第161回:磯﨑憲一郎さん

作家の読書道 第161回:磯﨑憲一郎さん

2007年に文藝賞を受賞して作家デビュー、2009年には芥川賞を受賞。意欲的な作品を発表し続けている磯﨑憲一郎さん。叙事に徹した日本近代100年の物語『電車道』も話題に。時間の大きな流れの中で生きる人々をとらえたその作品世界は、どんな読書生活から育まれていったのか? 商社に勤めながら40歳を前に小説を書きはじめた理由とは? 

その3「大学では体育会ボート部へ」 (3/5)

――一大学に入っても音楽を続けたのですか。早稲田大学ですよね。

磯﨑:大学に入っても当然音楽をやるもんだと思っていたら、大学のチャラチャラした感じがすごく嫌になってしまって。ちょうど女子大生ブームがあって、学生起業家もすごくもてはやされて。84年ですから、だんだんバブルに近づいて行く時代だったんです。自分は高校時代から私服で自由にしていたけれど、制服を着て真面目な高校生活を送ってきた連中がいきなり「大学は自由だ!」みたいに騒いでいるのを見て、「あんなの自分は高校の時に経験してるじゃん」という気持ちもあったんでしょうね。考えてみたら、嫌な奴ですよね。
それで、大学の浮ついた感じが嫌で、そういうものに背を向けるように、出家するような気持ちで体育会のボート部に入っちゃったんですね。まったく運動経験もないのに、いきなり。

――一いきなりですね。なぜ他の競技ではなく、ボートだったんですか。

磯﨑:ボートって、東京大学が全日本選手権で優勝している唯一のスポーツなんですよ。ある大学の研究室で、各大学の学生が洗面器に水を張って顔を付けて何分間顔を上げずにいられるか実験をしたら、東大生だけ平均値が異常に長くて「なんなんだ」ということになったらしいんです。東大って頭が良くて入る子もいるけれど、根性だけでとにかく頑張って入っちゃう子も多い。それでボートは、そういう人たちに適しているスポーツなんじゃないか、と。センスのあるなしではなく。まあ後々になって、ボートにもセンスが必要だと分かってくるんですけれど。なにより、高校時代の経験者がほとんどいないスポーツであるところがいいなと思ったんです。僕は全然運動の経験がないから、すぐ使い物にならないといってクビになるかとも思ったんですが、始めてみたら意外に合っていたみたいで、大学時代はボートにのめり込みました。

――一いわゆるレガッタという競技ですよね? 練習場が埼玉の戸田にある。

磯﨑:そうです、関東の大学はみんな戸田で練習するんですね。関西は琵琶湖なんです。戸田に合宿所があって、朝は授業に行く前に5時から練習して、学校行ってまた練習して夜は合宿所に戻ってくるという生活でした。年間300日くらい練習していました。

――一体育会というと上下関係が厳しいというイメージがあります。

磯﨑:僕もそれをいちばん恐れていて、徹底的にしごかれることを覚悟して入ったんですけれど、実際はすごく民主的でした。自分の洗濯は自分でするし、食事も食べ終わったら自分の食器は自分で洗う。食事当番だけは順番で回ってくるんですけれど、上級生も下級生も平等でした。これはその前にボート部で改革があったらしいんです。下級生にそういう仕事を押し付けていたら下級生は練習する時間がなくなって、いつまで経っても部が強くならない、って。
僕の同期にはたたまたまバルセロナとアトランタと、オリンピックに2回出場した日本のボート界の名選手がいて、彼から教えてもらったりして。結局卒業してからも20代、結婚する前後までボートを続けるようになります。

――一読書する時間はあったのでしょうか。

磯﨑:やっぱりボートの本を読むんですね。擦り切れるまで読んだのはデイビッド・ハルバースタムというジャーナリストが書いた『栄光と狂気―オリンピックに憑かれた男たち』。原題は"The Amateurs"です。ロサンゼルスオリンピックの代表選考のことをずっと追ったノンフィクションですが、また「そんなことあるのかよ」というくらいなエピソードが多くて。選考会の日はボートコースが一面霧になって5m先も見えなかったという話から、ハーバード大学の伝説のクルーが夜、みんなで車に乗ってドライブスルーでお尻を出した、といった競技とは関係ない話まで書いてある。狂気の域にまで入りこんじゃうような人たちのことを描いたものです。暗記するくらいに読んで、「ジョン・ビグロウが何年にどのレースに出て、何位だった」「ティフ・ウッドは何年何月にどのクルーの何番を漕いでいた」ということまで憶えていました。ボート界にはそういうボートオタクがいて、やっぱり同じように暗記していました。それくらい、当時のボート部員はみんな読んでいた本です。
山際淳司さんの『スローカーブを、もう一球』というノンフィクションに入っている「ひとりぼっちのオリンピック」という短い話も、みんな好きでしたね。冴えない人生を送っていた津田さんという人が「このまま人生終わるのは嫌だ」と思って、ある日突然オリンピックを目指すんです。それでシングルスカルという、一人漕ぎのボート競技を始めるんです、自分独自のやり方で。それで勝ちはじめちゃって、ついにはモスクワオリンピックの代表に選ばれるんですが、その大会を日本はボイコットしたという。そういう話です。津田さんご本人にも一、二度お会いしました。戸田はボートに関わるいろんな人が集まる場所ですから。

――一その頃の磯﨑さんは相当筋肉質な外見だったのでしょうか。

磯﨑:ボートは三大過酷なスポーツと言われているんです。他のふたつはフルマラソンとスキーのクロスカントリー。ボートのエイトだと2000mのレースでタイムは6分くらいなんですが、その6分間でフルマラソンを走ったのと同じくらいのエネルギーを消費すると言われています。だから痩せるためにはボート漕ぎ運動がいちばんいいと思います(笑)。マラソンと一緒で持久系の有酸素運動だから、筋肉もつけるけれど体脂肪率がすごく低かった。みんな10%くらいでした。

――一音楽はもう一切やめたんですか。

磯﨑:1年生の頃に音楽サークルにも入って、それなりに楽しかったし友達もできたし、僕のバンドで渋谷のエッグマンというライブハウスのオーディションに受かってもいたんですよね。東京スカパラダイスオーケストラのギターだった寺師徹さんという人が、プロになるために自分のバンドを抜ける時に「後任のギターは磯﨑がいい」と指名してくれるくらいで、プロミュージシャンに近いところまでいっていたんです。でも、ある出来事があってですね......読書の話からどんどん逸れてしまいますが(笑)、ある時渋谷パルコの上のイベントスペースで、演劇とライブがくっついたようなイベントがあって、そこに先輩が出るので僕も観に行ったんです。当時の最先端の人たちがみんないて、「こういうチャラチャラした感じ、何か違うな」って思っていたんですけれど、そこに坂本龍一さんが来たんですよね。当時はもうYMO全盛期だったから、坂本さんが来るとモーゼの出エジプト記で海が割れたように、わーっと人がはけていく。坂本さんは嫌いでもなんでもないのに、その光景を見たらはっきりと「この世界は何か違う!間違っている!」と思ってしまって。それで出家するような気持ちで、ボート部に入ってしまったんです。

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