自分たちの子供は家を出ていった、子育てを終えた年金暮らしの老人だった。
 
 後日、森山家では、中庭騒動について家族で話し合った。
「なんだよそれ? おかしいでしょ」
 これまで中庭で遊んできた長男が顔をしかめた。
 地元の中学校のサッカー部に入っている長男は、市のトレセンにも参加する選手に育った。長男がサッカーの多くを学んだのは、このマンションの中庭だったはずだ。毎日ボールを蹴っていた。
「ねえ、父さん、颯太のやついいもの持ってるんだよ。それを伸ばすには、今からたくさんボールにさわることが大切なんだ」
 和彦はなにも言えなかった。
「もうマンションの中庭で遊ぶのは、やめにしましょう」
 最後に母親が子供たちに言い聞かせた。声には悔しさが滲んでいた。
 和彦はそれ以上、その件について首を突っ込むのはやめにした。朝、管理人と顔を合わせると、お互い押し黙ったまますれちがった。
 
 翌週、会社の同僚と地下の社員食堂でランチをしているときに、和彦はマンション中庭騒動について話した。同期入社の笹島は一戸建てに住んでいるが、同じように小学生と中学生の子供がいる。一緒に腹を立ててくれると期待した。
「甘いな」
 笹島はすばやく指摘した。「マンションの管理組合なんて、そんなもんさ。たかだかそのマンションに住んでいる、おやじやおばさんの集まりなんだぞ。高齢化が進んだマンションなら、それこそじいさんやばあさんだ。大手企業を退職したじいさんが、勘ちがいして牛耳ってるような世界だろ。そんなもんだよ。声高に話す人間の意見だけが通るんだ。それにマンションの管理人なんて、雇われた弱い立場の人間なんだぜ」
「でもさ……」
「うちの会社だってそうだろ、クレームがきたら、直ちに担当窓口にまわされ、迅速に対応する姿勢を見せるんだ。初動対応が肝心だからな」
 笹島は怒っているのだが、怒りの矛先はどうやら自分とは、ずれている気がした。それではこの世の中は、まるで言った者勝ちの世界のような気がした。でも、和彦は黙っていた。
「それとさ、この国の人間は妬みやすいんだよ。だれかが成功したり、楽しそうにやってたりするのが、面白くないんだ。言えてるだろ?」
「かもな……」
 和彦は、自分よりもいつも少しだけボーナスの額が高い同期の顔から、視線を外した。
「関わり合うだけ時間の無駄だぞ。あんまり真剣に考えるなよ。思春期の中学生じゃあるまいし、社会の矛盾とか叫んでる場合じゃないよ。やっぱり無理してでも、おまえも一戸建てにしとけばよかったんだよ」
 そういう問題じゃない、と言いたかったが、それでその話は終わりにした。
 次の週末から、和彦は颯太と一緒にグラウンド探しを始めた。親子でボールを蹴るのをあきらめたら、それこそ自分たちの敗北を認めたことになるような気がした。
 きっとどこかにあるはずだ。自分たちが望んでいるような場所が。グラウンドの条件は、サッカーボールを親子で気持ちよく蹴れること。ただ、それだけだった。
 
 初めて訪れた青空運動公園には、野球場と球技場があり、敷地のなかほどには芝生が広がっていた。緑色の高いネットフェンスに囲まれた球技場では、ユニフォーム姿の大人たちがサッカーの試合をしていた。緑の多い園内には、施設を縫うようにクッションの効いたジョギングコースが整備されている。和彦と颯太は、その道を芝生の広場に向かって急いだ。
「こいつは、貸し切りじゃないか!」
 ほとんど人のいない広場の芝生を見て、和彦は叫んだ。
「やっほー!」
 颯太は早くもドリブルで走っていく。
 さっそく上着を脱いで、和彦は颯太とボールを蹴り始めた。薄茶色に冬枯れした芝生には、ところどころ白詰草がパッチワークのように生えていたが、とても気持ちがよかった。家から少し距離があるものの、毎週ここへ来ようと和彦は決めた。
 しばらくすると、公園内のジョギングコースを一台の軽トラックがのろのろとやってきて、ふたりに近い場所で止まった。どうやら公園の管理事務所の車らしい。首にタオルを巻きつけた作業服姿の男が、ドアを開けて降りてきた。モスグリーンの長靴を履いた年配の男だった。風貌がどこかマンションの管理人に似ていた。
「入口の看板見ませんでしたか? ここはサッカーなどの危険なスポーツは禁止です」
 男は腰に手を当てて言った。
 和彦の足元をボールが通り過ぎていく。ボールを蹴った颯太は、ばつが悪そうにうつむいてしまった。
「子供とボールを蹴ってるだけですよ」
「危険ですから」
「危険って、周りにだれもいないじゃないですか?」
 和彦は外国人のように両手を大袈裟に広げてみせた。
「あなたたちだけ、特別に認めるわけにはいかないんです」
 言葉遣いは丁寧だが、男の声には苛立ちが滲んでいた。こう言われたら、善良な市民であれば、さっさと引き下がるものなのだろうか。無意識のため息が漏れた。
「サッカーならね、専用グラウンドがあるから、そちらでやってください」
「それって、あそこのことですか?」
 和彦は緑色のネットフェンスに囲まれた球技場を指さした。
「そう、毎月抽選ですけどね」
 男は平然と言ってくれる。
 どういう感覚をしているのだろうと思う。親子ふたりでサッカーをするのに、グラウンドを一面借りろというのだろうか。それとも単なるいやがらせなのか。
「本気で言ってるんですか?」
「規則ですからね」
「でも、だれもいないし、気をつけますよ」
「だから看板を見てくださいよ。『危険なスポーツ、野球やサッカーは禁止』って、ちゃんと書いてあるでしょ。決まりなんです」
「でも、サッカーっていったって……」
 和彦はそのときサッカーのルールブックにある条項を思い出していた。
 サッカー競技規則第三条競技者規則。
『試合は十一人以下の競技者からなる二つのチームによって行われる。チームの競技者のうちの一人はゴールキーパーである。いずれかのチームが七人未満の場合は試合を開始しない』
 親子でボールを蹴り合うのも、危険なサッカーというのだろうか?
「それ、サッカーボールでしょ? あなたどこのクラブの方ですか? あんまりしつこいと、おたくのクラブ、ここのグラウンドを使えなくするよ」
 男はそう言うと、軽トラックにもどっていった。
 軽トラックはすぐには発車しなかった。煙草を吸いながら、和彦たちが立ち去るのを見張っているようだった。管理職になれない自分は、管理人との相性はすこぶる悪そうだ。和彦は唇の端をゆがめて自嘲した。
「いこう」
 つぶやくと、颯太は黙ってついてきた。
 芝生の上をとぼとぼとふたりで歩いた。広場に人の姿が少ない理由がわかった気がした。
 わざわざ車でやってきて、駐車料金まで払ったというのに、このざまだ。どうやらここへは、市民にはあまり来てほしくないらしい。芝生を管理する人間は、芝生が傷むのがいやなのかもしれない。じゃあ、この芝生はいったいなんのために植えたんだ。ベンチに座って眺めていろ、とでもいうのだろうか。規則、規則と言うけれど、それだけ拘束力のある看板の言葉を、いったいいつだれが決めたのだろうか。二度と来るものかと思った。
 夕暮れが近くなったせいか、公園には犬を散歩させている人の姿が多くなっていた。ふたりが広場を横切って歩いていくと、老夫婦が白い服を着せた胴の長い茶色い犬を連れていた。犬は首輪をしていたが、リードを解かれていた。飼い主がボールを投げると、嬉々として追いかけては拾ってきた。犬は何度もそれを繰り返し、それこそ自由に芝生の上を駆けまわっていた。
 ──うちの息子は、犬以下かよ……。
 和彦は心のなかでつぶやいた。もう怒る気にもなれなかった。
 駐車場に看板が立っていた。
 
 子供は地域の宝物
 
 思わず笑いそうになってしまった。
「ごめんな、颯太」
 車に乗り込むと、和彦はうなだれて言った。
 
「お帰り、どうだった?」
 家に帰ると、妻が迎えてくれた。
「どうしたもこうしたもないよ。ボールを蹴りたきゃ、グラウンドを一面借りろとさ」
 和彦はキッチンの冷蔵庫の扉を乱暴に開くと、缶ビールを取り出した。勢いよくプルトップを開け、それほど飲みたくもないアルコールを喉に流し込んだ。
「ねえ、ゲームやってもいいでしょ?」
 颯太は流しの前に立った母親の腰にへばりついて甘えた。
 その姿を見て、和彦は自分の愚かさを感じた。自分はこれまで子供には、晴れた日はゲームなどせずに外で遊べと繰り返し言ってきた。でも、どうなのだろう。それはある意味では、子供に無理難題を押しつけていただけなのかもしれない。携帯ゲームやカードゲームに興じる子供たちを不思議がる大人は少なくない。でも子供がそういう遊びに走る理由をつくってきたのは、大人ではなかったのか。
「颯太だけどさ、これだけサッカーやりたがってるし、スクールに入れようか」
 キッチンから妻の声がした。
「スクールって、いくらぐらいするの?」
 気をとり直して訊いてみた。
「週一回のコースで、月七千円くらい。そのほかに入会金と年会費がかかる」
「ボールを蹴るのに、そんなに金をとられるのかよ。おれが子供の頃はさ……」
 そう言いかけたとき、妻の声が大きくなった。「やめようよ、もう時代がちがうんだからさ」
 言い返そうとしたが、和彦は不意に鼻の奥が熱くなって、言葉に詰まった。
  
 夏、和彦は颯太を車の助手席に乗せて走っていた。颯太の誕生日プレゼントを買いにいった帰りだった。颯太が選んだのはサッカーのゲームソフト。最新式で、自分が選手となって、ピッチでプレーできるモードが付いている。ゲームの世界では、それこそだれにも文句を言われずに、芝生の上で自由にボールを蹴ることができるというわけだ。
 混雑している幹線道路を嫌って、いつもはあまり通らない裏道を使った。大きな椎の木のある神社の前を通り過ぎ、幅員の狭い畑の目立つのどかな道に入った。住宅地のなかでこのあたりだけは、まだ古い農家が取り残されるように点在していた。
 あれからふたりは、ボールを蹴る場所を探すのはやめにした。近所の学校や公園を巡ったが、結局よい場所は見つからなかった。颯太はサッカースクールに通うこともなく、一時期のようなサッカーに対する熱を失ったかにも見えた。
「あれ、おかしいな……」
 和彦は急に不安になってつぶやいた。
「どうしたの、迷っちゃった?」
「いや、この道を抜ければ、うちのマンションの裏通りに出るはずなんだけどな……」
 前方に青色の耕運機がのろのろと走っていた。車のスピードをゆるめて、バックミラーをのぞいた。左側には、さっきからやけに背の高い板塀が続いていた。
「お父さん、止めて」
 不意に窓の外を眺めていた颯太が言った。
「どうした? 気分でも悪くなっちゃったか?」
「そうじゃないよ、今、見えたんだ」
「なにが?」
「ほら、広場だよ」
「広場? そんなもん、どこにもないじゃないか」
 和彦は周囲を見まわした。
「あったよ! 今、通り過ぎた塀の向こうに」
「塀の向こう? 見えるわけないだろ」
「見えたよ、隙間から芝生が見えた。すごく青い芝生だったよ」
 颯太はさっきより強い調子で言った。
「あるわけないよ。ここらへんは、畑ばっかりだ」
 和彦は舌を打ち、ブレーキを踏んだ。
「あったもん!」
 颯太はゲームソフトの入った袋を助手席のシートに放ったまま、ドアを開けると飛び出していった。 
「おい、無茶するなって」
 和彦は慌てて叫んだ。「もどってきなさい!」
 近くには駐車できそうな場所も、Uターンできそうな路地も見当たらなかった。かといって、ここに車を放置しておくわけにもいかない。
「置いてくぞ!」
 もう一度叫び、クラクションを鳴らした。
 ──なにを苛立っているんだ。
 自分でもわかっていた。ため息をつくとシートベルトを外した。
 苛立ったって、この世の中は変わりやしない。和彦は自分に言い聞かせた。そして、あらためて気づかされた。颯太は、まだあきらめてはいない。ボールを蹴る場所を探していたのだ、と──。
 青い葱坊主が並んだ畑にタイヤを寄せて、なんとか車一台が通れるスペースを道路に確保した。エンジンを切って外に出ると、杉板貼りの古めかしい高い板塀沿いに、颯太が走っていくのが見えた。完全に運動不足の重い体でそのあとを追った。
 少し先で立ち止まった颯太が、塀の隙間から向こう側を見ていた。ようやく追いついた和彦も、肩で大きく息をしながら、一緒に塀の隙間からなかをのぞいた。思わず息を呑んだ。そこには思いがけない景色が広がっていた。驚いたことに、たしかに芝生の広場があった。
 颯太が、さらに先へと走り出した。
 でも、和彦はそこから動けなかった。いったいだれがなんのために、この場所に芝生を植えたのだろうか。感心するほどに、そこには広大な芝生の敷地があった。しかも芝生は、見事に青々と色濃く茂っていた。
 どこから入ったのか、颯太が芝生の上に姿を現した。
「おまえ、それはまずいって」
 声をかけたが、気づかない。
 遠くに平屋建ての赤い瓦屋根の家が見えた。高い板塀の内側に建っているその家の庭先には、自家菜園のような場所がある。そこに老いた男がひとり、藍染の作務衣のような服を着て、ステッキに寄りかかるようにして立っていた。
「やばい、じいさんだ……」
 和彦は老人に顔をしかめた。
「もどってこい、怒られるぞ!」
 だが、颯太は吸い寄せられるように、老人のほうへ向かってゆっくりと歩いていった。
 なぜだかその風景は、昔、見たことがあるような気がした。それは和彦が妻と一緒に新婚旅行で訪れた南の島の風景に似ていた。ホテルでレンタカーを借りたふたりは、島の反対側にあるビーチを目指して、だれもいないサトウキビ畑の道を走っていた。丘の上に色とりどりの洗濯物を干した平屋の民家が、ぽつんとあった。晴天の空の下、その洗濯物は、まるで神の啓示のように鮮やかに風にはためいていた。
 しばらく車で進むと、褐色の肌をした一団を見かけた。現地の人らしく、サトウキビ畑の奥で、こっちにおいでと手招きをしていた。和彦は車を止めて、妻と顔を見合わせた。少し迷ったが、アクセルを踏み車をそのまま発進させた。冒険気分で出発したものの、怖気づいたのだ。
 和彦は今でも思うことがある。あのとき彼らの場所に勇気を出して行っていれば、もしかすると、素敵な出会いがあったのかもしれない、と。
 颯太と老人は、菜園を挟んで向かい合っていた。
 老人はうなずくと、ステッキをつきながら家のなかに入っていった。
 ふり返った颯太が手をふった。
 ほどなく老人がもどってきた。歩き方がどこかぎこちなかった。老人は脇に抱えていたものを、青い芝生に立っている颯太に向かって放った。目を凝らすと、それは白と黒のサッカーボールだった。颯太はボールを右足でトラップすると、ドリブルで芝生の上を駆け始めた。
 老人がこちらを見ていた。片手を上げて、ゆっくりとふった。
 どうやらそれは自分に向けられた合図のようだった。
 こっちへおいで、その手はたしかにそうふられていた。
 ──だれなのだろう。
 ──いったいこの場所は、なんのためにつくられたのだろう……。
 それが、森山親子にとって、芝生広場との最初の出会いだった。

ホームグラウンド
『ホームグラウンド』
はらだみずき(著)
本の雑誌社
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